高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)      人を救う事の難しさ(2)

ある重度の精神的疾患にある人はあまりの凶暴さゆえに、精神病院の中の檻で鎖につながれていた。しかし、その病人の家族や友人達は諦めず、常に彼に対して彼に寄り添い、彼を精神的に支え、彼に対するケアを続けた。幾度も幾度も失敗し、病状が良くなったと思ったら、途端に元の悪い状態に戻ったりの繰り返しで、絶望感を感じる事も何度も経験した。しかし、1人が倒れそうになると、別のもう1人がその人を支え、こうしてチームワークで互いに助け合いながら、皆気持ちを1つにしてその病人に対し、全力で治療を続けた。その甲斐あって、少しずつではあるが、彼の強暴性は次第に収まり、遂には実際の現実社会に出て、仕事を見つけ自立出来るまでになった。家族や友人達は皆、奇蹟が起きたと涙を流して互いに抱き合って喜んだ。気付いて見ると、そうなるまでに20年の月日が経っていたのであった。どうであろう。たった1人の人を救うのに家族や友人、医師、看護師、地域の人達を含めて何十人の人がそれに携わってようやく1人の人を救う事が出来たのである。この全世界には精神的肉体的な病気で苦しみ、その結果、心を病んでいる人が大勢いる。人類の人間の数をざっと見積もって70億人いるとしよう。この70億人の中で自分はなんの問題も悩みも無く、精神的肉体的に全く健康であると言える人は1人としていない。皆何らかの事が原因で問題と悩みを抱えている。それではその全人類を救うためにどれほどの時間を要するであろうか。単純に先ほどの例を基にして計算してみると、70億人×20年=140000000000年(1千400億年)もかかるのである。これは宇宙誕生から今までの年数よりも遥かに長い途方も無い数字である。また1人の人を救うのに少なく見積もって100人の人々の協力が必要であると仮定して、これも単純に計算してみると、70億人×100人=700000000000人(7千億人)もの人数が必要となるのである。この数は人類誕生から現在までの生まれてきた人すべての数よりも遥かに多いのである。これほど人の苦しみを癒すためには、途方も無い人数と時間とエネルギーとすべての人々の協力しようとする強い心の一致が必要不可欠なのである。果たして現時点で全人類が心を1つにして1つの目標に向かって全力で一致する事が出来るであろうか。いや、残念ながら全人類は一致するどころか全く分裂しており、争いや紛争は絶えず、そんな事は全く不可能で絶望的である。これにより人を救う事がいかに難しい事かが理解出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)       人を救う事の難しさ

