高田義裕の人生論

今日の格言

あなた方は常に笑顔で振る舞うようにしなさい。なぜなら、笑顔はすべて、自分の思い上がり、尊大さ、利己心、高慢さ、傲慢、不満、頑なな傾向、を消してくれるものだからである。そう、常に笑顔で振る舞う人は、真に謙遜でへり下った者だからである。

2.宇宙の初まりは、どのようにして起こったのだろうか、という探求は、我々は将来どうなるのだろうかという探求と同一である。よって答えは決してわからないのである。

3.自分達の限界というものを気付かされた時、すべてのものが初めて見えてくるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

どんなに正しいことも集団と化すと害悪を生じさせる。

どんなに正しいこともそれを個人レベルに留めておけば、何の問題もないのであるが、人々はどうしても正しい事は他の人々にも知って欲しいと思うものだ。例えば、キリスト教においても、個人レベルで聖書を読み、聖書の聖句を正しく適用し、自分に当てはめて生活する分には、何の問題もない。しかし、ある時、カリスマ的宗教指導者が現れて、自分の考えなり、価値観を自分だけに適用するに留まらず、他の多くの人々にもそれを感化させようとする。そして、それに賛同した人々は次第に数が増え、1つの大きな集団と化す。すなわち、組織化するのである。すると、そこにはどうしても集団を1つにまとめる為の規定なり、規則が必要となる。それが問題なのである。人間1人1人は顔が全く違うように、考え方や価値観は全く異なる。それを無理矢理、1つの宗教教理という規定や規則で人々を縛ってしまうのである。すなわち、突然、大勢の人が規律正しく整理され、まるで軍隊のようになるのである。当然、その宗教団体以外の人々はものすごい威圧感を受けるのである。人間個人なら、どんな価値観を持っていても、他の人々はその人に威圧感は感じないのである。多少、変わった人だ、と変人扱いされてそれでおしまいなのであるが、これが集団と化すと、人々はその集団を脅威に感じて、警戒するようになるのである。そう、すなわち、その宗教組織の信者とそうでない人々の間に軋轢や争いが生じてしまうのである。例えば、アメリカにエホバの証人というキリスト教組織がある。彼らは自他共に認めるクリスチャンでは無く、あくまでも自称クリスチャンである。世界中に多くのクリスチャン組織はいっぱいあるが、その人達は自分達が唯一の真のクリスチャンだと自負している。確かに彼らの行っている事はきちんと聖書を読み、それを正しく解釈し、自分の生活に聖書の教えを適用しようとする誠実な態度が見受けられる。そこまでは良いのだが、彼らは他の人々にその宗教教理をできるだけ広めようとしている。そう、彼らの理想は全世界のすべての人々が自分達のようなクリスチャンになる事なのである。ここが問題なのである。この多様性に満ちた世界にいろいろな価値観や考え方があっていいのに、すべての人々が聖書を読み、それを正しく適用して生きるべきだと言い張るのである。そんな事は現実としては遥かに難しい事であろう。リンゴやみかんやオレンジやパインやスイカやメロンとか果物にはいっぱい別々の種類の果物があって当然なのに、彼らはすべての果物はレモンにならなければならないと言っているのに等しいのである。これは多様性を愛する神エホバの考えと一致しない。すべての人間が神エホバに従う事など出来ないのである。神に従う人もいれば、神に従わない人もいて当然なのである。また、彼らの宗教信条には、国家斉唱をしないというものがある。多分彼らは、その組織の発生時期が、ちょうど、第一次世界大戦や第二次世界大戦の時期に当たるので、国家主義、すなわち国粋主義(ナショナリズム)の悪影響をモロに受けた結果、国家斉唱をしないという価値観が生まれたのであろう。なぜなら聖書には国家斉唱をしてはいけない、とは何処にも書かれていないからである。確かに極端な愛国主義は偶像崇拝であるが、国民が普通に感じている愛国心というものは、決して間違ってはいない。なぜならすべての国民は自分達の国があるお陰で普通に生活できるからである。もし、国家という傘下の中にいなかったら、人々は難民となって行き場を失うのである。