高田義裕の人生論

今日の格言

すべてAになりたいと思ってAになる事は出来ない。もしAになりたい場合、それよりもさらに上の段階のA+1を目指すべきであり、そうしていくうちに知らず知らずのうちにAの段階に到達しているという状態が望ましいのである。例えば、お金持ちになりたいと思って行動しても決してお金持ちになる事は出来ない。そうではなく、世の中を変えてやろうという、もっと大きな夢を持って行動すれば、世の中を変える事は出来なくても、当初の目的である、お金持ちに知らず知らずのうちになっているのである。また、政治家になりたかったら、もっと目標を高く持って、大統領になってやろうと思うのである。そうすれば大統領にはなれなくても、当初の目的である政治家に知らず知らずのうちになっているのである。また、店長になりたいと思ったならば、どうせならもっと目標を高く持って、社長になってやろうと思うのである。そうすれば、社長にはなれなくても、当初の目的である店長に知らず知らずのうちになっているのである。これを[倫理の過剰法則]と言い、A-A=0であり、これでは何も残らない。しかし、(A+1)-1=Aであり、Aが残ってそれは達成される。よって自分が思い描いた理想よりも現実は常にそれより少ない-1を消費する。すなわち理想と現実のギャップというやつである。これは10リットルの水を入れるためには、その容器は10リットル以上の容積を持たねばならないのと同じ理屈である。

高田義裕の人生論

今日の格言

悪とは何か。善とは何か。

悪とは何か。それは短期的利益の事である。善とは何か。それは長期的利益の事である。これらは互いに真逆の関係にある。すなわち、短期的利益は長期的には損をするし、長期的利益は短期的には損をするのである。例えば、原子力発電は短期的に莫大なエネルギーを得られる利点があるが、その代償として、何万年にも及ぶ放射性物質という害悪を生じさせる。それに対し、木を植える事は短期的には益にならないが、長期的には地球の森林自然を守る働きをして益になる。また、一時の快楽を求めて違法ドラックを楽しめば、その代わりに脳細胞は破壊され、廃人となる。しかし、将来の楽のために長期的に子供を育てる事は自分が歳をとってから子供に世話してもらえる分、益になる。人間関係も同じである。目先の利益のために他の人を利用する事は、その代わりに人から恨みを買い、いずれ殺される。しかし、長い人生、何があるか分からないから、今は損をしても、他の人に親切を施し続けるなら、いざ、自分が窮地に立った時、自分がしてきたのと同様に他の人達から親切を受け、助けられる。そう考えると、人間の作り出した資本主義というシステムは、目先の利益のために他の人達から高い値で品物を売り、目先の利益のために株を売り買いする面においては、短期的利益を追求する社会システムなのであり、資本主義は悪なのである。そう、資本主義こそ、目先の自分達だけの利益しか考えずに行動するから、長期的利益のためにゆっくりと長い年月をかけて育まれてきた自然や生態系を破壊し、それを犠牲にして利潤を得ているのである。すなわちビジネスの理念そのものが生きる生き物にとって悪であり、害悪と言って良い。これだけ人間社会が荒廃し、自然災害が多くなって来ているのは、すべて人間の目先の利益の獲得の為に血まなこになっている人々の欲望を原動力に成り立っている資本主義に他ならないのである。よって、もはや人間は他の生き物や自然資源を犠牲にして利潤を得るだけのものを使い果たしてきたのであり、その意味でもはや資本主義を続ける事は不可能なのである。そうである。資本主義の終焉がすぐそこまで来ているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人にとっては人と競って勝利する事よりも、人と常に仲良くやっていく事の方が人生にとって真の勝利者となること。

2.マスターベーションという自分本位のファンタジーという利己的行為で満足しているうちは、現実の存在である1人の異性をも満足させられないであろう。

3.幸せになりたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。また、お金持ちになりたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。また、愛されたいという欲求が渇望を生じさせ、その渇望が失意を生じさせる。そしてその失意は心のフラストレーションとなって、心と体に蓄積していき、最後には人を病の床へ追いやる。よって結論として、幸せは得ようとして得られるものではなく、お金持ちはなりたいと思ってなれるものではなく、愛される事は愛して欲しいと思って愛してもらえるものではないのである。よって人よ、幸せになりたければ、まず他の人を幸せな気持ちにさせよ。それにより、他の人のあなたに対する感謝が、あなたの心に喜びを生じさせ、その喜びは生きる意欲を生じさせ、自分に対する自信を生じさせる。その自信は自己肯定感を高めて新たな意欲を生じさせるのである。この様に幸せになりたければまず相手を幸せにしなさい。そして愛されたければ、まず、あなたが他の人を愛してあげなさい。そうすれば相手もあなたの事を愛してくれる様になる。何しろ幸福になる秘訣は要求する事ではなく、まずあなたの方から相手に与える事にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