人を救う事は難しい。最近では、孤独死という言葉が日本では定着しつつある。誰にも自分の存在すら知られずに、貧困の末、アパートの一室で腐乱死体で発見される。遺体の後始末も誰も引き取り手が無く、アパートの所有者とその死人の親族の間で言い争いになる事はしょっ中である。なぜ彼らは社会的に最低限の生活を保護する国の機関や福祉の受け皿があるのにそれを利用しないのか。それはひとえにプライドである。いい歳になって、自分はそれまでの人生を自分なりに必死に生きて来たというプライドが社会福祉に頼るのを拒むのである。すなわち、心が素直で謙遜でなければ、見ず知らずの他人に、助けてください、というその一言が言えないのである。彼らは助けを必要としていることを十分認識しておきながらも、頭を下げて助けてくださいという事を恥だと思っている。そんな自分がみっともない恥を掻くくらいなら、死んだ方がマシだと思うのである。すなわち人の善意を素直に受け入れられる心の状態になっていないのである。これこそ問題であり、本当に助けを必要としている本人自身が助けを拒んでいるという自己矛盾の問題があるのである。よって、人を助けたいと思っても、本人が助けて欲しいにもかかわらず、あくまでも自分の自尊心が邪魔をして、助けに来てくれた人に悪態をついたり、逆に暴力まで振るってしまうのである。当然助ける側も人間だから、そんな事をされては助けてやろうとする気持ちも冷めてしまう。ここが人を救う事の難しさなのである。もし、その様なプライドがある人達が奇蹟的に相手の言う事を素直に聞いて、援助を受け入れたとしても、そこからがまた大変である。彼らの孤立した理由は悲惨なものであり、人間としての扱いを受けず、奴隷の様に扱われて来たから、物凄い鬱憤とストレスと不満を体中に溜め込んでいる。当然その人は援助する側の人に今まで溜まり溜まった不満を暴言や暴力という形で吐き出す。暴言や暴力を受ける側の忍耐もそこで尽き果て、しまいには見捨てざるを得無くなるのである。まさに助ける側も命懸けであり、まるで完璧で神の様な忍耐強さを求められてしまい、助ける側も心身を病んでしまうのである。よって人が行える援助も物質的な面では事足りても、精神的な面ではどうしても無理があるのである。よって、私達罪深い人間は、助ける側であろうと、助けられる側であろうと、唯一真の神であるエホバに依り頼み、その方の前で常日頃から謙遜で素直な心を培う訓練をし、いざという困った時には、恥を物ともせず、率直に助けて下さい、と正直に他の人に言える様な精神状態を保っておかなければならないのである。それは誰のためでも無い、自分のためなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近は、巷では浮気をしたり、浮気や不倫が原因で離婚する事が全世界規模で増えているが、1人の女性も生涯に渡って愛しきれない者が、どうして複数の女性を愛しきれるだろうか。1人の女性も生涯の最後まで愛しきれない者は、1人の女性すら愛する資格は無いのである。あくまでも、1人の女性を最後まで愛しきれる者が初めて、多くの女性を愛する事が出来るのである。これは自分自身を律する事が出来ない者が、ましてや他の人を律する事が出来ないのと同じである。こういう自分自身の世話さえ出来ない者ほど他の人の事を構おうとする精神的幼稚な現実があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

