高田義裕の人生論

今日の格言

数学(集合論) 2

すべてのものが含まれるとき、すべてのものが含まれるという事も含まれる。よって、すべての事は含まれる。また、すべてのものが含まれないとき、すべてのものが含まれない事も含まれない。よって、すべてのものは含まれる。

公理 1. すべてのものは含まれる。これを全集合と呼ぼう。

公理 2. すべてのものは含まれない事は存在しない。これをR条件としよう。よって、R条件は存在する。よって、(存在する)=Rである。ここで全集合をQとしよう。Qは存在するから、R=Qである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学(集合論)

どんなに大きい集合でも、すべての集合は、それよりさらに大きい集合の部分集合である。よって、それ以上大きいものがない絶対的な全体集合というものは存在しない。しかし、仮にそれが存在すると仮定して、全体集合をXと呼ぼう。すると、すべての集合はXの部分集合である。すなわち、任意の集合aにおいて、すべての集合aは、X-(X-a)=aと表される。よって、移項して、X=a+(X-a)である。よって、a=Xのとき、X-(X-a)=a+(X-a)である。

高田義裕の人生論

今日の格言

貨幣論

貨幣というものに存在価値を与えているのは分業である。もしすべての事を全部1人でできるなら、貨幣など必要ない。また、必需品以上に贅沢なものが欲しいという、人間の物欲を煽り立て、無駄なものを買わすという事によっても、貨幣に存在価値を与えている。よって、もし人が生活していく上で必要最低限なもので満足すれば、貨幣の存在価値はなくなる。よって、すべての事を全部1人でする事と、生活必需品だけで満足する事は互いに等しい。すなわち、すべての人間が自給自足の生活をすれば、貨幣という存在はその意義を失うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

ある人がレンタカーに毎日乗っているとする。ここで自己所有の車は毎日乗るものである。よって、レンタカーに毎日乗ることは、その車を所有している事に等しいとみなす事が出来る。このように、互いに反対の関係にあるものを、同一のものとみなせるように操作する事を[自己同一性の法則]と言う。例えば、2人は結婚していなくても、毎日一緒に住んで、同棲していたら、結婚とは、毎日の生活を一緒に過ごす事だから、2人は結婚していなくても、結婚しているとみなす事が出来る。

高田義裕の人生論

今日の格言

哲学と宗教の違い

宗教はわかりやすいが、客観的でない。非常に主観的である。哲学は客観的だが、わかりにくい。非常に抽象的である。すなわち、分かりやすさを優先すると正確ではなくなる。しかし、正確さを優先すると、その分、具体性を失い、明確でなくなるのである。

運命論

運命論を否定する人達は、運命とは決まっていない、運命とは自分で切り開くものだ、と言うが、実はそうではない。なぜなら、運命論に従えば、運命とは決まっていない、という事すら決まっているからである。

人生論

なぜ、私達は生きるのか。それは私達が私達自身になるために生きるのである。よって、私達は永久に私達自身になる事は出来ない。よって我々は永久に我々自身になる事を追求していく事が出来る。すなわち、永遠の命である。自殺する人は、この永久の課題を認識する事が出来なかった人達なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生物が細胞分裂するとき、細胞の数がどれだけ増えても、全体の体積と重さは変化しない。毒を持つ生物にはその生物自身には毒は効かないようになっている。すなわち、毒の内部には毒はない。同様に、ブラックホールの最深部には大きな空間が広がっている。

高田義裕の人生論

今日の格言

互いに反対の関係にあっても、一方の否定が必ずしも、もう一方の反対の肯定になるとは限らない。これは例えれば、赤信号と青信号は互いに反対の概念であるが、もし赤信号が存在しないとき、青信号が必ず存在するとは限らないのである。しかしもし、手前の赤信号が点灯しているとき、反対側の信号は必ず青信号になるのである。ここで初めて、一方の否定がもう一方の反対の肯定に必ずなるのである。これを簡略に表すと、ここでアンチαが存在しないとき、確実にαが存在する。しかし、αが存在しなくても必ずしも-αが存在するとは限らないのである。よって、一般的に、あるAが存在するためには、必ず最初にアンチAが存在しなければならない。またアンチAが存在しないとき、必ずAは存在する。

