高田義裕の人生論

今日の格言

不義の富

お金とは不義の富である。なぜなら実物の鉱石である金はその価格は世界共通であり、どこへ行ってもその売り値価格はそんなに変動がなく一定水準を保っており、売り手側の都合で変わったりはしない。しかしお金という紙幣は商品を売る側が勝手に自分の商品に自分達の都合の良い価格で紙幣価格を決定出来るし、他の国々によって全く使える紙幣の種類が違うし、また国の経済状態や景気によってお金の価格は全く異なっている。すなわち、日本では100円の価値があっても、他の国の違う種類の紙幣に交換する場合、ある国では日本の100円がその国では1000円の貨幣価値があったり、逆に10円の貨幣価値しかなかったりするからである。ここに明らかに貧富の差が生じるのであり、例えば、同じ100万円でも、商品によって全く買えるものが違うのであり、100万円の車もあれば、100万円の時計もあるのである。そこには何か共通の貨幣価値を定める共通のルールというものが全く無く、皆、勝手に自分の都合の良い価格を提示してくるのである。これは明らかに不正であり、いい加減な価格の決め方であり、そこに世界共通の金のような不変的価値はない。この価格のいい加減な変動差ががのちのち歪みとなって、全世界に貧富の差を生じさせ、そのツケが全部自然環境の破壊となって現れるのである。本来なら、全世界に共通して同じ貨幣価値を持った世界通貨という紙幣が存在しなければならないのである。そうすれば売り手側は自分の都合の良い価格を勝手に吊り上げる事は出来ないし、世界共通の倫理的ルールに則って商品の貨幣価値が決定されていくから、貧富の差がなくなり、それによって、資源の無駄使いや悪質な価格の変動操作やお金の浪費や物価価格の上昇がなくなって秩序が保たれる事により、自然環境が破壊される事もなくなるからである。このようにお金というものの勝手気ままな価格の変動操作が存在する限り、貧富の差は無くならないのであり、また資源の乱費による自然環境の破壊も無くならないのである。そのような意味においてお金とはあくまでも不正な富であり、不義の富と言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生という牢獄

我々はなぜ生きているのか。私達は自分の意志で決定して生まれてきたわけではない。知らない間に気付いたら生まれていたのだ。すなわち我々は強制的に生まれてきたと言える。そして私達は否応なく生きる事を強いられる。喉が渇けば飲まなければならないし、腹が減れば食べなければならない。すなわち我々は生きる事を強要されているのであり、生きるという事に縛られているのである。すなわち生きるという牢獄の中にいるのである。この生まれてきて、結婚し、子供を産み、子供を育て、そして老いていき、死んでいくという虚しい生という輪廻(カルマ)から脱出する事が出来ない。よって人間の生きるという最終目的とは何か。それは生という牢獄から脱出する事である。すなわち生と死というものを超越する事である。この生と死を超越した領域に達する時、人は初めて自由を得、初めてそこで自分は生まれるか、それとも生まれないかを自分の意志で決定する事が出来るのである。すなわち人間の最終目的は神のようになる事なのである。よって人間は進化し続けるのであり、神の領域を目指す事によって、生きるという束縛、すなわち腹が減ったら食べなければならないとか、喉が渇いたから飲まなければならないとか、という生を維持するための行為をしなくてもよくなる段階に達していかなければならないのである。そう、我々は生と対峙し、生と戦って、それを征服しなければならないのである。なぜなら生きる事は楽しい事ではなく、苦しいことだからである。そうでなければ自殺する人などいないはずである。自殺する人は生と戦ってその苦しみに耐えられずに死を選んだ人である。すなわち彼らは生に屈服されてしまったのである。よって人よ、生きるという本質は苦しいものであるから、是非とも生と格闘し、生という輪廻(カルマ)から解脱するように。そこには真の自由があるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