新貨幣論

金とはそれだけでは単なる紙切れに過ぎない。では、その単なる紙切れを金としての価値を持たせるにはどうしたらよいか。まず、お金が無ければ生活出来ない社会システムを構築しなければならない。すなわち、直接的取り引きである物々交換を廃止させることである。そのために人間の消費意欲を高めるために数多くの魅力的な商品を作って人々に見せびらかすのである。そして、それを手に入れなければ幸福にはなれないという洗脳思想を大衆にマインドコントロールするのである。なぜなら、すべての人間が最低限の貧しい生活で満足してもらうと貨幣というシステムが維持出来ない。もっと豊かになりたいと大衆を扇動させ、もっと物が欲しいという欲望をかり立たせて、そのために大衆はもっとお金を稼がなければならないという意識を持ってもらわなければならないのである。その様にして大衆をさんざん働かせて膨大なお金の量を流動させなければ貨幣は金という価値を持てないからである。すなわち、貨幣社会とは人間の飽くなき所有欲望が原動力となって初めて機能するシステムだからである。次に何より大事なのは、お金を大衆には簡単に手に入れさせない様にする事である。なぜなら、お金が誰にでも簡単に手に入ってはこれもまた、金という価値は全く生まれないからである。すなわち、金に価値を与えるためには、働いても働いても一向に豊かになれない膨大な数の、奴隷とも言うべき貧困層の存在が必要不可欠であること。そのためにはごく一部の人間が全世界の資産の99%をまず独占する。そして残りの僅かな1%の資産を一般大衆に与えて奪い合いの競争をさせる事が大事である。すなわち、我々一般大衆が汗水垂らして酷い思いをしなければお金を得られない状況を作り出す事で金の価値は初めて維持されるのである。それは逆に言えば、大した労働をしなくても莫大なお金を手に入れている部類の階層の人々がいることをも証明している。例えば、全世界の人口が100人いるとする。そして全世界の総資産が1000兆円あるとしよう。まずたった一人の人が総資産1000兆円のうち999兆円を独占する。そして残りの1兆円のうち9999億円を僅か9人が何も労働せずに、ピンハネする。すなわち一人当たり1111億円を手に入れる。そして残りのたった1億円を残りの90人に奪い合いをさせるのである。この様に貧困層と富裕層という高低差が高ければ高いほど、まるで滝のように水というお金は強い勢いで流れ下るのである。すなわち、一般大衆社会は修羅場と化し、弱肉強食のむごい生き地獄となる。そうなれば当然、お金が全く手に入らない絶対的貧困層が発生する。それで、それらの人々を奴隷にしてタダ働き同然にこき使う事によってこの全世界の経済は成り立っているのである。要するに富裕層は貧困層の上にあぐらをかき、良くも悪くも一般大衆から搾取して富を得ているのである。これは大多数の人々からお金をかき集めて損をさせ、たった一人の当選者に配当金を与える宝くじのカラクリとよく似ている。しかし、貨幣とは信用無くしては金としての価値は持てない。信用とは人と人との間の確かな信頼関係の事を指す。しかし、今日、金の価値の根幹を支える信用そのものが大きく揺らいでおり、崩壊の危機にあることである。なぜなら、人と人との間の人間関係は希薄なものとなっており、かつて無く人間関係の信頼性は薄くなっている。家族関係は崩壊しており、離婚率は高く、学校や職場では、足の引っ張り合い、いじめが横行している。コミュニケーションの欠如により犯罪も多くなり、テロリストの台頭、職場のパワーハラスメント、男女間のセクシャルハラスメントも多発している。隣の家に誰が住んでいるかもろくに知らないし、信用できるものがお金しかなくなってきている。この信用できるものがお金しかないという状況が実は一番危ういのである。人々が実際の生の人間よりも、もともと紙切れでしか無いお金しか信用できなくなるという事は、一種のパラドックスであり、ジレンマなのである。すなわち、高度な経済社会になればなるほど、人間関係の信用性は失われ、実体の無いデジタルマネーだけがゴーストの様に人間を支配するのである。この状態はある日突然、ちょっとしたハプニングで貨幣社会という脆いガラスで出来た体制を崩壊させるには十分であり、その時人間社会は行き所を失い、音を立てて崩れ去るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

絶望社会

今、人類は滅亡の危機に瀕している。全世界規模での自然災害、雇用情勢の不安、治安の悪化などである。昨今人々の雇用情勢はますます悪化している。まず、学歴が高くても仕事が見つからない。たとえ見つかっても非正規雇用ばかりである。運良く正社員にはなれても、その仕事の内容は誰もしたがらない汚くて危険な仕事ばかりである。たかだか手取り30万円を得るために会社の社畜として奴隷の様に働かされる。責任の重いきつい仕事を任せられ、家に帰っても会社から電話がかかってくる。また、職場の人間関係も非常に希薄で、影で悪口を言われる陰湿なものとなっている。誰もがその場の空気を必死に読み、自分の言いたい事も言えず、人間関係で神経をすり減らし、上司からのパワーハラスメントでさんざん罵られ、次第に自信を失い、自尊心は奪われ、精神を病んでいく。そうして職場は、人の出入りの激しい人間の使い捨ての処理場となる。人々の暮らしはもはや生活と呼べるものでは無く、生存できるかというサバイバルゲームにまで追い詰められている。こうして精神病院は患者で溢れ、会社は慢性的な人手不足に陥っている。その穴埋めを、今いる少数の生き残った正社員がすべてこなさなければならなくなり、当然一人当たりのサービス残業は増え、残っている正社員の負担は大きくなり、彼らも次第に疲弊し、心身を病んで退職せざるを得なくなる。それでも先行きの不透明感から、この慢性的な不景気に脱却する事の出来ない企業は会社員の給料を上げる事はせず、会社の内部留保だけはじゃぶじゃぶに有り余っている。また国は国で深刻な財政赤字を抱えており、何かに付け増税ばかりする。しかし税金を払ってくれる肝心の国民の生活事情はますます苦しく、安い給料しか所得が無いため、消費は低迷し、社会は慢性的な不景気から脱する事が出来ない。これにより、国全体がますます萎縮し凋落していくのである。先進国では、少子高齢化が進み、国の支出の負担はますます増えるばかりである。これにより、ちょうどいいバランスの上に成り立っていた中流階級が消滅し、彼らは皆一気に貧困階級に転落する。これにより、すべては両極端な超富裕層と超貧困層に分離してしまう。人類の将来は映画のバイオバザードの様な危険な無法地帯か、がんじがらめにすべてを規制するケツの穴まで見られる様な超管理(監視)社会になるかのどちらかであろう。すなわち、貧困層も苦しむのは当然のこと、富裕層も国の相続税や所得税の増加により、その餌食となって苦しむ事になるのである。これが慢性化すると、いずれ負のピークが訪れ、世界は大混乱に陥り、人類は何もしなくても勝手に自滅して行くであろう。要するに人間の人間による人間のための自治は失敗に終わり、人が人を支配する能力が全く無いことが証明される事になるであろう。これにより、人間を完全に支配する能力をお持ちなのは、ただ1人、エホバ神である事が明らかにされるのである。よって、神は人類が自滅するまさに寸前に人類社会に介入され、この疲弊した終わり行く全世界をハルマゲドン(最後の審判)によって滅ぼされるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

