高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

さて、聖書の創世記1章1~2節を見てみよう。そこには、(初めに神は天と地を創造された。さて、地は形が無く、混沌としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、神の活動する力が水の表をゆき巡っていた。)とある。これは誰しも、地球が造られる前の古代の様子を述べたものとして解釈されている。しかし、実際には、これは現在の私達の人類社会の世界情勢を表しているのである。現在の私達の世界情勢は不安定で、明日どうなるか分からないほど無秩序であり、形が定まっていないほど混沌としている。すなわち、万物は闇の状態にあるのである。ここで言う水とは人間の事を指している。なぜなら、人間の造りは70%が水であり、水に例えられているからである。そして、神の活動力が水、すなわち人間の心の闇の表面をゆき巡っているのである。すなわち、この無秩序な闇の世界にあって、神は御自身の聖霊を用いて今活動されているのである。そして、遂に、創世記1章3~4節にある通り、神はこの闇から光が生じるように宣言されるのである。まさに聖書にこう書かれてある。(それから神は言われた。光が生じるように。すると光があるようになった。そののち神は光を良いとご覧になった。そして神は光と闇との区分を設けられた。)すなわち、近い将来、この現代社会に一筋の光という希望が差すのである。これこそ、神が万物を再創造される事を示すものであり、こうして初めて、神は新しい天と新しい地を創造されるのである。聖書にまさにこう書かれてある。(主権者なる主エホバはこのように言われた。いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも、心の中に上ることもない。)イザヤ書65章17節。このように我々の全人類の過去に行われてきたすべての悲惨で悲しい出来事はまるで初めから無かった事のように真っ白にされ、(神はすべての者から涙をぬぐい去って下さり、もはや死は無く、嘆きも叫びも苦痛ももはや無い、以前のものは過ぎ去ったからである。)ヨハネの黙示録21章4節。と宣言されておられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

多くの人を中途半端に救うより、1人の人間を完璧に救う方が勝っている。

2.誰もが大きな幸福をすぐに手に入れたがる。しかし、それは船乗りの経験が全く無い素人が、いきなりマグロ漁船に乗ってマグロを捕ろうとする事に似ている。そんな事をすれば、命を危険にさらし、命を落とすだろう。それより、まずあなたは小さなコップにメダカを飼いなさい。すなわち、小さくて些細な幸福をまず嚙みしめるのである。なぜなら、その小さな幸福の積み重ねが初めて、大きな幸福に繋がって行くからである。その方が安全であり、無理のない現実的な方法なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

(題名)       なぜ人は神に反逆したのか。

ここに最高の生き方があるとする。そして、神は最高の生き方を人間に与えた。しかし、最高の生き方を与えられた人間はそれを最高とは自覚出来なかった。なぜなら、人は最高の生き方だけを与えられている代わりに、他の別の生き方は全く知らなかったからである。(すなわち、比べられる余地を全く与えられていなかったので、☆-1 )その最高の生き方の良さを実感出来ず、むしろ当たり前の事の様に感じていた。そのため、エバは(狡猾な蛇から今の生き方よりも素晴らしい生き方がある、と言って嘘をついたのに、☆-2)   まんまとエバはその罠にかかり、神が与えてくださった最高の生き方を捨て、遂には神に反逆したのである。

☆-1   また、エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。園のすべての木からあなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし、善悪の知識の木については、あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである。(創世記2章16.17節)

☆-2   さて、エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。あなた方は園のすべての木からは食べてはならない、と神が言われたのは本当ですか。それに対して女は蛇に言った。園の木の実を私達は食べてよいのです。でも、園の真ん中にある木の実を食べることについて、神はあなた方はそれから食べてはならない。いや、それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだと言われました。それに対して蛇は女に言った。あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には、あなた方の目が必ず開け、あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです。(創世記3章1~5節)

