高田義裕の人生論

今日の格言

真の友とは普段一緒にいる友では無く、あなたが本当に困った時に来てくれる人である。普段一緒にいる友は、順調な時のあなたに近づいているだけであり、順調で無くなったあなた自身には見向きもしないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

富は人を不幸にし、貧しさは人を幸福にさせる。

(解説)

富は人を不幸にし、貧しさは人を幸福にする。なぜなら天然資源に恵まれた国々の社会情勢とはどのようなものであろうか。例えばアフリカのコンゴ共和国は、天然資源に恵まれ、鉱山や石炭や石油を多く産出する。しかしそのため、その資源という富の採掘権をめぐって人々は激しく争いあっている。ある者はその採掘権を奪うため、軍を組織し、ゲリラ合戦となる。政府内も利権の奪い合いで横領や賄賂など当たり前に行われており、市民の生活の事など全く考えていない。これにより政府は事実上、無政府状態となっており、内戦が激化して市民の人々は貧困に喘いでいる。そうである、天然資源が豊富にある国だから国民も裕福な生活を送っていると思ったら大間違いで、常に裕福な生活を送っている者はごく一部の富裕層だけであり、大半の市民は武力による衝突などで戦争という苦しみの上にさらに貧困という二重の苦しみにさらされている。そうなのだ、コンゴ共和国だけに限らず、世界中で起きている内戦の原因には常にこの天然資源などの富が豊富なところに起因している。まさに富あるところに不幸ありき、なのである。しかし打って変わって何も無いところ、すなわち貧しい環境にあり、天然資源も何も無い地域にはむしろ平和と安全がある。なぜなら何も無いからこそ、そこにいる人たちは自然と何を行うにも互いに協力して助け合うようになるからである。当然そこには他の人を思いやる気持ちや、親切心が芽生え、社会は自然と平和で、たとえ貧しくとも互いの愛を示し合っているから幸福なのである。まさに貧しさこそ幸いなのである。あなた自身の生活も思い巡らして見ると良い。あなたの日々の苦しむ原因を考えて見ると良い。それは資本主義による富を多く稼ぐための社会システムそのものでは無いか。あなたの勤める会社も儲けたいあまりにあなたという社員に過酷な労働を強いているのでは無いか。あなた自身もお金を儲けたい一心で自分自身を痛めつけ無理をして富もうとしているから、毎日残業や仕事のプレッシャーによるストレスで精神的にも肉体的にもボロボロになっているのではないか。よって今一度自分の人生の歩みを振り返り、富もうとする自分を改め直してみないか。給料が高い代わりに仕事の内容がきつい仕事を辞めて、給料が安い代わりに仕事の内容が比較的楽で残業する必要も無い生活を選んではどうか。そうすれば生活は質素になり、切り詰めて生活しなければなら無い代わりに、あなたにはあなたの自由な時間が与えられ、余暇を伸び伸びと楽しめるのでは無いか。そして仕事のプレッシャーから解放され精神的にも肉体的にも楽になるのでは無いか。すなわち、人間の不幸になる原因はすべて富を得ようとする事にあるのである。まさに今私はすべての人に清貧をお勧めする。まさに聖書にこう書かれてある。パウロによるテモテへの第一の手紙6章9と10節。[しかし、富もうと思い定めている人たちは、誘惑とわな、また多くの無分別で害になる欲望に陥り、それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出、多くの苦痛で全身を刺したのです。]