さて、聖書の創世記1章1~2節を見てみよう。そこには、(初めに神は天と地を創造された。さて、地は形が無く、混沌としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、神の活動する力が水の表をゆき巡っていた。)とある。これは誰しも、地球が造られる前の古代の様子を述べたものとして解釈されている。しかし、実際には、これは現在の私達の人類社会の世界情勢を表しているのである。現在の私達の世界情勢は不安定で、明日どうなるか分からないほど無秩序であり、形が定まっていないほど混沌としている。すなわち、万物は闇の状態にあるのである。ここで言う水とは人間の事を指している。なぜなら、人間の造りは70%が水であり、水に例えられているからである。そして、神の活動力が水、すなわち人間の心の闇の表面をゆき巡っているのである。すなわち、この無秩序な闇の世界にあって、神は御自身の聖霊を用いて今活動されているのである。そして、遂に、創世記1章3~4節にある通り、神はこの闇から光が生じるように宣言されるのである。まさに聖書にこう書かれてある。(それから神は言われた。光が生じるように。すると光があるようになった。そののち神は光を良いとご覧になった。そして神は光と闇との区分を設けられた。)すなわち、近い将来、この現代社会に一筋の光という希望が差すのである。これこそ、神が万物を再創造される事を示すものであり、こうして初めて、神は新しい天と新しい地を創造されるのである。聖書にまさにこう書かれてある。(主権者なる主エホバはこのように言われた。いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも、心の中に上ることもない。)イザヤ書65章17節。このように我々の全人類の過去に行われてきたすべての悲惨で悲しい出来事はまるで初めから無かった事のように真っ白にされ、(神はすべての者から涙をぬぐい去って下さり、もはや死は無く、嘆きも叫びも苦痛ももはや無い、以前のものは過ぎ去ったからである。)ヨハネの黙示録21章4節。と宣言されておられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

多くの人を中途半端に救うより、1人の人間を完璧に救う方が勝っている。

2.誰もが大きな幸福をすぐに手に入れたがる。しかし、それは船乗りの経験が全く無い素人が、いきなりマグロ漁船に乗ってマグロを捕ろうとする事に似ている。そんな事をすれば、命を危険にさらし、命を落とすだろう。それより、まずあなたは小さなコップにメダカを飼いなさい。すなわち、小さくて些細な幸福をまず嚙みしめるのである。なぜなら、その小さな幸福の積み重ねが初めて、大きな幸福に繋がって行くからである。その方が安全であり、無理のない現実的な方法なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