この耐え難い苦しみはイスラエルのユダヤ人達が一番よく理解している。例えば、あなたがAアパートに住んでいるとすると、あなたは年数が経つうちに、自分の住むAアパートという部屋に愛着を持つのは至極、当然な事なのである。これがA国だとしたら、自分の住むA国に愛着を持つのは決して間違っていないのである。しかし、もしA国、すなわちAアパートの大家がBアパート、すなわちB国に戦争をしかけて彼らを殺して来い、というなら、それは全く別問題である。そう、国の為に命を捨てよ、もしくは他の国の人々を殺せ、というのは全くの間違いであり、それは極端な愛国心であり、それはナショナリズム(国粋主義)という狂気であり、偶像崇拝なのである。なぜなら聖書には人を殺してはならないと書いてあるからである。どんな理由も人を殺す正当な根拠とはなり得ないのである。よって、たとえどんなに正しい事でも個人レベルでは無く、集団レベルで行うと、人々は戦争を引き起こしてしまうのである。いや、たとえ戦争を起こさなくても、日常生活での人々の間に軋轢や争いなどの問題が生じ、お互いが苦しい思いをする事になるのである。よって正しさとは集団化してはならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人はなぜ苦しむか。それは自分のために苦しむから苦痛なのである。人は自分の欲望を遂げようと奮闘するのであり、それが人を苦しめる。よって、もはや人は自分自身のために生きる事をやめ、他の人の益のために生きるべきなのである。なぜなら人の益のために苦しむ事は苦痛ではないからである。むしろ、人の益のために奮闘するとき、人は歓びを感じるものなのであり、自分が他の人の役に立っていると認識するとき、人は苦しみよりも、歓びを感じるものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバの奴隷である、高田義裕から世界中に散らばる真のクリスチャン達へ。親愛なる兄弟姉妹達、私達は数年前までは勝手気ままに自分達の行きたい場所に自由に行動していました。しかし、今年2020年から状況は一変しました。まさに暴風雨がすぐそこまでやって来たのです。我々はもはや自分の自力では命を守れません。そうです、自分の信仰だけではもはや救われないのです。これは父親の手を握って歩く幼児の様です。今までは父の手に手を添えるだけで安心でしたが、突然目の前に竜巻が発生しました。もはや父の手をしっかり握りしめなければ、私達は皆、竜巻に飛ばされてしまいます。しかし、それでも不十分です。私達には、父の手をしっかり握りしめ続ける力(信仰)がないからです。よって、私達は今すぐ父なる神エホバと私達との間に鋼鉄で出来た命綱を体に巻きつけねばなりません。そうすれば、決して父エホバから引き離される事はありません。そうして今、父の体と自分の体にしっかりと命綱を結んだのですから、もはや私達は父を離れて、自分の好きな所に行く事は出来ません。今年から発生したコロナウイルス伝染病から教訓を得なさい。コロナウイルスがやって来る前は、私達は勝手気ままに自分達の行きたい所に自由に行動していました。しかし、コロナウイルス伝染病が到来した今、私達は皆家の中に入り、外に出てはなりません。もし、そうすれば、私達はコロナウイルス伝染病にかかってしまいます。もはや私達は比喩的な意味での家の中というエホバ神の保護のもとにとどまらなければなりません。このコロナウイルス伝染病を契機に、すぐ目の前に暴風雨という大患難が待ち受けています。これらは皆、私達の信仰を試す悪魔サタンからの試練なのです。もはや気ままに行動するべき時期は過ぎたのです。これから人類には試練を乗り越えても、さらなる試練が海の波の様に繰り返し私達を襲うでしょう。このコロナウイルス伝染病はその始まりの最初の部分に過ぎないのです。よって、今は平常時では無く、まさに緊急事態なのですから、我々は自由に行動出来ません。もし、それでも敢えて自由に行動したいなら、あなた方はすべて暴風雨にさらわれるでしょう。そうならない為に、贅沢という自由を犠牲にしても、私達の天の父エホバと密接に繋がっていなさい。そうすれば救われます。あなた方のすべてにエホバ神からの祝福と保護が引き続きとどまりますように、アーメン。