高田義裕の人生論

今日の格言

人は生きる事とは何かを問う事は出来るか。

人は生きる事とは何かを問う事は出来るか。それは出来ない。なぜなら、私達は飲んだり食べたり、喜んだり、悲しんだり、考えたりするが、それらの事はすべて生きている故に出来る事であり、私達は生きるという事に全く依存しているからである。例えばあなたという本人が私とは誰かという事を問いかける事は出来るものの、それにあなたが答えたからといって、それは他の人から見ればあくまでもあなたの主観論であって、決して真実に近い客観的見方では無いからである。そう、あなたとは誰かという事を客観的に判断出来る存在はあなたとは別の人間であり、あなたの内側にでは無く、あなたの外部の人間であり、存在なのである。すなわち、あなたという人間が確かに存在する事はあなた自身がどう主張してもそれを証明する事は出来ないのであり、あなたの存在を証明出来るものとは、あなた以外の外部の人間なのである。あなたは私は確かにここに存在していると主張して、その主張をあなた以外の誰かにそれを認めてもらい、聞いて確認してもらわなければ、あなたという存在が確かに存在し、生きているという事を証明する事は決して出来ないのである。これと同様に、生きるとは何かを問う場合も、私達生きている存在がそれをどう主張しても、それはあくまでも主観的見方でしか無いのであり、真実に近い客観的見方では無いのである。それでは生きるという事を客観的に説明でき、証明出来るものとは誰か。それは生きる、すなわち生というものを超越した領域もしくは世界に他ならない。すなわち生が存在するためには生という領域とは別に存在する世界が存在しなければならないのである。そう、普段私達の生きている生という世界とはまた別の次元の違う領域が存在して初めて私達は自分達が確かに生きていて存在しているという事を確認する事が初めて出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

日本国の没落

日本では今年の10月から消費税が8%から10%に上がった。これからどうなるであろう。まず政府が予想している税収入は低くなるであろう。すなわち想像以上に消費税が8%の頃より税収入は少なくなるであろう。国民はますます財布の紐を締めて物を買わなくなる。そして政府は税収入の減少により国家財政はますます厳しくなるであろう。本当の解決策は消費税を撤廃する事である。それによって国民は財布の紐を緩めて物を買うようになり、消費が増加して逆に税収入が増えるのである。しかしなぜ政府はそれが出来ないのか。それは国民と政治家、すなわち官僚達との間に全く信頼関係が無いからである。信頼どころか、国民と政治家はむしろ敵対関係にあり、今の日本の国内情勢は互いの腹の探りあいとなっている。もしお互いに信頼関係があれば、政府は税を撤廃しますから、国内の皆さん、物を買ってくださいよ、と誠実に協力を頼めば、国民もそれを信用して物を買ってくれるのである。例えれば、いつも仲の良い信頼できる親友が相手に今日はお金が無いから1000円貸してくれないか、必ず返すから、と言えばその人はいつも信頼している仲間だから難なく1000円を貸してくれるのである。この信頼関係が今の国民と政治家の間に無いのである。お互いに信頼出来ず、疑心暗鬼であるから、政府は消費税を撤廃しても国民がその代わりに消費を増やしてくれるという確信が得られないものだから、税収入の確保は増税しか無くなるのである。国民は国民で政府が信用できないから、将来の不安が消えず、消費を極力控え、預金ばかりするようになる。大事なのはやっぱり人間関係であり、互いに信頼関係を築く事なのだ。信頼を築くためには互いに日々対話をし、コミュニケーションをよくして互いに正直になって腹を割って話し合っておかなければならない。日本人というものはまず腹を割って話し合うという事が出来ない。表面の人間関係だけ取り繕って、陰ではボロクソに本音を言っている。そう、日本人の気質として日本社会はたて前だけは良くして、本音を隠す傾向にあるのである。すなわち、徹底的に議論する事を嫌う民族なのである。だから少し本音を言うとそこから緻密な話し合いをせず、すぐに喧嘩になって物別れになってしまうのである。いよいよこのたて前社会の終焉が近づいて来ている。日本の会社はほとんど上司と部下が本音で自分達を出し合って対話するという訓練が出来ていないから、部下が仕事でミスをするとすぐに暴言と暴力を吐いてパワーハラスメントになる。上司は怒ることが部下に対する教育だと勘違いしている。日本の会社はほとんどがブラック企業だと言ってもいい。怒るにしても日頃からコミュニケーションをよく取り、互いに信頼関係を築いていて言うなら、まだましたが、今の日本人は昨日まで会った事も無いお互いに何も知らない他人が新入社員で入って来た若者を仕事の関係になったら突然怒り出すのだからたまったものではない。これが続けば日本社会は誰も仕事をしなくなり、機能がいつか突然マヒしてしまうだろう。今の日本人に足りないのは相手を思いやる気持ちであり、やっぱり日頃から親密にコミュニケーションをとる態度である。正直、近い将来日本という国は無くなっているかもしれない。日本株は買いではない。売りである。大事なのは常に社会を動かしているのは常に感情を持った人間である事を自覚し、お互いの信頼関係を築く事にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