(題名)       なぜ人は神に反逆したのか。

ここに最高の生き方があるとする。そして、神は最高の生き方を人間に与えた。しかし、最高の生き方を与えられた人間はそれを最高とは自覚出来なかった。なぜなら、人は最高の生き方だけを与えられている代わりに、他の別の生き方は全く知らなかったからである。(すなわち、比べられる余地を全く与えられていなかったので、☆-1 )その最高の生き方の良さを実感出来ず、むしろ当たり前の事の様に感じていた。そのため、エバは(狡猾な蛇から今の生き方よりも素晴らしい生き方がある、と言って嘘をついたのに、☆-2)   まんまとエバはその罠にかかり、神が与えてくださった最高の生き方を捨て、遂には神に反逆したのである。

☆-1   また、エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。園のすべての木からあなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし、善悪の知識の木については、あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである。(創世記2章16.17節)

☆-2   さて、エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。あなた方は園のすべての木からは食べてはならない、と神が言われたのは本当ですか。それに対して女は蛇に言った。園の木の実を私達は食べてよいのです。でも、園の真ん中にある木の実を食べることについて、神はあなた方はそれから食べてはならない。いや、それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだと言われました。それに対して蛇は女に言った。あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には、あなた方の目が必ず開け、あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです。(創世記3章1~5節)

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある中国の故事にはこうある。ある三匹の猿がいて、その猿を飼っている飼い主がいたのであるが、その飼い主は猿達に毎日一匹に3つずつ柿の餌を与えていた。合計で3×3=9個である。朝に3個与え、夜に6個与えていた。しかし、猿達はそれで満足せず、飼い主にもっと餌を増やしてくれるようキーキー鳴いた。それで飼い主は、朝に6個与え、夜に3個与える事にした。すると猿達は非常に喜んで餌が増えたと満足したのであった。ここで1日に与える数は同じなのに、猿達が喜んだのを見て、飼い主は薄ら笑って、馬鹿な猿達だと思って満足した。どうであろう。これを聞いてあなた方はやっぱり猿だ、人間と違って愚か者であると思われたであろうか。しかし、実は人間も大差ないのだ。なぜなら、あなたは今100万円貰えるのと、10年後に1000万円貰えるのとどちらを選ぶだろうか。ここで大半の人は、今すぐ貰える100万円の方を選んで喜んでしまうのである。すなわち、大半の人間の価値観や考え方も先ほどの猿達と同じで物事を短期的、短絡的に考えがちだからである。人は10年後先までどうするかを考え無いし、今すぐ手に入る一時的な快楽を求めるからである。よって人間も先ほどの猿達と同様、愚か者であるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自分が劣っていて、能力不足のゆえに仕事の面で上司から怒られてばかりだ、と思っているか。そして、別の同僚の方が自分よりも遥かに優秀で仕事が出来るから、上司に怒られる事も無く、楽に仕事をこなしてる、と思ってうらやんでいるか。しかし、現実はこうも違う。すなわち、仕事が出来ない者ほど、上司はその人の能力不足をよく理解しているから、難しい事も多くの事も求める事が無い。すなわち、諦められているから、何も言われ無いし、何も怒らないのである。しかし、上司から見て、能力があって優秀であると見込まれている者ほど、上司はその期待感から、その者を誰よりも怒り、厳しく接するのである。よって、あなたが上司から怒られてばかりいるなら、それはあなたが優秀な社員である事の証拠なのである。あなたは上司から期待されているから、他の社員よりも余計に怒られるのである。すなわち、仕事が出来る人の方が仕事を楽にこなしていると思われがちだが、実は逆で、優秀な人ほどより高いレベルを求められるので、仕事が出来ない人よりも仕事がきついし、毎日プレッシャーを受けて大変な思いをしているのである。よって優秀な人ほど厳しい現実を生きているのであり、優秀で無い人は自分よりも優秀な人が楽をしている様に思えても、それはただ単にあなたの間違った先入観であり、自分の方がまだ楽している事を自覚せねばならない。何事も他の人のしている事は楽に見えるのであり、隣の芝生は青く見えるだけなのである。