日本経済の行方

日本では国の借金が増え、日本政府は国債を大量に発行して日本銀行に買ってもらっている。すなわち日本銀行券という紙幣を大量に印刷出来る日本銀行という存在が日本銀行券という紙幣を買っているのである。これは血で血を塗る様なもので、日本銀行券を日本銀行券で買うという事は、すなわち日本の紙幣である円が大量にジャブジャブに刷られるという事であり、世の中に大量のお金が出て行くという事は、円の貨幣価値が下がるという事であり、それはいずれハイパーインフレーションとなり、円の貨幣価値がゼロ、すなわち紙くず同然となってしまうという事である。不気味な事に日本政府は2019年の秋に新貨幣を発表した。日本政府としては国の借金をなんとかチャラにしたいのである。そのためにはハイパーインフレーションによって今の銀行券、すなわち旧紙幣を全く使えないようにし、預金封鎖をして、今使っている紙幣を使えないようにし、全く新たに新紙幣から経済を出発させるつもりなのである。そうすれば国の借金はチャラになるのである。それによって国は潰れるかと言うと、そうではなく、国は外貨、すなわち他国のドルのような貨幣を大量に持っているので生き残る事が出来る。ここで苦しい目にあうのは国民だけである。国民は自分達の資産のほとんどを外貨ではなく、今の円である旧紙幣で持っているから、ハイパーインフレーションが来た時、すべての資産を失ってしまうのである。よって今からでも遅くないから、国民は、今持っている円という資産を外貨に代えて持っておくべきである。すなわち実物資産である金を買うとか、お勧めするのは、比較的安定していて、信頼のおけるオーストラリアドル、カナダドル、スイスフラン、ドイツマルク、スウェーデンクローナなどの貨幣である。

高田義裕の人生論

今日の格言

地球の臨界点

ある深い谷底に1本の木の橋げたがかけてあった。その上にはたくさんの人々が行き来して生活していた。人々は毎日忙しくせっせと働いて嫁いだり、娶ったりしていた。そして膨大な量の金や銀を掘り出しては自分達の橋げたの上に積み上げるのであった。しかし誰もその木の橋げたの積載重量の限界値を知らなかった。ある日橋げたの事を調べていた職人が橋げたの隅に小さく書いてある文字を見つけた。そこには積載重量限界1000kgまで、と書いてあった。それを見た職人は慌ててたくさんの人間の数の総重量や人々が積み上げた金や銀の総重量を全部総合して足し算した。すると橋げたの上に乗っている総重量は999.9kgであった。それを見た職人達は皆青くなって、すべての人々にもうこれ以上橋げたの上に金や銀を積まないよう警告した。なぜならあと10gで橋げたの限界積載量を超え、橋げたがそこで突然音を立てて張り裂け、すべて橋げたの上にいる人間や金や銀が奈落の底めがけて落ちていく段階に達していたからである。しかし人々はだいぶ以前から橋げたの木の板がキシキシ音をするのを聞いていたし、再三、橋げたを調べている人達からこれ以上金や銀を積まないよう警告を受けていた。それでも人々はまだまだ橋げたの木の板は大丈夫だろうと楽観的に考え、金や銀を儲けるための商売を止めようとはしなかった。そこである日、大金持ちの蔵にいつものように金を積み上げようと蔵の作業員がたった10gの金を乗せたところ、突然世界全体が激しく音を立てて揺れ、すべては崩れ落ち、瞬く間に奈落の底に落ちていった。これによりすべての人間は死に絶え、金や銀も夢のもくずと消えたのである。

(解説)

一本の橋げたとは、地球のことであり、大地の事である。すなわち私達の生活を土台の様に支えている自然環境の事である。そして金や銀を儲ける商売とは、私達人間の普段の生活の営みを表している。しかし人々が自分達の生活をより豊かにし、より便利なものにしようとすればするほど、一本の橋げたという自然環境は破壊されていく。すなわち金や銀の重みで次第に歪曲する橋げたの様に、人間の貪欲な経済的利潤の追求のゆえに大気中に大量の二酸化炭素やマイクロプラスチックスを放出する。そして近年、世界規模で自然災害が大量に発生し、人々の生活は支障をきたし始めている。それでも私達はまだ地球の自然環境は持ちこたえるだろうと安易な考えのもとに自分達の贅沢で便利な生活を止めようとはしない。そしておそらくもう10年ももたない近い将来、地球の臨界点、すなわち我々の生活の営みを支えてきた自然環境を支える限界値は限界を超え、地球は人間の住めない場所となるであろう。そうである。金や銀という富も自然環境あってのものであり、それを下支えする地球環境が壊れて我々が生活する事が出来なくなれば、元の子もないのである。人間というものは愚かなもので、地球が住めないほどになり、手遅れになって初めて自分達の過ちに気付くのである。そう、近い将来、人々は金や銀など自分達の命を守るために何の役にもたたない事を知り、金や銀をちまたに捨てるであろう。そうして全人類は自らを滅びに至らせるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

