高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ、同じ罪を犯しても、逮捕される者もいれば、逮捕されない者もいるのであろうか。日本では18歳未満の女性と性関係を持つ事は犯罪である。ヤフーのニュースでは、ほぼ毎日、性的虐待事件や18歳未満の女性と淫らな行いをしたとして男が逮捕されるという報道は後を絶たない。しかし、これは氷山の一角であり、18歳未満の女性と性関係を持っている成人男性はまだまだ沢山いるのである。警察に捕まる者も大勢いるが、まんまと警察に捕まらずにやり過ごし、淫らな行為に引き続き耽っている者も大勢いるのである。これは不公正では無いか。倫理的に言って、悪い事をした者はすべて裁かれるのが正しいはずなのに、現実はそうではない。同じ悪を行っていても、裁かれる者もいれば、裁かれなくて済んでいる者もいるのである。しかし、ここで定義すべき事は、正しさとはその人が行った当然の報いを必ず受けるという事なのである。それに対し、悪とはその人が行った当然の報いを受けないという事なのである。この世界は悪がはびこっており、悪い事をしても繁栄している者が大勢いるのである。そして正しい事を行っていても衰退している者が大勢いるのである。実はこれはすべて偶然の所産なのである。偶然たまたまその場に居合わせたばかりに、爆破テロに遭って死ぬ場合があるのであり、偶然たまたまその場にいなかったため、爆破テロに遭わなくて済んだ場合もあるのである。コインの表の表は裏であり、コインの裏の裏は表であるのと同様に、偶然の偶然は必然であり、必然の必然は偶然なのである。よって、コインを投げて、裏と表が出る確率は、2分の1である。すると表の次にまた表が出る確率は4分の1であり、また、裏の次にまた裏が出る確率も4分の1である。よって、偶然の偶然が出る確率は4分の1であり、必然の必然が出る確率も4分の1である。すなわち、必然的に報いを受ける者の確率は4分の1であり、それは25%である。また、偶然的に報いを受ける者の確率は4分の1である。それは25%である。これは言い換えれば、悪い事をして報いを受ける者の確率は4分の1であり、25%である。また、言い換えれば、悪い事をして報いを受けない者の確率は4分の1であり、25%である。すなわちここで[倫理の均等理論]が働いて、25%-25%=0であり、全体としては悪くも正しくも無いのである。これは例えで言うと、人類の総人口が70億人であるとすると、半分の35億人が悪い事をして報いを受けるのに対し、また半分の35億人が悪い事をして報いを受けないという事になる。よって35億人-35億人=0であり、人類全体としては[倫理の均等理論]が働いて、互いの数が同数である事により、倫理的にはどちらにも偏っておらず、公正であるという事になる。よって私達は悪い事をして報いを受けない者が大勢いると感じるのは物事を部分的にしか見ていないからなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

国家主義(ナショナリズム)の衰退

国家主義はもう古い。経済的に各国がこれだけ他の国に自国の工場を作っていたり、食料を他国から調達していたりして、これだけボーダーを超えて世界が複雑に関わり合っているのに、精神面では、人間はいまだに自分の国が一番である、と思っている。この精神面での国家主義を我々はそろそろ取り除かなければならない。もはや国家とは国民にとって、言語が通じるだけの意味合いしか持たなくなっている。それぞれの国の人々は互いに言葉は通じても、心は通じ合っていないのである。すなわち分裂しているのである。特に昨日のEUから脱退したイギリス国民の間にはいまだにEU残留派とEU離脱派に分裂して口論が絶えない。これではイギリスの言語は言い争うためのツールにしかなっておらず、それに対し、愛や親切は言葉が通じなくても相手には伝わるものなのである。この国家主義という時代遅れの精神論をいまだに引きずっている結果がイギリスのEU離脱という選択であり、いまだにイギリスは国家主義を捨てられず、世界の覇者を目指しているのである。この考えはもはや時代遅れであり、イギリスはEUから離脱するべきでは無かったのである。あくまでも、多少面倒でもEUの国々と連携を取り合って、協力しながら国家運営をしなければならなかったのである。今の時代、一国の力では到底生き延びていけない時代なのであり、互いに協力しながら生きていかないと、いずれは孤立国家として立ち行かなくなってしまうのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