努力して頑張った分だけ報われるべきなのは正しい事なのか。例えば仕事でも、自分が心底苦労して成果を上げたのにそれを会社側があまり評価してくれなかったらどうであろう。こんな会社はいずれ潰れると思って会社を辞めるだろうか。確かに辞める人は辞めるだろう。しかし、果たしてこの世の中に心底努力して仕事を頑張る人など稀な例では無いだろうか。そう、大半の人間は生きていくために働かなければ食べていけないから、仕方なく働いているのが本音では無いだろうか。もし頑張った分だけ報われる会社があるとすれば、社内での日々の行いを逐一観察され、どんな些細な事でも点数をつけてくるだろう。そして毎年毎年到達できそうに無い無理な目標を立てて頑張らなければいけなくなるのであり、もしそれを達成できなかったら、どうして達成できなかったのか理由の報告書まで書かされるだろう。そして遂には戦力外として会社を辞めねばならないように仕向けてくるであろう。そんな会社は私は決して行きたいとは思わない。まるで全部監視されて非常に居心地が悪いからだ。もしそう遠くない将来、人工知能(AI)が会社の社長にでもなったら、私達は全員クビであろう。そんなくらいなら頑張ってあまり評価されなくてもクビにもならず、ずっと働かせてくれて給料をくれる会社の方がよほどマシだし、万人向けの会社だろう。そうなのだ。頑張った分だけ評価されるという事は、それだけ毎日自分の仕事ぶりが厳しく見られるという事であり、頑張ってもあまり評価されないという事は、それだけ毎日自分の仕事ぶりを厳しくでは無く、大目に人情味的に見守ってもらっているという事だ。そう、大体が人間などという生き物は本来怠け者なのであり、生き物だったら誰しも楽して生きていたいはずなのである。そう考えると、努力して頑張った分だけ報われるという論理も一見正しくは見えても、大半の人間のからすれば、ありがたい考え方では無いのである。すなわち人間向きでは無いと言って良い。現代社会は無駄を徹底的に廃しコストを下げ、効率ナンバーワンを目指す会社が最後に生き残れるなどとよく言われるが、結局人間が社会を形作っている以上、人間がすべて人工知能(AI)のようにならなければならないのかと言うとそうでは無いのである。すなわち効率ナンバーワンという考え方も現代特有の神話であり、すべてにおいて通用する普遍的真理では無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

