高田義裕の人生論

今日の格言

本当にカッコ良いという事は、全くカッコウを気にしないという事なのである。すなわち、すべて自分の評価は自分が下すものでは無く、他の人が下すものである。また、他の人の評価はあなたが下すものでは無く、神エホバが下すものである。よって、自分の事も他の人の事もそれらに対する評価は生けるまことの神エホバの所有であるという事である。

2.はっきりと言っておく。真のクリスチャンとは、決して自由人では無く、自らに対する主人でも無く、義を行う事しか知らない幼児であり、真理のためにしか動けない不具者であり、神という主人に対しての奴隷にしか過ぎないという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間は自分の弱いところを強化し、自分の得意な分野をさらに向上させる努力をしないと、この人生という長い耐久レースに耐える事が出来ない。

[サンプル1.]  スポーツレーシングのル・マン耐久レースが始まった。ホンダはまず、全くノーマルな自家用車を走らせた。すると、まず、一番弱い所からシャシーが壊れていった。それからレースが進むにつれ、弱い箇所順からだんだんとボルトのネジが外れ、そうして遂に車はレースが終わらないうちにリタイアしてしまった。

[サンプル2.]   ホンダは去年の痛々しい敗北から学んで、まず車の弱い箇所を強く補強させた。そしてホンダの得意とするエンジンを載せて、再びル・マン耐久レースに挑んだ。その結果、去年と違って弱い箇所を強く補強させたおかげで、シャシーは壊れる事なく、レースを続けられた。しかし、一番ホンダの得意としていたエンジンがル・マン耐久レース用に作られていなかった為、あと1周という所でエンジンが火を吹き、リタイアした。

[サンプル3.]   ホンダは一昨年、自分達が得意として誇りにしていたエンジンが火を吹いた事にショックを隠しきれず、これではレースに勝てないと深く反省して、弱い箇所をさらに強くし、同時に得意とするエンジンも試行錯誤の末、ル・マン耐久レースに耐えられる以上のエンジンを新開発し、再びレースに臨んだ。その結果、ホンダはワールドレコードを叩き出し、トップ優勝した。

どうであろう、車も人間も同じである。人は自分の弱いところをまず直して強化していかなければならないのであり、それだけでは不十分で、自分の得意な能力も引き続き努力して伸ばしていかなければ、先ほどのレースのように、一番得意なエンジンで火を吹くような事になってしまうのである。すなわち、自分の強みを過信して、油断するとそこから壊れていくのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

愛とは愚かさの中で最も愚かなものである。愛は自分が不利益を被ってまでも、他の人を優先する事であり、自分の命を犠牲にしても我が子に尽くす事なのである。これは利益と効率優先という賢さから見れば、非常に愚かな事である。しかし私達人間は常に愛を必要としている。人は愛されなければ正常には生きてはいけない。すなわち、我々は愚かさを必要としているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

完璧な賢さには知性がない。例えば、人工知能(AI)は完璧である故にそれは知性ではない。たとえチェスで人工知能が人間に勝ったとしても、それは人工知能の方が頭が良かったからでは無い。人工知能はただ単にあらゆる諸事象のパターンをすべて網羅し、解析して、確率的に当たる頻度の高い事柄を数値化している作業に過ぎないのだ。要するに最低値と最高値を見つけるだけの2進法を膨大な中から選ぶ作業が人より速いだけなのである。では知性とは何か。それは不完全さである。私達は不完全さという愚かさをいつも楽しんでいるのではないだろうか。それはスポーツである。スポーツは完全では無いところに面白みがある。相手のミスを巧みに利用し、その隙を攻撃してゴールしたり、ポイントを取るのがスポーツの醍醐味であり、我々は相手の油断した隙を巧みに突くところに知性を感じ、そうする能力が高い事が賢い選手と言われるのである。すなわち、不完全さ故に思わぬ想定外の展開が生じ得て、それに機敏に対処できる事が知性であり、賢さなのである。人工知能は物事の予測は出来ても、予測出来ない思わぬ想定外の事態に機敏に対処出来ない。それが出来るのは、不完全で愚かさを持った我々人間なのである。すなわち愚かさとは物と物との間のクッションの役割を果たす一種のアブソーバー(遊び)なのである。自動車のハンドルもわざと遊びを持たせて運転しやすいように作られているし、人間関係も愛という愚かさによって、人間と人間の間を取り持つ潤滑油となって、初めて人間関係は上手くいくのである。すなわち賢さとは愚かさの事であり、あえて無駄を楽しむ遊び心の事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