偽りの言葉と真実の言葉

1.貧しい者は言った。お金がすべてではないと。

この言葉は真実である。なぜなら彼はお金が無く、貧しい生活を強いられ、苦しんでいるにもかかわらず、お金を欲しがっていない。これこそ、人間にとってお金はすべてではない事を証明してくれる真実の言葉である。

2.お金持ちは言った。お金がすべてではないと。

この言葉は偽りであり、偽善である。なぜなら彼はお金をたくさん持って、贅沢な暮らしをし、何1つ不自由のない生活を送っている。すなわち、お金がある事による利得を享受しながら、お金がある事を否定しているからである。これには全く説得力が無い。これこそ、人間にとってお金はすべてである事を証明してくれる偽りの言葉である。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

悪とは何か。

悪とは自意識過剰の事である。あなたは息をする時、それを意識しているか。意識していないはずである。それと同様に、あなたは彼に親切にしてあげるのだ、と意識してする事は悪なのである。すなわち、すべて無意識のうちに無心になって行う事こそ正しいのである。よって欲望が悪なのは、それが欲しいと自覚することによって意識しているからに他ならない。何事も一生懸命になって無心になりなさい。そうすれば、あなたはいずれ思いがけない時にそれを得るであろう。この自然な流れこそ大事なのである。また自分を見て、自分は美しいと意識する事が悪なのであり、あなたは全く何の意識もなく相手に親切を示す事によって、他の人がそれを密かに見ていて、あなたの事を美しいと思う事が理想なのである。すなわち、本当の愛は報いを期待しないで示す事なのである。そうすれば、密かに見ておられる神があなたの思いがけない時にそれに報いて下さるのである。よって次の真理が言える。

