高田義裕の人生論

安心しなさい。落ちるだけ落ちたら、後は上がるだけである。気を付けなさい。上がるだけ上がったら、後は落ちるだけである。

高田義裕の人生論

人間には闘争本能がある。

人間とは、争いを好む。誰しも本心では平和を望んでいる。しかし、自分の利益となる事に障害が及ぶと、とたんに怒り出す。すなわち、本性を剥き出すのである。すなわち、自分の利益と相手の利益が一致している前提で平和を望んでいるだけなのである。それは本当に平和主義者とは言えない。真の平和主義者とは、たとえ自分が不利になろうとも、平和を優先する者であるからである。もし、平和になる事で、あなたの貯蓄が減るとしたら、あなたはそれでも平和を望むだろうか。もっと言えば、あなたは自分の命を犠牲にしてまで平和を愛しているか、という事である。そうでは無いだろう。平和とは、自分の命が安全である事の定義であり、本来、自分の命を犠牲にしてまで守る平和など無いからである。要するに、平和は人の数だけあるという事である。すなわち、各々の平和の意味とは、各々の利害の一致に他ならない。よって、すべての人間の利害が一致して初めてみんなが仲良くなれるのであり、各人の利益は個性が違う分、すべて一致するはずが無いのである。すなわち、すべての人が平和になるなど、論理的にあり得ないのである。戦争とは、自分の命が脅かされた時、自分の命を守るために戦う命を懸けた戦いであるからである。私達にとって命がすべてならば、それを守るための戦争は無論、正当化されてしまうからである。これこそ戦争が決して無くならない原因の1つである。よって、人間とは、元々ばらばらな生き物であり、元からまとまれないのである。たとえ、奇跡的に全人類に平和がもたらされても、それは決して長続きしないだろう。例えば、西暦2025年の現在、全世界に平和が訪れたとしよう。しかし、人間とは、再び些細な事で喧嘩を始めるのである。昔は自分の命を守るために人は戦争をした。遥か未来の人間は驚くだろう。昔の人はなんと忍耐強かったのだろうと。我々未来では、相手の服の柄が気にくわないだけで戦争をしているのに、と。このように、人間とは、争う理由が無くなれば、自分達で争う理由を新たに造り出してまで争う生き物なのである。

高田義裕の人生論

真の美しさとは何か?

ある顔が醜い2人の女性がいた。彼女達はお互いの醜さを罵倒し、非難し、罵りあった。しかし、ある時、彼女らよりも醜い1人の女性がやって来て、2人の事を自分よりもましな事を褒め、その良い所を指摘し、慰めた。2人は自分達より遥かに醜い女が自分達の事を褒めてくれた事にびっくりし、お互いに喧嘩し合っていたことを恥じた。それで、彼女達3人は皆、心を開き、非常に仲の良い友達同士となった。これこそ真の美しさである。また、大勢の女性の中でとびきり美しい女性がいた。彼女は自分の美しさにうぬぼれ、傲慢になり、次々と男遊びをしては離婚を繰り返した。これこそ真の醜さである。

高田義裕の人生論

芸術とは何か?

芸術とは何か?それは、汚い欲望を冷めた理性の目で昇華する事である。ポルノは宗教的に人に影響を強く及ぼす害悪であり、決して触れてはならないタブーであるのに対し、ここで一度、目線を変え、ポルノを芸術的と言えば、それは多くの人を強く惹き付ける大いなる力である。すなわち、ポルノを見てマスタベーションして処理してしまうのは、単なる欲望の発散でしかないが、例えポルノを見ても、その欲望に抵抗し続ける力こそが芸術であり、美しさなのである。すなわち、強い欲望を自制によってコントロールし、たとえ、それをしたくてもそれをしない抵抗する力こそが生命そのものであり、生命の起源なのである。なぜなら、人間は誰でも自制し、忍耐し、辛抱することによって、価値あるものを生み出す事ができるからである。よって、芸術とは、遥かに高次元な精神の高潔な活動そのものである。

高田義裕の人生論

トップダウン方式

世の中の変え方

遥か未来でもって、遥か過去をすり替えてしまえる。私が囲碁、将棋の様にこの世界の根源まで100歩さかのぼってこの世界全部を塗り替えたとしても、私より遥か未来の青年が、私よりも1000歩さかのぼってこの世界をさらに塗り替える事ができる。よって、すべては将来いかんにかかっている。すなわち、未来によって過去を無限にすり替えられるという事だ。なぜなら万物の根源は、無限に続いており、終わりは無いからである。すなわち、現在の我々の世界は、遥か未来の人間が考え出して意図的に仕組まれたものに過ぎないかもしれないからだ。