仏教では座禅を組むという修業の仕方がある。ひたすら座禅を組み、心の中にある邪念や煩悩を少しずつ取り払っていくのである。そして座禅の究極の境地は心を無の状態にすることなのである。すなわち、頭の中を空っぽの空の状態にする事であり、それによってあらゆる執着心や欲望から自由になるのである。ここで座禅の目的は終了されるのであるが、実はこの先にはまだ続きがある。人は心の中からひとたび悪いものを取り出して空っぽにし、無の境地を得た。それはそれで良いのだが、もしそのままの心の状態にしておくと、自分が意識しないうちに次第にまた心の雑草が生えてきて、心の中に悪いものがまた棲みつく様になってしまうのである。よって、せっかく心の中を洗浄して、心を空っぽにしたのなら、それを空っぽの状態のままにしておくのでは決して無く、その代わりに良いもので心を満たさなければならないのである。良いもので満たしておけば、それ以上、他の異物が心の中に浸入してくる事は無いのである。もしそうしなければ、その人の心の状態はその最初よりも悪くなってしまうのである。まさに聖書にこう書かれている。マタイによる福音書12章43から45節、[汚れた霊は、人から出て来ると、休み場を捜し求めて乾ききった所を通りますが、どこにも見いだせません。そこで、(出て来た自分の家に戻ろう)、と言います。そして、着いてみると、それは空いていますが、きれいに掃かれ、飾りつけられています。そこで、出かけて行って、自分より邪悪な7つの異なった霊を連れて行き、彼らは中に入ってそこに棲みつきます。こうして、その人の最終的なありさまは最初より悪くなります。この邪悪な世代もそのようになるでしょう。]

高田義裕の人生論

今日の格言

すべてAになりたいと思ってAになる事は出来ない。もしAになりたい場合、それよりもさらに上の段階のA+1を目指すべきであり、そうしていくうちに知らず知らずのうちにAの段階に到達しているという状態が望ましいのである。例えば、お金持ちになりたいと思って行動しても決してお金持ちになる事は出来ない。そうではなく、世の中を変えてやろうという、もっと大きな夢を持って行動すれば、世の中を変える事は出来なくても、当初の目的である、お金持ちに知らず知らずのうちになっているのである。また、政治家になりたかったら、もっと目標を高く持って、大統領になってやろうと思うのである。そうすれば大統領にはなれなくても、当初の目的である政治家に知らず知らずのうちになっているのである。また、店長になりたいと思ったならば、どうせならもっと目標を高く持って、社長になってやろうと思うのである。そうすれば、社長にはなれなくても、当初の目的である店長に知らず知らずのうちになっているのである。これを[倫理の過剰法則]と言い、A-A=0であり、これでは何も残らない。しかし、(A+1)-1=Aであり、Aが残ってそれは達成される。よって自分が思い描いた理想よりも現実は常にそれより少ない-1を消費する。すなわち理想と現実のギャップというやつである。これは10リットルの水を入れるためには、その容器は10リットル以上の容積を持たねばならないのと同じ理屈である。

高田義裕の人生論

今日の格言

悪とは何か。善とは何か。

悪とは何か。それは短期的利益の事である。善とは何か。それは長期的利益の事である。これらは互いに真逆の関係にある。すなわち、短期的利益は長期的には損をするし、長期的利益は短期的には損をするのである。例えば、原子力発電は短期的に莫大なエネルギーを得られる利点があるが、その代償として、何万年にも及ぶ放射性物質という害悪を生じさせる。それに対し、木を植える事は短期的には益にならないが、長期的には地球の森林自然を守る働きをして益になる。また、一時の快楽を求めて違法ドラックを楽しめば、その代わりに脳細胞は破壊され、廃人となる。しかし、将来の楽のために長期的に子供を育てる事は自分が歳をとってから子供に世話してもらえる分、益になる。人間関係も同じである。目先の利益のために他の人を利用する事は、その代わりに人から恨みを買い、いずれ殺される。しかし、長い人生、何があるか分からないから、今は損をしても、他の人に親切を施し続けるなら、いざ、自分が窮地に立った時、自分がしてきたのと同様に他の人達から親切を受け、助けられる。そう考えると、人間の作り出した資本主義というシステムは、目先の利益のために他の人達から高い値で品物を売り、目先の利益のために株を売り買いする面においては、短期的利益を追求する社会システムなのであり、資本主義は悪なのである。そう、資本主義こそ、目先の自分達だけの利益しか考えずに行動するから、長期的利益のためにゆっくりと長い年月をかけて育まれてきた自然や生態系を破壊し、それを犠牲にして利潤を得ているのである。すなわちビジネスの理念そのものが生きる生き物にとって悪であり、害悪と言って良い。これだけ人間社会が荒廃し、自然災害が多くなって来ているのは、すべて人間の目先の利益の獲得の為に血まなこになっている人々の欲望を原動力に成り立っている資本主義に他ならないのである。よって、もはや人間は他の生き物や自然資源を犠牲にして利潤を得るだけのものを使い果たしてきたのであり、その意味でもはや資本主義を続ける事は不可能なのである。そうである。資本主義の終焉がすぐそこまで来ているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人にとっては人と競って勝利する事よりも、人と常に仲良くやっていく事の方が人生にとって真の勝利者となること。