1.賢くなろうとして意識する者は賢くなれない。

2.幸福になりたいと意識する者は幸福になれない。

3.それを得たいと意識する者はそれを得る事は出来ない。

4.美しくなりたいと意識する者は美しくなれない。

高田義裕の人生論

今日の格言

陰謀論

悪魔サタンがエホバ神に反旗を翻した時、悪魔サタンは神の宇宙主権の正当性を疑った。それは神の全創造物に対する神の支配の仕方には不備があると指摘したのである。それで神エホバはその疑いの論争を巻き起こした悪魔サタンに全創造物を支配させる権限を一時の間、与えた。これはまさに父親が子供を育てる上で、思春期になった子供が父親の自分に対する育て方は間違っている、もしくは私の自由を奪っていると反抗した事に等しい。それで父親はどれだけ自分の子供に対する育て方を自分の口から正しいと論証しても、子供はそれで納得しない事を知っていたので、いったん自分が育てる(支配する)権限をすべて捨てて、自分の子供に好きな様に生きてみるよう自分の親としての権限を子供に与えたのである。こうして、悪魔サタンは最初の人間アダムとエバをそそのかして、自分の側に付かせ、神に対して反逆させた。そうして悪魔サタンはそれ以来、人類社会を自分の支配下に置いたのである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネの第一の手紙5章19節、[また、私たちが神から出ており、全世界が邪悪な者(悪魔サタン)の配下にあることを知っています。]こうして悪魔サタンは一時の間、自分の好きなように自分の支配する力を人類社会の一部の人間達に与えてきた。それは人類の歴史において、世界強国として現し示されて来た。まさに旧約聖書のダニエル書にこう書かれてある。ダニエル書2章31節、ダニエルが人類史で最初の世界強国となるバビロンの王ネブカドネザルに語った言葉。[王よ、あなたは見ておられました。そして、ご覧ください、途方もなく大きな像です。その像ですが、それは大きくその輝きは一方ならぬものでした。それがあなたの前に立っていました。その有り様は恐ろしいものでした。その像は、頭は良質の金、胸と腕とは銀、腹と股とは銅、脚部は鉄、足は、一部は鉄、一部は成形した粘土でした。]この様に人類の歴史は巨大な像に例えられており、頭の金の部分はバビロニア帝国を表していた。そして二番目に銀で出来た胸と腕はギリシャ帝国を表している。そしてその次に現れたのは、三番目の世界強国、すなわち、銅で出来た腹と股の部分、メディア・ペルシャ帝国であった。そして四番目の世界強国、すなわち、脚部である鉄の部分であるローマ帝国が現れた。そうして年月が過ぎ、人類世界の終わりの最終部分、すなわち、足の一部は鉄、一部は粘土で形成された部分とは、粘土で表されている民主主義国家イギリス・アメリカ世界強国である。一部の鉄の部分は独裁体制の共産主義の国々、すなわち、ロシアや中国や北朝鮮を表している。すなわち我々の住んでいるこのハルマゲドン体制という西暦2020年の現在において世界を支配しているのは、イギリス・アメリカ世界強国なのである。悪魔サタンは今これらの帝国に自分の人類を支配する力を与えている。ここから陰謀論が始まる。まず、西暦1912年4月15日、イギリスのサウサンプトンからアメリカ合衆国のニューヨーク行きの大型客船タイタニック号が、沈没する。しかし、これは陰謀であり、タイタニック号が沈没する事は船が出港する以前から支配者達によって決められていた。これは事故ではなく、明らかな計画的人災なのである。タイタニック号を作った会社が、膨大な借金で苦しんでいた。それで、タイタニック号に巨額の保険金をかけてわざと沈没させ、それにより、保険会社から莫大な保険金を得たのである。次に時は進んで、西暦1941年12月8日、日本はアメリカ合衆国のハワイ・オアフ島にあった真珠湾(パールハーバー)を攻撃した。第二次世界大戦である。しかし、アメリカの上層部は事前に日本が真珠湾を攻撃する事を知っていた。知っていてわざと攻撃させたのである。それは戦争を始めるための大義名分を世界各国に示すためであった。アメリカ政府は戦争をしたいばっかりに、真珠湾にいたアメリカ人兵士達や、民間人、すなわち、自国民を平気で犠牲にしたのである。その精神は今も続いている。最近の出来事としては、西暦2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件である。イスラーム過激派組織アルカイーダによる民間飛行機がハイジャックされ、貿易ビルに激突させた。しかし、これもアメリカ政府の上層部は事前にその計画を知っていた。知っていてわざと攻撃させたのである。それは戦争をしたいための大義名分を世界各国に示すためであった。これをきっかけにアメリカはアフガニスタン紛争、イラク戦争を開始した。これもまた戦争をしたいばっかりに自国民を平気で犠牲にしたのである。この様に今、全人類を支配する悪魔サタンはその支配をアメリカに本拠地を置いている。悪魔サタンはこの様に平気で人を殺す残虐な支配者なのである。そして最後に新型肺炎コロナウイルスである。今年の西暦2020年1月に中国の武漢市で起こった疫病は猛烈な勢いで世界中に蔓延している。まるで映画のバイオバザードの様相である。去年の西暦2019年には、米中貿易戦争があった。この新型肺炎事件も自然発生したとは思えない。これは故意にコロナウイルスを蒔いた人災である可能性が高い。中国を目の敵にしているのは、アメリカの上層部である。アメリカの上層部側がコロナウイルスを蒔いた可能性も否定出来ない。この後、世界は二極化する。すなわち、2つの世界強国が対峙する事となる。1つは南の王であり、もう1つは北の王である。まさに聖書にこう書かれてある。旧約聖書のダニエル書11章5節、[そして、南の王、すなわち彼(北の王)の君たちの1人が強くなる。これは彼(北の王)に対して優勢になり、その支配力に勝る広範な統治権をもって支配することとなる。]ここで北の王とは、イギリス・アメリカ世界強国を表している。これに対する南の王は残念ながら、世界制覇を目指す中国ではない。それはロシアである。近い将来、イギリス・アメリカ世界強国をしのぐほどの勢力をロシアが持つようになるのである。このようにざっと人類の世界史を見てきたが、最後には悪魔サタンは神によって滅ぼされる事となる。その一時の、人類を支配する権利は神によって剥奪され、最終的には神の全創造物に対する支配の仕方は正しい事が立証されるのである。まさに聖書にはこう書かれてある。新約聖書のヨハネの黙示録22章1節から5節、[また彼(イエスキリスト)は水晶のように澄みきった、命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊(イエスキリスト)とのみ座から出て、その大通りの中央を流れていた。そして、川のこちら側と向こう側には、月ごとに実を生じ、実を12回生み出す、命の木があった。そして、その木の葉は諸国民を癒すためのものであった。そして、もはや何の呪いもない。神と子羊とのみ座がその都市の中にあり、その奴隷たちは神に神聖な奉仕をささげるのである。彼らは神の顔を見、その御名が彼らの額にあるであろう。また夜はもうない。それで彼らは灯し火の光を必要とせず、太陽の光も持たない。エホバ神が彼らに光を与えるからである。そして彼らは限りなく永久に王として支配するであろう。]そうである、最後には神の王国が人類の世界強国として永久に支配するのである。その時はまさに嘆きも叫びも苦痛ももはや過去のものとなる。よってたとえ現在、悪魔サタンが我々の人類社会を支配しているにしても、すべてのものはエホバ神の手中にある事を忘れないようにしよう。たとえどれだけ悪魔サタンが自由闊達に支配権を振り回しているように見えても、それらはいずれも、神の手の中で踊らされている家畜に過ぎないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