一神教と多神教の違い

一神教とは何か。それは書いての通り、一人の神だけを崇拝する事である。ここで一神教の長所を見てみよう。古代イスラム教国において、イスラム教の預言者ムハンマドが生まれた時代、ムハンマドの父や祖父の社会は多神教であった。そこには数々の神々が存在していた。人々は皆自分達に都合の良い神々を作り出しては、過度の酔酒や淫行や姦淫をいろんな神々を崇拝しながら乱痴気騒ぎに耽っていた。当然人間達の間にも自分を神格化し、神と名乗る者も大勢現れ、この地上での富を独占するために多くの争いが生じ、社会は秩序の無い無法地帯と化し、平和もなく、社会は荒れ廃れ、堕落の一方を辿っていた。これを嘆いていたムハンマドはある日突然、天からの啓示を受け、一神教を授かったのであった。もともと人間とは放っておくと皆好き勝手にやり出し、そこここで争いを生み出す厄介な生き物なのである。そこにはやはり1本筋の通った倫理的規範が必要なのである。その役目を果たし、人間をまとめるには一神教は都合が良かったのである。例えば現在の中国にしても共産党が中国人13億人を一頭独裁しているけれども、これは決して誤った事では無く、もし共産党が一頭独裁して人民を統制しなければ、人々は13億人もいるのだから、皆好き勝手にやりたい放題になり、乱世の世に戻ってしまう事を中国4000年の歴史が証明しているのである。また現在のイランも昔のフセイン大統領が、一頭独裁していた頃はフセインという人物が神の代わりをして強制的ではあるが、人々を統制して分裂を防いでいた。しかしアメリカの介入による湾岸戦争によってフセイン大統領が殺害されると、現在のイラン情勢のように、隣のイラクやイスラム国(IS)が台頭してきてイラン国内を再び内戦に追いやっている。このようにただ一人の唯一神だけを崇拝し、残りの神々の存在を認めない考え方は、分裂しやすい人間をまとめるのには非常に有効な手段なのである。しかしここで一神教の短所を見てみよう。それは多神教の長所でもあるが、私はクリスチャンであり、一神教のキリスト教である唯一の神エホバを信じているのだが、もし、この唯一の神エホバを唯一神では無く、多くの神々の中の最高神として位置付ければ、他の神々はその存在を否定されることなく、最高神と共存出来る事になる。すなわち一頭独裁の言論の自由を奪われた閉鎖的な世界では無く、いろんな価値観がごちゃまぜに融合した言論の自由のある、多様性社会を生み出す。よってそこにはすべてを寛容に受け止める緩い支配が存在し、平和をもたらすのである。しかし、寛容さも度が過ぎて、なんでもかんでも許容する社会になると、最初に述べたように誰も責任を取らない無秩序で荒廃した乱痴気騒ぎ社会が到来し、世界は腐敗し、退廃し、堕落していくのである。よって一神教とは政治で言えば、一頭独裁体制の事であり、多神教とは政治で言えば、民主主義体制の事なのである。一頭独裁は人民をまとめるには都合が良いが、自分の価値観なり思想以外の考え方を一切受け入れない事においては、他の人や他の国と意見が分かれるから、互いの間にひずみが生じ、争いが生じる。すなわち一神教は自分達以外の神々を認めないから、自分達以外の神を崇拝する国々は敵として映る。よって一神教は他国間との戦争を生みやすいのである。現体制で言えば、北朝鮮であり、中国である。北朝鮮人や中国人にとって神の代わりを果たしているのは金正恩であり、習近平なのである。しかし多神教である民主主義はともかく衆愚政治に陥りがちであり、リーダーの不在となり、貧富の差は拡大し、国民をまとめる人材がいないため、社会的混乱を招くのである。例えば今の香港の問題にしても、香港の人達は言論の自由を求めて民主主義を求める、すなわち多神教を信じているのだが、一方中国という一神教である一頭独裁国家が香港だけに特別に自治権を与えるとすると、今度は力で抑えつけられている13億人もいる本土の中国人達が、なんで香港だけ特別扱いするのか、と不満を言い始め、ついには中国共産党の一番恐れる中国国内の分裂にまで発展してしまうのである。であるから、中国としても、香港だけを特別扱いするわけにはいかないのである。このように全世界には一神教という独裁体制である厳しい支配体制もあれば、多神教という民主主義である緩い支配体制もあるという事である。この例の典型的事例は今の北朝鮮という一神教社会と、今の韓国である多神教社会に如実に現れている。ひと昔前までは、北朝鮮の社会体制は脆いと言われてきたが、最近は韓国の社会体制の方が脆くなってきている。すなわち、北朝鮮には金正恩というはっきりとした支配者がいるが、韓国にはカリスマ的な指導者がいないため、社会は混迷の度合いを深めている。そう、昔ブッシュ大統領に悪の枢軸と呼ばれた北朝鮮の社会の方が安定してきているのである。この立場の逆転現象は、実は世界中の民主主義の国で見られる。すなわち、資本主義と民主主義の短所が最近頭をもたげてきたのであり、逆に共産主義と独裁主義の長所が最近効果が出始めてきたのである。どちらの支配の仕方が正しいのかは私にはわからないが、ただひとつだけ言える事は、民主主義の良い部分と独裁体制の良い部分だけを同時に抽出した(混合した)ハイブリッド支配体制、すなわち酸性でもアルカリ性でもない、もしくは酸性の性質とアルカリの性質を同時に合わせ持つ中性的社会が一番人類の大群衆を統治するのに適正であり、理想であると思われる。