2.マスターベーションという自分本位のファンタジーという利己的行為で満足しているうちは、現実の存在である1人の異性をも満足させられないであろう。

3.幸せになりたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。また、お金持ちになりたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。また、愛されたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。よって結論として、幸せは得ようとして得られるものではなく、お金持ちはなりたいと思ってなれるものではなく、愛される事は愛して欲しいと思って愛してもらえるものではないのである。よって人よ、幸せになりたければ、まず他の人を幸せな気持ちにさせよ。それにより、他の人のあなたに対する感謝が、あなたの心に喜びを生じさせ、その喜びは生きる意欲を生じさせ、自分に対する自信を生じさせる。その自信は自己肯定感を高めて新たな意欲を生じさせるのである。この様に幸せになりたければまず相手を幸せにしなさい。そして愛されたければ、まず、あなたが他の人を愛してあげなさい。そうすれば相手もあなたの事を愛してくれる様になる。何しろ幸福になる秘訣は要求する事ではなく、まずあなたの方から相手に与える事にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

受験の悲劇

彼は学問の勉強はやってきたが、人生の勉強は少ししかやってこなかった。それで、人にとってより大事なのは人生の勉強の方だったのである。そしてタチの悪い事に、彼は知識だけは持ち得ている分、人生を仮想現実的に評論家のような態度を取る。すなわち頭の知識だけで人生を知ったつもりになっているため、心のプライドだけは非常に高いのである。それで社会に出ても、社交性が乏しいから、仕事も職場の同僚や先輩とうまくコミュニケーションが取れない。それで彼は非常に悩んで仕事を辞めてしまう事になる。そして一歩踏み間違えると、あとは雪崩の様に人生を転げ落ちていく。これが現代の受験の悲劇なのである。本来学問が好きな者だけ大学に行けばそれで良いのである。世の中に出れば、引き算と足し算さえできれば仕事が出来るし、学生の頃に習った微分積分などの知識は社会に出たらほとんど使う事はないのである。そんな知識は数学者になりたい人だけ勉強すれば良いのだ。よって勉強が嫌いな人は中学校を卒業したらさっさと働けば良いのである。中国の孔子が勧めた科挙による試験で優秀な人材を選び、その様な者こそ役人や官僚になるべきであり、君子が政治を治めるべきだという考え方は一見正しいようで実は問題を多く抱えているのである。みんながみんな君子になる必要はないのである。よって受験戦争とは人の弱点を巧みに突いたプライドという心理に訴えた自尊心を逆手にとった殺人システムと化しているのである。我々はそろそろ学歴社会を捨てて、もっと幅広い多様性に富んだ教育システムを早急に構築しなければいけない。世の中とは賢い人が支配してうまくいくものでは無く、大勢の人の多様性という役割分担によって成り立っていくものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人の幸、不幸の分かれ道はただ心の持ちようにのみかかっていること。

2.何もしようとしない者は本当の怠け者か、そのままで自分が一番偉いと思っている者のどちらかである。

3.人生をうまく渡る秘訣とは、一言で言って、たとえそれが本当の事実であったとしても、それをあえて言わないということのみにかかっているのである。なぜなら、いつでも誰であっても、真実とは常に残酷なものであるから。

4.神は私達に奇跡を見せてくれないと言っている者達よ、私達がごく普通に生きるためには奇跡が必要不可欠なのである。それは離婚した女性が生まれた子供を1人身で働きながら育てる事であり、1人の若者が貧しさに耐えながら勉強に励んで仕事と勉強を両立させながら生きることであり、目の見えない者が必死に努力して立派なピアニストにまでなることであり、手のない者が過酷な自転車レースに挑んで優勝する事であり、精神を病んであまりにも凶暴過ぎて牢屋に入れられていた者が、周りの人達の愛ある協力で遂には普通に働けるまで回復した事なのであり、挙げたらキリが無いのである。