政治学

今の世界情勢は貧富の差が激し過ぎて、どうしようも無いところまで差し掛かっている。なぜそうなったのか。それは権力の中央集権化のせいである。すなわち政府機関が大きすぎてなんでもかんでも政府が決めるから当然富裕層の意向に沿った、富裕層に有利な政策ばかり実行するからである。なぜなら政治を決める政治家自体が既に富裕層なのであり、庶民の貧しい窮状など知った事では無いからである。では正しい政治の在り方とはどの様なものか。まず、万物はすべて循環している。すなわち数学のコサインカーブの様に山があれば谷がありで、波動関数の様に周期性があるのである。今はちょうど山を登って頂上に達し、これからまた下り坂で谷に下りていかなければならない状態にある。すなわち周期性の山の部分とは、世界が第一次世界大戦と第二次世界対戦を経験し、すべてが焼け野原になり、あらゆる機能がマヒし、無法地帯になっている時であり、すべてを秩序正しく人民を統率するためには大きな政府という中央集権化は非常に有効な手段なのである。それによって人民の生活をコントロールし、まさに共産主義の様に一頭独裁の方が世界情勢は安定するのである。しかし1つの周期の寿命は大体70年間であり、人類は戦後70年かけて復興を成し遂げてきた。すなわち、先ほどのコサインカーブの山の頂上に達したのである。すなわち今の世界情勢は成熟期にあり、成熟期とはちょうど今の世界情勢の事を示しているのである。それは文明が首都圏に一極集中し、地方と都会の格差が肥大し、人とものや情報があまりにも中央政府の権限に委ねられているゆえ、広く隅々まで平等に富の拡散が行き渡らないのである。すなわち富の一極集中である。そう、それゆえに今の現代は貧富の格差が激しくなっているのである。これを打破するには中央集権化を破壊し、大きな政府を小さく解体し、出来るだけ政府の権力を小さくして、小さな政府を目指し、人間個人個人にもっと決定権という自由と権力を与えて世界の複雑な多様性に適応して行かなければならない時期に差し掛かっているのである。すなわち権力の分散化である。よってもっと地方自治体にその地方に応じた独自の政策を実行させる権限を与えて、隅々まで富が行き渡る様にしなければならないのである。すなわち既得権益層の解体である。しかし今の既得権益層は自分の支配権や利権を決して手放したくはないから、無理にでも人民を抑圧して押さえ付けているのである。しかし万物の法則である数学のコサインカーブの様な周期性という大河の流れには人間は決して逆らえないので、無理に人民を押さえ付けていても、いずれそれは崩壊するのは時間の問題である。すなわち大自然の摂理として、今からは谷に向けて下りていく段階であり、権力の分散化が必要不可欠なのである。そしておもしろい事に権力の分散化で富の分配が隅々まで行き渡ると、谷に向けて下りる段階は70年周期で終了し、次はまた山に向かって登っていく段階、すなわち中央集権化の政治が求められていく時代に入るのである。なぜなら、権力の分散化により、あまりにも個人個人に自由と権限が与えられているため、世界各地で権力闘争が起こり、人類はまた戦争する無秩序世界に突入するからである。この時にはまた逆に強い大きな政府という秩序でもって世界を統制しなければならないからである。すなわちこの中央集権化と中央集権化の解体という互いの70年周期での数学のコサインカーブの様に循環を繰り返すのが万物の流れであり、歴史の繰り返しなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

不確かな富にでは無く、神に希望を託すように。

(解説)

富とは不確かなものである。例えば、多くの巨体企業はそれこそ1兆円単位のお金を将来的に成長の希望のある新規ベンチャー企業に投資する。それはもう危険に満ちた賭け事である。もし莫大なお金を投資しても、その新規ベンチャー企業が思惑通りに成長出来なかったとすれば、投資した側は利息も含めて一瞬に莫大な金額のお金を失う。すなわち、投資するお金の額が大きければ大きいほど一円でも株価が下がって信用を失うと、それだけで何千億円と損失を出してしまうのである。この世界情勢は刻一刻と変化し、人工知能(AI)でさえも予測出来ないほど、複雑で波乱に満ちたものなのである。私達は自分達が明日どうなるかもわからないのである。それに比べて神は永遠不変の存在であり、すべてのものの造り主であり、全能者なのである。よって人よ、不確かな富にでは無く、常に神に依り頼むように。神に希望を託す者は決して裏切られる事は無いからである。まさに聖書にこう書かれてある。マタイによる福音書6章24節から33節。[またイエスは言われた。それで、私達は何を食べ何を飲むのだろうかと自分の命のことで、また何を着るのだろうかと自分の体のことで、心配するのをやめなさい。命は食物より、体は服より大切ではありませんか。鳥をよく観察しなさい。種をまいたり、刈り取ったり、倉に集めたりはしません。それでも天の父エホバは鳥を養っています。あなたは鳥よりも価値があるのではありませんか。また服のことでなぜ心配しているのですか。野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。ユリは苦労して働いたり、糸を紡いだりはしません。でも神は今日ここに生えていて明日火に投げ込まれる野の草木にも服を与えておられます。あなた方は野のユリよりも遥かに長く生きるのではないですか。ましてやあなた方人間には服を与えてくださるのです。信仰の少ない人達よ。それで心配して、何を食べるのか、何を飲むのか、何を着るのかなどと言う必要はありません。これらすべての事は神を知らない人達が必死に苦労して追い求めているものです。しかし天の父エホバはあなた方人間がこうしたものすべてを必要としている事を知っておられます。なぜなら神は人格的存在だからです。ですからまず神を第一に求めなさい。そうすれば、神は全能者ですから、あなた方が必要な時に必要なだけ、まさにあなたがその必要性を感じてうめく前にふさわしいタイミングで存分に与えてくださいます。それで次の日のことを決して心配する必要はありません。次の日は次の日に考えれば良いのです。何も計画せず、神を信頼してその日暮らしをしてゆきなさい。]