高田義裕の人生論

今日の格言

大患難

世界中で新型コロナウイルスという疫病が猛威をふるっている。もはや、世界のすべての人々が新型コロナウイルスの脅威にさらされた。しかし、将来、必ず起こる、世界レベルでの大患難はこのくらいでは済まない。そう、大患難の日には、1日のうちにありとあらゆる災難が複合的に一気に集中してやって来る。例えれば、人類が今のように疫病の災難に遭っているときに、不意に自然災害が発生し、大雨と雹が降り、人々をことごとく襲う。そして、その次に世界的な食料不足が発生し、人々は飢餓になり飢えて死んでゆく。そこにまた、突然、大地震が人類を襲う。すべての都市や町は崩壊し、津波が人々を襲い、もはや手の付けようのない惨事となる。日本も新型コロナウイルスで苦しんでいる時に、また巨大台風や大雨や南海トラフ大地震が襲う可能性がある。そう、人類の罪によって築き上げてきた驕りの富の世界は遂に報いを刈り取る時が来たのである。そう、人類の神を知らないし、知ろうともしなかった故の、日頃の罪深い行い、すなわち淫行や姦淫や貪欲な商業主義や犯罪や悪行、過度の飲酒や乱行や淫らな行い、浮かれ騒ぎや性的倒錯行為、お金に対する貪欲さやいじめや暴力や不正行為の数々を神はご覧になられたのである。このように、すべての人々に平等に大患難が訪れる時、救われるか、救われないか、は個人レベルで差が出る。すなわち、これまで行ってきた日常の生活態度の積み重ねの結果を刈り取るのである。よって、それまで災難の日のために日頃から準備し、真面目に清く正しく生活してきた者はその災厄から辛うじて生き残ることができる。しかし、いつか来る災難の日のために何の準備もせず、快楽の限りを尽くして遊びほうけてきた者はすべて息絶えるであろう。人々は人類社会で上の立場にある権威者や指導者や政治家に救いを求めるが、それは何のこうも奏さない。人の子に救いはないのである。彼らもまた、愚かであり、あらゆる不正行為にまみれており、全く無力であることを自らが悟るであろう。そう、まさに神を信じてきた者と、神を信じてこなかった者との相違を見るのである。まさにその時、その個人の行いに従って人々は勝ち組と負け組にきっぱりと別れるのである。まさに聖書にこう書かれてある。旧約聖書、マラキ書3章18節、[そしてあなた方は必ず、義なる者と邪悪な者、神に仕える者と仕えなかった者との相違を再び見るであろう。]

高田義裕の人生論

今日の格言

神の別名は謙遜である。謙遜こそ無限で膨大な力となり得るのである。どんな複雑さも謙遜の前には単純であり、どんな力も謙遜の前では無力であり、どんな困難でも謙遜の前では容易である。またどんな悪事でも謙遜の前では良いことであり、どんな善良さも謙遜の前では悪事である。また謙遜の前ではどんな立派で偉大な神々であっても、単なる人である。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神の存在を抜きにして、科学者たちはこの万物の根本的存在とは何か、と日々、明らかにしようと努めている。しかし、それは決して答えの出る事のない、終わる事のない無駄な作業である。例えて言えば、この人間社会を本当に正しく守れるのは誰か、と問う事と同じである。それは警察官であると人は考えるかもしれない。しかし、警察官も一皮むけば、ただの人である。この世には警察官の犯した誤認逮捕や、不正行為や、賄賂行為などの犯罪は後を絶たない。すると、ある人は言うだろう。警察を取り締まる警察を作ればいいと。しかし、もしそうしたとしても、警察を取り締まる警察もまたいずれ違反行為を犯すであろう。そして、人は無限に警察を取り締まる警察のさらにまた警察を考えざるを得ない。そう、これは決して解決する事の出来ないねずみ講、もしくはイタチごっこに過ぎないのである。要するに、神を認めない科学者たちも同じような間違いを犯しているのである。もし、彼らは、ある万物の究極の存在を発見したとしても、それによって、さらにまた、別の問題を発見し、また、そのための解決策の理論を提唱しても、その代わりにまた別の問題が現れるのである。どうであろう、どちらも同じような事ではないだろうか。すなわち、結論として、万物の究極的存在であり、根本的存在である神の存在を認めずして、物事の究極的、絶対的なものとは何かを追い求めようする考え方自体が既に論点からずれており、間違っているのである。