高田義裕の人生論

今日の格言

真の友とは普段一緒にいる友では無く、あなたが本当に困った時に来てくれる人である。普段一緒にいる友は、順調な時のあなたに近づいているだけであり、順調で無くなったあなた自身には見向きもしないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

富は人を不幸にし、貧しさは人を幸福にさせる。

(解説)

富は人を不幸にし、貧しさは人を幸福にする。なぜなら天然資源に恵まれた国々の社会情勢とはどのようなものであろうか。例えばアフリカのコンゴ共和国は、天然資源に恵まれ、鉱山や石炭や石油を多く産出する。しかしそのため、その資源という富の採掘権をめぐって人々は激しく争いあっている。ある者はその採掘権を奪うため、軍を組織し、ゲリラ合戦となる。政府内も利権の奪い合いで横領や賄賂など当たり前に行われており、市民の生活の事など全く考えていない。これにより政府は事実上、無政府状態となっており、内戦が激化して市民の人々は貧困に喘いでいる。そうである、天然資源が豊富にある国だから国民も裕福な生活を送っていると思ったら大間違いで、常に裕福な生活を送っている者はごく一部の富裕層だけであり、大半の市民は武力による衝突などで戦争という苦しみの上にさらに貧困という二重の苦しみにさらされている。そうなのだ、コンゴ共和国だけに限らず、世界中で起きている内戦の原因には常にこの天然資源などの富が豊富なところに起因している。まさに富あるところに不幸ありき、なのである。しかし打って変わって何も無いところ、すなわち貧しい環境にあり、天然資源も何も無い地域にはむしろ平和と安全がある。なぜなら何も無いからこそ、そこにいる人たちは自然と何を行うにも互いに協力して助け合うようになるからである。当然そこには他の人を思いやる気持ちや、親切心が芽生え、社会は自然と平和で、たとえ貧しくとも互いの愛を示し合っているから幸福なのである。まさに貧しさこそ幸いなのである。あなた自身の生活も思い巡らして見ると良い。あなたの日々の苦しむ原因を考えて見ると良い。それは資本主義による富を多く稼ぐための社会システムそのものでは無いか。あなたの勤める会社も儲けたいあまりにあなたという社員に過酷な労働を強いているのでは無いか。あなた自身もお金を儲けたい一心で自分自身を痛めつけ無理をして富もうとしているから、毎日残業や仕事のプレッシャーによるストレスで精神的にも肉体的にもボロボロになっているのではないか。よって今一度自分の人生の歩みを振り返り、富もうとする自分を改め直してみないか。給料が高い代わりに仕事の内容がきつい仕事を辞めて、給料が安い代わりに仕事の内容が比較的楽で残業する必要も無い生活を選んではどうか。そうすれば生活は質素になり、切り詰めて生活しなければなら無い代わりに、あなたにはあなたの自由な時間が与えられ、余暇を伸び伸びと楽しめるのでは無いか。そして仕事のプレッシャーから解放され精神的にも肉体的にも楽になるのでは無いか。すなわち、人間の不幸になる原因はすべて富を得ようとする事にあるのである。まさに今私はすべての人に清貧をお勧めする。まさに聖書にこう書かれてある。パウロによるテモテへの第一の手紙6章9と10節。[しかし、富もうと思い定めている人たちは、誘惑とわな、また多くの無分別で害になる欲望に陥り、それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出、多くの苦痛で全身を刺したのです。]