高田義裕の人生論

今日の格言

自分にとって避けたいと思える事が、実は自分にとって一番大切である事が多い。

2.自分にとって好ましいと思える事が、実は自分にとって一番有害である事が多い。

3.義人とは、その者が知りたいと思う事と、知らなければならない事が一致している人のことを言う。

4.自分の理解に頼ってはならない。自分の考えはいずれあなたを窮地に追い込む事になる。まさに自分が仕掛けた罠に自分が掛かってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

論理学

加算法と消去法

我々は普段、物事を知るために加算法を使っている。例えば、黄色いという情報があり、それは酸っぱいという情報を加算し、さらにそれは果物の一種である、という情報を集積して、我々はそれを推測し、最終的にそれはレモンの事であるという判断を下すのである。しかし加算法は今の様に、比較的はっきりとした明確な断片的情報が必要不可欠である。しかし、現実では明確な断片的情報すらわからない事が多い。すなわち、知りたい対象物の情報が曖昧なのである。この時に威力を発揮するのが消去法である。例えば、メアリーとは何者かを知りたいのだが、メアリーに関する情報が曖昧で、これといった正確な解答が得られないでいる。メアリーは先週ドラッグストアに行っていた。そこは川の近くにあるドラッグストアだった。今日メアリーは研究所で魚の餌を調合していた。その研究所は、セントルイス研究所という名称だった。彼女はドラッグストアの近くの川で魚を採取した。しかし彼女はその魚に餌を与えようとしなかった。そしてこの間調合していた餌を川に蒔いた。果たして彼女は何者か、という問いである。その正解を次の5つの選択肢から1つ選べ。

1.彼女はドラッグストアの店員である。

2.彼女は魚を取る釣り人である。

3.彼女はセントルイス研究所の研究者である。

4.彼女は川の毒性を調べている。

5.彼女は魚の餌を作るメーカーの職員である。

さあ、どれが正解であろう。彼女は確かにドラッグストアに行ったが、ドラッグストアの店員かまではわからない。また、メアリーはセントルイス研究所にいたので、その研究所の研究者かもしれない。彼女は魚の餌を調合していたから、彼女は魚の餌を作るメーカーの職員かもしれない。しかし、彼女は魚を採取した時に魚に餌はやらなかった。しかし、彼女は川まで行って魚を採取している。どれも正解に近い感じがするが、しかしこれといって決定的な答えも見出せない。よって、我々は知りたい対象の情報が曖昧なので、当てはまらないものから、順に削除(消去)していくのである。彼女はドラッグストアに行ったが、セントルイス研究所にいたので、おそらくドラッグストアの店員ではない、と判断し、ドラッグストアの店員を削除する。彼女は魚を採取したが、魚の餌を調合していたと書かれてあるから、単なる釣り人ではない事は明らかであろう。これも削除する。彼女はセントルイス研究所にいたから、研究所の研究者かもしれないが、ただそれをはっきり示してくれるものはない。次に彼女は川に行って、自分が調合した餌を蒔いているので、川の毒性を調べているわけでは無さそうである。よってこれらの事を総合的に判断して行くと、魚の餌を作るメーカーの職員はたとえセントルイス研究所の研究者でなくてもその研究所を利用する事はできるから、セントルイス研究所の研究者ではない可能性は高い。よって、彼女は魚と関係性があり、また魚の餌を調合したり、川に蒔いたりしている事を考えると、一番正解に近いのは、選択肢の5の彼女は魚の餌を作るメーカーの職員である、という可能性が一番高い。よって、正解は5の彼女は魚の餌を作るメーカーの職員だという事になる。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神に従うか、従わないか。