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある中国の故事にはこうある。ある三匹の猿がいて、その猿を飼っている飼い主がいたのであるが、その飼い主は猿達に毎日一匹に3つずつ柿の餌を与えていた。合計で3×3=9個である。朝に3個与え、夜に6個与えていた。しかし、猿達はそれで満足せず、飼い主にもっと餌を増やしてくれるようキーキー鳴いた。それで飼い主は、朝に6個与え、夜に3個与える事にした。すると猿達は非常に喜んで餌が増えたと満足したのであった。ここで1日に与える数は同じなのに、猿達が喜んだのを見て、飼い主は薄ら笑って、馬鹿な猿達だと思って満足した。どうであろう。これを聞いてあなた方はやっぱり猿だ、人間と違って愚か者であると思われたであろうか。しかし、実は人間も大差ないのだ。なぜなら、あなたは今100万円貰えるのと、10年後に1000万円貰えるのとどちらを選ぶだろうか。ここで大半の人は、今すぐ貰える100万円の方を選んで喜んでしまうのである。すなわち、大半の人間の価値観や考え方も先ほどの猿達と同じで物事を短期的、短絡的に考えがちだからである。人は10年後先までどうするかを考え無いし、今すぐ手に入る一時的な快楽を求めるからである。よって人間も先ほどの猿達と同様、愚か者であるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自分が劣っていて、能力不足のゆえに仕事の面で上司から怒られてばかりだ、と思っているか。そして、別の同僚の方が自分よりも遥かに優秀で仕事が出来るから、上司に怒られる事も無く、楽に仕事をこなしてる、と思ってうらやんでいるか。しかし、現実はこうも違う。すなわち、仕事が出来ない者ほど、上司はその人の能力不足をよく理解しているから、難しい事も多くの事も求める事が無い。すなわち、諦められているから、何も言われ無いし、何も怒らないのである。しかし、上司から見て、能力があって優秀であると見込まれている者ほど、上司はその期待感から、その者を誰よりも怒り、厳しく接するのである。よって、あなたが上司から怒られてばかりいるなら、それはあなたが優秀な社員である事の証拠なのである。あなたは上司から期待されているから、他の社員よりも余計に怒られるのである。すなわち、仕事が出来る人の方が仕事を楽にこなしていると思われがちだが、実は逆で、優秀な人ほどより高いレベルを求められるので、仕事が出来ない人よりも仕事がきついし、毎日プレッシャーを受けて大変な思いをしているのである。よって優秀な人ほど厳しい現実を生きているのであり、優秀で無い人は自分よりも優秀な人が楽をしている様に思えても、それはただ単にあなたの間違った先入観であり、自分の方がまだ楽している事を自覚せねばならない。何事も他の人のしている事は楽に見えるのであり、隣の芝生は青く見えるだけなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当のお金持ちは手元にどれだけお金を持っているかによって測る事は出来ない。すなわち、お金を多く持っていても、貧乏人体質の人もいれば、お金を全く持っていなくても、お金持ち体質の人もいるのである。例えば、お金持ち体質の人とは、世の中の社会全体が不景気で、賃金も安く、誰もがお金を多く持つために、仕事を幾つも掛け持ちして必死でお金を稼ごうとしている中で、その人だけは、世の中の不景気など全く関係無く、常にマイペースであり、むしろ、必死で働いて苦しむのは嫌だから、他の人とは全く逆の方法、すなわち、仕事を減らして、自分のプライベートの趣味の時間を増やすという事が出来る人なのである。彼は賃金が他の人より低いのに、全く不安も無く、のんびり過ごしている。こんな人こそが本当のお金持ちなのである。それに対し、貧乏人体質の人とは、お金をどれだけ多く持っていても、それでも不安で仕方なく、世の中が不景気だと、ますます不安になって、必死でさらにお金を稼ごうと苦しむ人の事を言うのである。彼は物凄くケチであり、無駄なお金も使わず節制している。それでも、毎日の株価が上下するのを見ておちおち眠れないのである。すなわち、彼はどれだけお金があっても満足出来ないほど貪欲な者であり、こんな人はどれだけお金を多く持っていても、真の貧乏人なのである。なぜなら、貪欲とは貧しい欲と書いて貪欲と読むからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

恵まれていなくても、常日頃から感謝する心を持っていると、そのうちだんだんと運が向いてくる。また、恵まれていても、常日頃から感謝する心が無いと、その人は自分の身に逆境を招いている事になる。

2.大学などの入学試験の問題を解く時は、まず先に簡単な問題から解いて、その後に難しい問題をたっぷり時間をかけて解く方が効率が良い様に、仕事をこなす時はその逆で、まず時間のかかる難しい仕事を先に終わらせてから、後は比較的簡単な仕事をこなす方が精神的にも肉体的にも楽である。