高田義裕の人生論

今日の格言

人は生きる事とは何かを問う事は出来るか。

人は生きる事とは何かを問う事は出来るか。それは出来ない。なぜなら、私達は飲んだり食べたり、喜んだり、悲しんだり、考えたりするが、それらの事はすべて生きている故に出来る事であり、私達は生きるという事に全く依存しているからである。例えばあなたという本人が私とは誰かという事を問いかける事は出来るものの、それにあなたが答えたからといって、それは他の人から見ればあくまでもあなたの主観論であって、決して真実に近い客観的見方では無いからである。そう、あなたとは誰かという事を客観的に判断出来る存在はあなたとは別の人間であり、あなたの内側にでは無く、あなたの外部の人間であり、存在なのである。すなわち、あなたという人間が確かに存在する事はあなた自身がどう主張してもそれを証明する事は出来ないのであり、あなたの存在を証明出来るものとは、あなた以外の外部の人間なのである。あなたは私は確かにここに存在していると主張して、その主張をあなた以外の誰かにそれを認めてもらい、聞いて確認してもらわなければ、あなたという存在が確かに存在し、生きているという事を証明する事は決して出来ないのである。これと同様に、生きるとは何かを問う場合も、私達生きている存在がそれをどう主張しても、それはあくまでも主観的見方でしか無いのであり、真実に近い客観的見方では無いのである。それでは生きるという事を客観的に説明でき、証明出来るものとは誰か。それは生きる、すなわち生というものを超越した領域もしくは世界に他ならない。すなわち生が存在するためには生という領域とは別に存在する世界が存在しなければならないのである。そう、普段私達の生きている生という世界とはまた別の次元の違う領域が存在して初めて私達は自分達が確かに生きていて存在しているという事を確認する事が初めて出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