神に従わないとは、率直に言うと、一時の快楽に身を委ねるという事である。また、神に従うとは、率直に言うと、一時の快楽に身を委ねないという事である。我々の人生は短い。であるから、どうしても、長期的利益を考えず、短期的利益を優先しやすい。すなわち、今すぐ貰える100万円を取るか、10年後に貰える1000億円を取るかのどちらかに迫られるのである。当然我々は明日どうなるかわからない身だから、今すぐ貰える100万円を選んでしまう。なぜなら、10年間無事に過ごせるかわからないからである。よって神に従っていく人は非常に稀であるという事が分かる。まさに聖書にこう書かれている。新約聖書、マタイによる福音書7章13と14節、イエスキリストがユダヤの民衆に語られた言葉。[狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく、それを通って入って行く人は多いからです。一方、命に至る門は狭く、その道は狭められており、それを見いだす人は少ないのです。]この命に至る道とは、永遠の命の事である。永遠の命とは聖霊による心の奥底から湧き上がる素晴らしい心地良さの事である。本来、生きるとは、恍惚とした、ものすごい歓びなのである。我々は今、それを経験する事は非常に難しい。それを得るには相当の信仰が必要だ。私はそれを夢によって、体験する事が出来た。これはもう、言葉では言い表せないほど、非常に満ち足りた気持ちになれる。はっきり言って、聖霊による歓びに勝る歓びはないと言っていい。それに比べたら、この世の中が提供するどんな歓びもそれに勝らないほどである。ドラッグをやってのセックスのオーガズムや、億万長者や有名人になった時の優越感や、社会に役に立つ発見や発明をして、ノーベル賞をもらう歓びもどれにもそれに匹敵しないのである。ぜひ、一時の虚しい快楽にではなく、本当に満ち足りた気持ちになれる安定した幸福感を味わって欲しい。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

どんな人間も自分を産んだ父と母がいる。もし、進化論が正しいとして、我々人間が偶然の所産で誕生したのだとしたら、それほど不名誉な事はないであろう。進化論の考えに従えば、我々は正当な父と母から生まれたのではなく、父と母でない人達の淫交によって生まれた、望まない子供であり、路地裏に捨てられた孤児である事を正当化する様なものだからである。よって、我々人間は正当な父親であるエホバ神によって、誕生したのだとしたら、それは、我々人間社会の常識において、全く正当で当たり前の事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

なぜ神は私達の祈りを聞かれない場合があるか。それは私達の祈りの内容が誤った認識に基づく場合にのみ限られる。例えば、貧しいのでお金が欲しいと祈っても、それは叶えてもらえない場合がある。なぜなら、あなたの貧しさの原因が浪費癖にあるとしたら、たとえ神が祈りを聞いて、あなたにお金を与えても、あなたはまたそのお金を浪費に使うという事を神は既に見通しておられるからである。それでは解決にならない。すなわち、お金を与える事で、その人の貧しさが本当に解決されるのであれば、神はあなたの祈りを必ず聞いてくださるのである。すなわち、神はあなたの祈りの心の動機を調べておられるのである。その祈りが確かに正当なものであれば、神はあなたの祈りをすぐに聞いてくださる。しかし、逆に、その祈りの動機が何か利己的で、よこしまな傾向があるのであれば、神はその人の心を見られるので、あなたが悔い改めに至るよう、あえて祈りに応えない事により、あなたに戒めを与えておられるのである。よって、あなたの祈りを神が聞いてくださらないとしたら、あなたのその切なる願いが本当の意味であなたの解決にならないから聞いてくださらないのである。よって、祈る前に、自分の心を吟味し、どう祈れば良いかを神に祈りなさい。そうすれば、神はすぐにあなたのその祈りに対して、矯正を施して下さり、あなたがどう祈れば良いか教えてくださるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間1人1人に価値があるわけではない。人は互いに集まりあって、関連し合う事によって、初めて1人1人に価値が生まれるのである。なぜなら、この世の中とは途方もなく大きな機械のようなものである。その機械から1つの部品を取り出しても、その部品自体にはなんの意味もない。あくまでもその機械の中のあるべき位置に正しく取り込まれる事によって初めて機械全体は動き出し、その部品も意味を成すのである。そう、人間1人1人は、この世の中という途方もなく大きな機械の部品1つ1つなのである。よってあなたはこの世の中から1人外れて、孤独になっても、あなた自身の存在に意義は見出せない。むしろこの世の中ときちんと関わり合う事により、初めて、自分自身の存在の意義を見い出せる。そう、あなたは自分には居場所がない、と思って1人、世の中から外れて孤独を選んだのかもしれない。しかし、あなたはこの世の中という途方もなく大きな機械の部品の一部なのである。すなわち、あなたにはあなたにとってふさわしい居場所が必ずあるのである。あなたという部品が1つ欠けても、世の中という途方もなく大きな機械全体は動かないのである。よってこの世の中に、あなたは必要ないと言える人間は1人もおらず、すべての人間の1人1人は必要の故に、あくまでも生を受けたのである。