受験の悲劇

彼は学問の勉強はやってきたが、人生の勉強は少ししかやってこなかった。それで、人にとってより大事なのは人生の勉強の方だったのである。そしてタチの悪い事に、彼は知識だけは持ち得ている分、人生を仮想現実的に評論家のような態度を取る。すなわち頭の知識だけで人生を知ったつもりになっているため、心のプライドだけは非常に高いのである。それで社会に出ても、社交性が乏しいから、仕事も職場の同僚や先輩とうまくコミュニケーションが取れない。それで彼は非常に悩んで仕事を辞めてしまう事になる。そして一歩踏み間違えると、あとは雪崩の様に人生を転げ落ちていく。これが現代の受験の悲劇なのである。本来学問が好きな者だけ大学に行けばそれで良いのである。世の中に出れば、引き算と足し算さえできれば仕事が出来るし、学生の頃に習った微分積分などの知識は社会に出たらほとんど使う事はないのである。そんな知識は数学者になりたい人だけ勉強すれば良いのだ。よって勉強が嫌いな人は中学校を卒業したらさっさと働けば良いのである。中国の孔子が勧めた科挙による試験で優秀な人材を選び、その様な者こそ役人や官僚になるべきであり、君子が政治を治めるべきだという考え方は一見正しいようで実は問題を多く抱えているのである。みんながみんな君子になる必要はないのである。よって受験戦争とは人の弱点を巧みに突いたプライドという心理に訴えた自尊心を逆手にとった殺人システムと化しているのである。我々はそろそろ学歴社会を捨てて、もっと幅広い多様性に富んだ教育システムを早急に構築しなければいけない。世の中とは賢い人が支配してうまくいくものでは無く、大勢の人の多様性という役割分担によって成り立っていくものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人の幸、不幸の分かれ道はただ心の持ちようにのみかかっていること。

2.何もしようとしない者は本当の怠け者か、そのままで自分が一番偉いと思っている者のどちらかである。

3.人生をうまく渡る秘訣とは、一言で言って、たとえそれが本当の事実であったとしても、それをあえて言わないということのみにかかっているのである。なぜなら、いつでも誰であっても、真実とは常に残酷なものであるから。

4.神は私達に奇跡を見せてくれないと言っている者達よ、私達がごく普通に生きるためには奇跡が必要不可欠なのである。それは離婚した女性が生まれた子供を1人身で働きながら育てる事であり、1人の若者が貧しさに耐えながら勉強に励んで仕事と勉強を両立させながら生きることであり、目の見えない者が必死に努力して立派なピアニストにまでなることであり、手のない者が過酷な自転車レースに挑んで優勝する事であり、精神を病んであまりにも凶暴過ぎて牢屋に入れられていた者が、周りの人達の愛ある協力で遂には普通に働けるまで回復した事なのであり、挙げたらキリが無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

民主主義と共産主義はどちらがより優れた支配の仕方か。

より自由である事は不自由である事より優れているか。すなわち、選択できる物や条件が狭められている事と、選択できる物や条件が豊富にある事の違いである。すなわち、言論の自由であり、あらゆる情報の収集可能な状態である。一見すると、なんでも自由に手に入る民主主義社会の方がより優れていると思われる。しかしここに大きな落とし穴がある。なんでも自由に手に入るという事は言い換えれば、情報過多であるという事であり、それは人が生きていく上で選択肢が多い分、なんでも自分で決定しなければならないという事だ。すなわち、自分の人生の道筋を指南してくれる指導者がいないという事を意味する。すなわち自分の人生をどう生きればよいか選択肢が多すぎて路頭に迷うのである。民主主義は確かに自由を享受してそれを謳歌している者もたくさんいるが、逆に自分がどう生きればいいか分からなくて、いろんなやり方を試し、それでも納得がいかずに病的に悩んで精神や体を無理に酷使し、社会から取り残される人々も多くいるのである。すなわち民主主義において、うまく行っている人を500人とすれば、うまく行っていない人間は1000人いるのである。それに対し、共産主義は確かに言論の自由も無いし、手に入る情報も少ない。これにより不自由な生活を強いられ、自分の人生は選択肢が少ないため、できる事も限られている奴隷状態となる。よって一見すると共産主義は民主主義より劣っていると思われがちである。しかしそこには大きな見落としがある。なぜなら共産主義には人民を指導する、はっきりとした指導者がおり、その人の言うことを聞いてさえいれば普通に生活できるし、その国で社会から取り残されるという事は無い。また、自分ができる事の選択肢が少ないという事は、その分、できる事が限られるから、人生をどう生きるべきかも限定される。そうであれば、与えられた条件下で精一杯最善を尽くそうという精神が育ち、次第に自分に与えられた仕事に熟練し、生き甲斐を見い出す様になる。すなわち共産主義において、不自由で苦しんでいる者もたくさんいるが、逆に与えられた範囲内で全力を尽くし、成功して人生を謳歌している者も多くいるのである。すなわち共産主義において、うまく行っていない人を1000人とすれば、うまく行っている人間は500人いるのである。すなわち民主主義体制と共産主義体制の中でうまく行っている人間とうまく行っていない人間の割合はどちらも500対1000であり、なんの大差も無いのである。よって、民主主義と共産主義はどちらがより優れているかは、甲乙つけ難いという事になる。すなわち言い換えれば、民主主義には民主主義の良いところもあれば、悪いところも多いし、共産主義には共産主義の悪いところもあれば、良いところも多いという事になる。すなわちどちらが優れているかは言えないのであり、これはもはやどちらの支配体制を選ぶかという個人の好みの問題になってくるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