高田義裕の人生論

今日の格言

(お金で買えないもの)

健康はお金では買えない。また幸福はお金では買えない。また親しい人間関係はお金では買えない。

(お金で買えるもの)

無くても困らない高級車。無くても困らない豪邸。無くても困らない高級品。

(解説)

すなわち人間が生きていく上で必要不可欠なものはすべてお金では買えないものばかりなのである。よって人間は別に大金持ちになる必要など全くないという事である。しかも大金持ちの傾向として、お金を持てば持つほど、人は健康を害し、幸福では無く、孤独になるという事である。なぜならお金を儲ける人はビジネスに忙しく、休む暇も無いほど働く傾向にあるので、それにより、過労によって早死にするからである。またお金を持っている人ほど物質面では満たされていても、精神面では満たされず、心に病を抱えており幸福感が無いからである。またお金を持っている人ほど自分に近づいて来る人達を自分の持っているお金目当てに親しくしてくるだけに過ぎないと思っているから、人を信用しなくなり、自分の正直な気持ちや悩み事を打ち明けられる親しい友人もいないので、毎日高級品に囲まれながら1人で酒を飲むという孤独感を味わっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界中の愛する読者の皆様こんにちは。高田義裕です。何と昨日ブログサーバーのレンタルの更新が出来まして、またこれからも続けてブログを書けるようになりました。これもひとえに読者様のお陰です。本当にありがとうございます。それでこれからも引き続き記事を書いていきたいと思いますので、どうぞこれからも引き続きよろしくお願いいたします。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界中の愛する読者の皆様、高田義裕です。非常に悔しい事にこれからもずっとブログを書き続けるつもりでいたのですが、実際、もし生きていればこれから40年間、毎日書き続け、計14000の記事を書く目標で頑張っていたのですが、このブログサーバーは私はレンタルして書いていたのですが、今月いっぱいで期限切れになるので、新たにレンタルの更新をして書くつもりでした。しかし、更新したくてもどうしても更新の手続きに不具合が生じ、これ以上書きたくても書く事が出来なくなりました。本当に悔しい事です。それで今まで2018年1月から2019年10月14日まで書いてきた記事、約620記事がすべて2019年10月31日をもって消去されてしまいます。それで誠に申し訳ありませんが、もし私の記事をまだ全部読んでいない方は、ぜひとも2019年10月31日までにすべての記事を各自ダウンロードしてお読みする事をお勧めいたします。そうです、2019年10月31日付けをもって[高田義裕の人生論]の記事は全部消去されてしまいます。今まで私の記事を読んでくださった読者の皆様本当にありがとうございました。最後にもし私の著書に御興味のある方は2020年の2月28日まで販売している、題名が[命の書、著者名、高田義裕]という電子書籍の本と紙の本がAmazon.co.jpの電子書籍版からkindleストアで販売されておりますので、もし御興味のある方は読んでみてください。これでインターネットのブログサイトで書けるのは最後になりましたが、これまで読者の皆様のたくさんの励ましのコメントをお寄せくださった事で私は大変励まされ、深く感謝しております。私はまたこれからも日々勉強し、研究を続けて、いろいろな事に挑戦していきたいと思っておりますので、なにとぞこれからもよろしくお願いいたします。それでは最後になりましたが、読者の皆様のさらなる幸福を願って最後の挨拶に代えさせていただきます。