本当にカッコ良いという事は、全くカッコウを気にしないという事なのである。すなわち、すべて自分の評価は自分が下すものでは無く、他の人が下すものである。また、他の人の評価はあなたが下すものでは無く、神エホバが下すものである。よって、自分の事も他の人の事もそれらに対する評価は生けるまことの神エホバの所有であるという事である。

2.はっきりと言っておく。真のクリスチャンとは、決して自由人では無く、自らに対する主人でも無く、義を行う事しか知らない幼児であり、真理のためにしか動けない不具者であり、神という主人に対しての奴隷にしか過ぎないという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間は自分の弱いところを強化し、自分の得意な分野をさらに向上させる努力をしないと、この人生という長い耐久レースに耐える事が出来ない。

[サンプル1.]  スポーツレーシングのル・マン耐久レースが始まった。ホンダはまず、全くノーマルな自家用車を走らせた。すると、まず、一番弱い所からシャシーが壊れていった。それからレースが進むにつれ、弱い箇所順からだんだんとボルトのネジが外れ、そうして遂に車はレースが終わらないうちにリタイアしてしまった。

[サンプル2.]   ホンダは去年の痛々しい敗北から学んで、まず車の弱い箇所を強く補強させた。そしてホンダの得意とするエンジンを載せて、再びル・マン耐久レースに挑んだ。その結果、去年と違って弱い箇所を強く補強させたおかげで、シャシーは壊れる事なく、レースを続けられた。しかし、一番ホンダの得意としていたエンジンがル・マン耐久レース用に作られていなかった為、あと1周という所でエンジンが火を吹き、リタイアした。

[サンプル3.]   ホンダは一昨年、自分達が得意として誇りにしていたエンジンが火を吹いた事にショックを隠しきれず、これではレースに勝てないと深く反省して、弱い箇所をさらに強くし、同時に得意とするエンジンも試行錯誤の末、ル・マン耐久レースに耐えられる以上のエンジンを新開発し、再びレースに臨んだ。その結果、ホンダはワールドレコードを叩き出し、トップ優勝した。