果たして全くの自由を持たれる神ほどの方が、してもしなくてもほとんど大差のない事柄をあえてしてはならないと言うだろうか。決して言われないのである。忘れてはならないのは、神の掟は私達の意志や決定をなんら奪うものでは決して無く、神の掟はすべて私達の身を守るために書かれているのである。すなわち、神が私達に与える掟は神の都合とか、神の益のために書かれているわけでは決してないという事である。よって、神が私達に~してはならないと言われた時は、それにはちゃんとした私達の益のための理由があるのであり、もし逆に私達がそれに逆らって行うとしたら、それは私達の身にとって必ず害になるという事なのである。

2.便利さの実感は不便さを実感した上で初めて知り得るものである事と同様に、神の掟の有益さは神の掟を破って味わった苦しみを経験して初めて実感できるものである。

3.すべての人間が何物にも勝ってすべき事柄は、自分の内にわずかでも残っている良い点を探し出す事に熱心であり、目ざとくあり、そしてそれを足がかりとして、それを伸ばし増やしていく事にのみ、全力を尽くす事なのである。

4.聖書は決して間違っていないという意味とは、たとえ聖書が書かれている事を自ら当てはめてみたけれどもなんら益は無く、むしろ害になったという場合があるとしても、それは聖書の側に何か不備があったからでは決して無く、その当人の聖書に対する捉え方、用い方、解釈の仕方が間違っているという、それを取り入れる側の方に問題があるということなのである。

5.文字通りの死だけが死ではない。たとえ生きていても、人にとって助言者がいないという事は、既にその人にとって死を意味し、また生きてはいても性的快楽に耽る者は既に死んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

真に賢く、すべてを調べ尽くした者は言った。私は私が決して賢くなる事を見い出せないと。つまり、賢くなろうとしていた事自体が全く愚かな事である事を真の賢者は認めざるを得ないのであった。

2.神を信じない人達よ、ある競技に対しての敗者がその勝者を認めざるを得ないのと同様に、人も自分が死ぬ時に神エホバを認めざるを得ないのである。

3.あらゆる失敗をしても、それは後でやり直せる。しかし、自分の目から見て自分は賢い者であると思う愚かさだけは避けるべきである。その失敗はやり直せない。なぜならそれは一生涯恥ずかしい目に遭うからである。

4.義なる者は、たとえ自分が不当な目に遭って喜べないようであったとしても、むしろ、その様な時にこそ、自分がその様な事を他の人にしていない者である事を何にも勝って喜ぶのです。

高田義裕の人生論

今日の格言

はっきりと言っておく。あくまで神は肉欲の淫らな様を忌み嫌われたのでは決して無く、私達人間の肉欲に対する渇望によって、もがき苦しむ人間の苦しみの様を忌み嫌われたのであり、神はただ罪のみを理不尽なまでに憎み、それを犯している人間を非常識なまでに愛されたのである。これはまさに非常識であり、理不尽なまでの愛であり、異常なまでの神の義であると言えるものである。これほどまでに私達を擁護し、愛してくださっている神の行為に一体誰がこれに対してそれは不法である、それは不正である、などと反論できるであろうか。誰もいないのである。

2.人は1つ誇るために2つの重荷を背負う事になるのである。そう、誇る事は人にとって重荷となるのである。

3.人を褒める者は自分も褒められるのである。これが人間関係の黄金律なのである。

4.唯一まことの神エホバを恐れるという事はすべての初めであり、知恵の初めであること。

5.私達は利他的愛を実践することにおいては貪欲でなければならないのである。

6.私達はいい男(いい女)、より賢い人間になろうとしたが、これもまた遠く及ばない事であった。なぜならこの動機付け自体が私達にとって不純であり、大きな勘違いだったからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は力不足で考えが浅く、無能力で愚かな者であったので、自分達がいかに力不足で考えが浅く、無能力で愚かな者であるかを知らなかったのである。むしろ私達は自分達の現状が最良のものとすら思っているのである。これにより、私達はまさに三重の愚かさを示しているのである。

2.すべて動機が不純でやましく無く、むしろ単純で軽い(純粋に楽しいと思う)ものだからこそ、私達は自分の目標を行い続けていけるし、また、到達する事が初めて可能なのである。