3.人間は偉くなればなるほど、腰が低くなるのに対し、人間は下になればなるほど、威張って踏ん反り返っている。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰も1つの入れ物に2つのものを入れる事は出来ない様に、私達は神エホバの事柄とその他の事柄を同時に入れる事は出来ないのである。よって、私達は神の盃と悪霊の盃とに同時にあずかる事は出来ないのであり、神と富とに同時に仕える事は出来ないのである。すべて、一方を捨て、他方を受け入れるかのどちらかなのである。

2.神エホバは、甘やかせる方では決して無いが、決して厳しい方では無いのである。神エホバは非常に寛容でその心は大きく、懐の深い、その心に幅を持たれる方であり、融通の利く方なのである。

3.私達人間にとって、何が大事であるかと言えば、それはハードであって、ソフトでは無い事、すなわち、どんな良い事を知り得たかというソフトでは無く、物事をどう良いふうに考えられるかという心掛け、すなわち、ハードの部分なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)    なぜ自分の側の信号ばかりが赤になるのか。

この世の中のありとあらゆるものは複雑に動き、複雑な関係性を持っている。例えば、人間関係は複雑だし、車の動きも複雑である。そこには全くランダムな関係しか無く、そこには何の規則性も無い様に見れる。しかし、この複雑性はあくまでも人工衛星から見る様な全体的視野から眺めて見ればの話である。ここで、人間関係なり、車の動き方なりを非常に局所的、部分的に見てみよう。すなわち、顕微鏡で物事を見る様にしてみるのである。そうすると、マクロの視点からは、何の規則性も見られかった複雑な関係が、ミクロレベルで見ると、途端に、すべてに規則性が現れて来るのである。人間ならどんなに複雑な関係でも、その人間を要素として捉えるなら、たったの7種類の要素で成り立っている事が分かる。すなわち、どんな人間も親であり、子供であり、孫であり、祖父母であり、兄弟であり、男であり、女であるという事のどれかに分けられるという事である。車の動きもそうである。車の動きをある1つの信号機の周り100メートルの範囲内に限定すると、車の動きはすべて先物順になっている。すなわち、先に来た車が先頭におり、後に来た車が後尾にいる。後に来た車が前の車を追い越して前方に行くという事は無い。そんな事をすれば、運転手はパニックになり、次々と交通事故を起こすだろう。すなわちそこには先に来たもの順という単純な規則性が見出されるのである。この様に全体的には複雑でも、それは部分的には規則性があるのである。ここで、あなたは日々車を運転して買い物に行ったり、会社に行ったり、ドライブに行ったりしている事であろう。そこには何ら規則性は無く、全くなランダムな時間帯で行っているに違い無い。なぜなら、人は行動する時、いちいち計測して動いている訳では無く、気分のままに行動しているからである。また、信号についても、全世界規模で眺めると、信号が赤になったり、青になったりする事に何の規則性も無く、ランダムな時間帯で赤になったり、青になったりしているはずである。しかし、先程と同じ様に信号の赤になったり青になったりする時間帯を全体的視野から離れて、非常に局所的、部分的に拡大して見ると、あなたがいつも通る道路の信号は、あなたが全くランダムに、偶然的にそこを通ったとしても、いつも自分の側の信号が赤になる事に気付かないであろうか。自分は別に意識的に時間を見計らって、その信号の交差点を通る訳では無いのに、なぜか、いつも赤信号に引っかかってしまうのである。ここでまた、先程で述べた規則性が現れてきているという事であり、この様な理由で自分の側の信号がいつも赤信号になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバから見れば、人はその年若い頃から、心の傾向が悪い方に傾いているが、人から同じ人を見れば、私達はお互いに悪い者同士というよりも、私達はお互いに弱い者同士なのである。よって、人が悪を行うのは、悪いからでは無く、その人の良心が弱いからである、と結論出来る。よって私達は悪人を憎むのでは無く、悪人を憐れむのである。

2.神エホバに従っていない者にも繁栄や幸福はあるが、それらは必然的、その人の労力によって得たもの、永遠的、永続的なものでは決して無く、それらはほぼ偶然に拠るのである。よって神エホバに従わない者は、たとえ今幸福で繁栄していても、それは長くは続かないのである。

3.理にかなっており、また、当然の事として、私達はまず聞かなければ理解を得る事が出来ないし、理解してからで無ければ、それに全く従う事も出来ないのである。