日本国の没落

日本では今年の10月から消費税が8%から10%に上がった。これからどうなるであろう。まず政府が予想している税収入は低くなるであろう。すなわち想像以上に消費税が8%の頃より税収入は少なくなるであろう。国民はますます財布の紐を締めて物を買わなくなる。そして政府は税収入の減少により国家財政はますます厳しくなるであろう。本当の解決策は消費税を撤廃する事である。それによって国民は財布の紐を緩めて物を買うようになり、消費が増加して逆に税収入が増えるのである。しかしなぜ政府はそれが出来ないのか。それは国民と政治家、すなわち官僚達との間に全く信頼関係が無いからである。信頼どころか、国民と政治家はむしろ敵対関係にあり、今の日本の国内情勢は互いの腹の探りあいとなっている。もしお互いに信頼関係があれば、政府は税を撤廃しますから、国内の皆さん、物を買ってくださいよ、と誠実に協力を頼めば、国民もそれを信用して物を買ってくれるのである。例えれば、いつも仲の良い信頼できる親友が相手に今日はお金が無いから1000円貸してくれないか、必ず返すから、と言えばその人はいつも信頼している仲間だから難なく1000円を貸してくれるのである。この信頼関係が今の国民と政治家の間に無いのである。お互いに信頼出来ず、疑心暗鬼であるから、政府は消費税を撤廃しても国民がその代わりに消費を増やしてくれるという確信が得られないものだから、税収入の確保は増税しか無くなるのである。国民は国民で政府が信用できないから、将来の不安が消えず、消費を極力控え、預金ばかりするようになる。大事なのはやっぱり人間関係であり、互いに信頼関係を築く事なのだ。信頼を築くためには互いに日々対話をし、コミュニケーションをよくして互いに正直になって腹を割って話し合っておかなければならない。日本人というものはまず腹を割って話し合うという事が出来ない。表面の人間関係だけ取り繕って、陰ではボロクソに本音を言っている。そう、日本人の気質として日本社会はたて前だけは良くして、本音を隠す傾向にあるのである。すなわち、徹底的に議論する事を嫌う民族なのである。だから少し本音を言うとそこから緻密な話し合いをせず、すぐに喧嘩になって物別れになってしまうのである。いよいよこのたて前社会の終焉が近づいて来ている。日本の会社はほとんど上司と部下が本音で自分達を出し合って対話するという訓練が出来ていないから、部下が仕事でミスをするとすぐに暴言と暴力を吐いてパワーハラスメントになる。上司は怒ることが部下に対する教育だと勘違いしている。日本の会社はほとんどがブラック企業だと言ってもいい。怒るにしても日頃からコミュニケーションをよく取り、互いに信頼関係を築いていて言うなら、まだましたが、今の日本人は昨日まで会った事も無いお互いに何も知らない他人が新入社員で入って来た若者を仕事の関係になったら突然怒り出すのだからたまったものではない。これが続けば日本社会は誰も仕事をしなくなり、機能がいつか突然マヒしてしまうだろう。今の日本人に足りないのは相手を思いやる気持ちであり、やっぱり日頃から親密にコミュニケーションをとる態度である。正直、近い将来日本という国は無くなっているかもしれない。日本株は買いではない。売りである。大事なのは常に社会を動かしているのは常に感情を持った人間である事を自覚し、お互いの信頼関係を築く事にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

努力して頑張った分だけ報われるべきなのは正しい事なのか。例えば仕事でも、自分が心底苦労して成果を上げたのにそれを会社側があまり評価してくれなかったらどうであろう。こんな会社はいずれ潰れると思って会社を辞めるだろうか。確かに辞める人は辞めるだろう。しかし、果たしてこの世の中に心底努力して仕事を頑張る人など稀な例では無いだろうか。そう、大半の人間は生きていくために働かなければ食べていけないから、仕方なく働いているのが本音では無いだろうか。もし頑張った分だけ報われる会社があるとすれば、社内での日々の行いを逐一観察され、どんな些細な事でも点数をつけてくるだろう。そして毎年毎年到達できそうに無い無理な目標を立てて頑張らなければいけなくなるのであり、もしそれを達成できなかったら、どうして達成できなかったのか理由の報告書まで書かされるだろう。そして遂には戦力外として会社を辞めねばならないように仕向けてくるであろう。そんな会社は私は決して行きたいとは思わない。まるで全部監視されて非常に居心地が悪いからだ。もしそう遠くない将来、人工知能(AI)が会社の社長にでもなったら、私達は全員クビであろう。そんなくらいなら頑張ってあまり評価されなくてもクビにもならず、ずっと働かせてくれて給料をくれる会社の方がよほどマシだし、万人向けの会社だろう。そうなのだ。頑張った分だけ評価されるという事は、それだけ毎日自分の仕事ぶりが厳しく見られるという事であり、頑張ってもあまり評価されないという事は、それだけ毎日自分の仕事ぶりを厳しくでは無く、大目に人情味的に見守ってもらっているという事だ。そう、大体が人間などという生き物は本来怠け者なのであり、生き物だったら誰しも楽して生きていたいはずなのである。そう考えると、努力して頑張った分だけ報われるという論理も一見正しくは見えても、大半の人間のからすれば、ありがたい考え方では無いのである。すなわち人間向きでは無いと言って良い。現代社会は無駄を徹底的に廃しコストを下げ、効率ナンバーワンを目指す会社が最後に生き残れるなどとよく言われるが、結局人間が社会を形作っている以上、人間がすべて人工知能(AI)のようにならなければならないのかと言うとそうでは無いのである。すなわち効率ナンバーワンという考え方も現代特有の神話であり、すべてにおいて通用する普遍的真理では無いのである。