どうであろう、車も人間も同じである。人は自分の弱いところをまず直して強化していかなければならないのであり、それだけでは不十分で、自分の得意な能力も引き続き努力して伸ばしていかなければ、先ほどのレースのように、一番得意なエンジンで火を吹くような事になってしまうのである。すなわち、自分の強みを過信して、油断するとそこから壊れていくのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

愛とは愚かさの中で最も愚かなものである。愛は自分が不利益を被ってまでも、他の人を優先する事であり、自分の命を犠牲にしても我が子に尽くす事なのである。これは利益と効率優先という賢さから見れば、非常に愚かな事である。しかし私達人間は常に愛を必要としている。人は愛されなければ正常には生きてはいけない。すなわち、我々は愚かさを必要としているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

完璧な賢さには知性がない。例えば、人工知能(AI)は完璧である故にそれは知性ではない。たとえチェスで人工知能が人間に勝ったとしても、それは人工知能の方が頭が良かったからでは無い。人工知能はただ単にあらゆる諸事象のパターンをすべて網羅し、解析して、確率的に当たる頻度の高い事柄を数値化している作業に過ぎないのだ。要するに最低値と最高値を見つけるだけの2進法を膨大な中から選ぶ作業が人より速いだけなのである。では知性とは何か。それは不完全さである。私達は不完全さという愚かさをいつも楽しんでいるのではないだろうか。それはスポーツである。スポーツは完全では無いところに面白みがある。相手のミスを巧みに利用し、その隙を攻撃してゴールしたり、ポイントを取るのがスポーツの醍醐味であり、我々は相手の油断した隙を巧みに突くところに知性を感じ、そうする能力が高い事が賢い選手と言われるのである。すなわち、不完全さ故に思わぬ想定外の展開が生じ得て、それに機敏に対処できる事が知性であり、賢さなのである。人工知能は物事の予測は出来ても、予測出来ない思わぬ想定外の事態に機敏に対処出来ない。それが出来るのは、不完全で愚かさを持った我々人間なのである。すなわち愚かさとは物と物との間のクッションの役割を果たす一種のアブソーバー(遊び)なのである。自動車のハンドルもわざと遊びを持たせて運転しやすいように作られているし、人間関係も愛という愚かさによって、人間と人間の間を取り持つ潤滑油となって、初めて人間関係は上手くいくのである。すなわち賢さとは愚かさの事であり、あえて無駄を楽しむ遊び心の事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

仏教では座禅を組むという修業の仕方がある。ひたすら座禅を組み、心の中にある邪念や煩悩を少しずつ取り払っていくのである。そして座禅の究極の境地は心を無の状態にすることなのである。すなわち、頭の中を空っぽの空の状態にする事であり、それによってあらゆる執着心や欲望から自由になるのである。ここで座禅の目的は終了されるのであるが、実はこの先にはまだ続きがある。人は心の中からひとたび悪いものを取り出して空っぽにし、無の境地を得た。それはそれで良いのだが、もしそのままの心の状態にしておくと、自分が意識しないうちに次第にまた心の雑草が生えてきて、心の中に悪いものがまた棲みつく様になってしまうのである。よって、せっかく心の中を洗浄して、心を空っぽにしたのなら、それを空っぽの状態のままにしておくのでは決して無く、その代わりに良いもので心を満たさなければならないのである。良いもので満たしておけば、それ以上、他の異物が心の中に浸入してくる事は無いのである。もしそうしなければ、その人の心の状態はその最初よりも悪くなってしまうのである。まさに聖書にこう書かれている。マタイによる福音書12章43から45節、[汚れた霊は、人から出て来ると、休み場を捜し求めて乾ききった所を通りますが、どこにも見いだせません。そこで、(出て来た自分の家に戻ろう)、と言います。そして、着いてみると、それは空いていますが、きれいに掃かれ、飾りつけられています。そこで、出かけて行って、自分より邪悪な7つの異なった霊を連れて行き、彼らは中に入ってそこに棲みつきます。こうして、その人の最終的なありさまは最初より悪くなります。この邪悪な世代もそのようになるでしょう。]