高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は進歩していくという観点から見れば、今後ますます進歩していくだろう。そう遠くない将来には、我々は何もしなくてもすべて機械(AI)か、アンドロイドが全部代わりにやってくれる様な世界が到来するかもしれない。しかし人間は倫理という観点から見れば、何もしなくても全部代わりに誰かがしてくるという状況は非常に由々しき状況である。なぜなら倫理の法則には(等価交換)という価値観があって、それは何事も働いた分だけしか得る事は出来ないという原則が働いているからである。すなわち、そんな怠け者の世界が許されるほど世の中は甘く無いよ、というわけだ。これはどう考えれば良いだろう。しかしここで我々は(進歩する)ということ自体が倫理的な原則である事に気付く。すなわち、人間は同じ事をやっていても、そのうちマンネリ化し、衰退していくという、これも倫理的価値観の中の熱力学第3の法則である、(すべてのものは放っておくといずれは必ず朽ち果てる)という原則に基づいている。そう、最低限の現状維持を保つ為には、人間は常に新しいものを目指して努力していかなければならないのであり、その為に進歩する必要があるのである。こう考えると、どんなに世の中が進歩しても、倫理的観点から結論するならば、何もしなくても全部代わりに誰かがやってくれるなどという世界は到来しそうに無いのである。もし仮に人間がその様な理想郷を形づくったとしても、その代わりにまた自然は新たな問題を生じさせるであろうという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんなに素晴らしく思われる事でも、理想は理想で終結し、夢は夢で終結し、幻想は幻想で終わるのである。私達はいつでも、私達にとっての現実を現実によって捉えなければならないのである。

2.ある人々の成功している栄光ある姿を見て、これが現実だ、と思う者は、本質の核心部分では無い、表面的な外面だけのカゲロウの様な影だけを見て、これが実体だ、と勘違いしている者達なのである。すべて、他の人の事は良く見える部分だけを見て、本当の苦しい実体を見ていないのである。隣の芝生は自分の家の芝生より青く見えるものなのである。

3.ある事柄を曖昧さを避ける為に、はっきりと決定する事は正しい事柄であるけれども、決定した事によって正当な自由が侵害される場合、その決定は間違いであると言える。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰とて自分が甘えても甘やかしてくれる優しい異性と付き合いたいと思うだろう。そういう人当たりのいい人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最高の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの優しい態度をガラリと変え、それに全く関わり合いたく無い故に、急に冷たい態度になり、あなたを捨てるだろう。優しい人は優しいだけで、問題解決能力に乏しく、面倒な事には一切関わり合いたく無い、薄情なタイプの人間だからである。また、誰とて自分に対して厳しくて、気難しい異性と付き合いたくないと思うだろう。そういう見た目は悪そうな人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最悪の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの気難しい態度をガラリと変え、あなたの事を親身になって考え、助けてくれるだろう。気難しい人は普段は気難しい代わりに、問題解決能力があり、面倒な事でもあえて間に入ってくれて、人情味のある頼もしいタイプの人間なのである。要するに、すべてが揃っている万能な人間などこの世の中に1人もいないという事である。すなわち、すべてには一長一短があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある身体障害者がいた。彼はパラリンピックで、右足の膝から下の部分が無いのに、100メーター競争で世界新記録を叩き出した。悪魔はそれを見て神に言った。彼を見て下さい。彼は片足が無いのにあれだけの運動能力を出せるのです。もし、五体満足であれば、いかほどのものとなれるでしょう。そこで、神は奇蹟的に彼を癒やして右足を元通りにさせた。そうして神は彼がそれ以上の能力を出せるのか見守った。ところが、彼は自分が五体満足になったとたん、自分の名声と地位を利用して淫行の限りを尽くし始め、暴飲暴食し、以前の引き締まった筋肉質の体とは程遠い、みるみるのうちに脂肪の付いた肥満体になってしまった。そうである。人間は恵まれ過ぎていては堕落してしまうのである。人間は自分に何かが足りない時、むしろ能力を発揮し、すべてが揃っている時以上の働きをするのである。すなわち、ハングリー精神が人を向上させるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

題名    わずかしか貰わない者が最後には、多く貰う事になる。

[解説]

現実社会において、多く稼いでいる者と少なく稼いでいる者がいる。それでは、全人生という長いスパンで考えて、生涯でどちらの方が多く稼ぐだろうか。もちろん多く稼いでいる方に決まっている、とあなたは言うであろう。ところが実はそうでは無い。例えば、ある人は年収が1000万あるとしよう。そしてもう1人の人は年収が180万あるとしよう。ひと月に換算すると、多い人は月83万も貰っている。それに対し、少ない人は月15万しか貰っていない。この状態は長く続くと思われていた。しかし、現実はそう甘くは無かった。リーマンショック並みの不景気が突然起きたのである。多く貰っている人も、少なく貰っている人も共に職を失った。年収1000万あった人は、毎月の生活費が収入に応じて高かったため、一気に生活レベルを下げなければならなくなった。それだけならまだ良いが、月83万の収入の内、70万以上の支出があったため、収入がマイナスに転じた。それで彼は借金を背負わなければならなくなり、コツコツ貯めておいた貯金を取り崩すほか無くなった。そして少しの間は持ちこたえたが、貯金もわずかになり、彼は再就職の道を進まざるを得なかった。必死に仕事を探してもなかなか見つからず、ようやく仕事を見つけたが、その収入は月でわずか15万円であった。彼はその金額では、毎日食べていくのが精一杯で、貯金する余裕も無かった。それに対し、年収180万円の人は、職は失ったけれども、毎月15万の生活費の中から5万円ずつコツコツと貯金していたので、暮らしは以前ほど変わらず、そんなに苦しくは無かった。それに、毎月15万円くらいの給料の仕事なら、探せばいくらでもあったし、借金も無かったので、余裕を持って良い条件の仕事口を探す事が出来た。新しい職場は、なんと月に22万円の収入があった。昔より7万円もアップしたのだ。そうして彼はその7万円を毎月5万円ずつ貯金していた通帳に加えて、合計12万円も貯金出来るようになった。どうであろう。日頃多く稼いでいる人は、日々の生活も贅沢にしがちであり、突然の災難の時には一気に転げ落ちてしまうのである。しかし、日頃多く稼いでいない人は、日常の生活も切り詰めて質素に暮らしているから、突然災難に遭っても、普段の生活にそんなに大きい変化も受けずに安定しているのである。すなわち、多く稼ぐ者はまた、いざという時には、多くを失うのであり、その損失もまた大きい。しかし、わずかしか稼がない者は、いざという時にはわずかしか失わないのであり、その損失もまた小さいのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

親ある子にとって、子の都合の悪い時だけが親でなくて、子の都合の良い時だけが親であるとは決して考え無いように、神エホバの子である私達人間も、自分達の都合の良い時だけに神エホバに従い、自分達の都合の悪い時には神エホバに従わないというわけには決していかないのである。

2.神エホバの御言葉とは、常に選択できる余地があるという事に着目すると、神の言葉とは[人はどのように生きなければならないのか]という事柄に対して述べられているのでは決して無く、[人はどう生きれば幸せになれるか]という視点で述べられているのであって、強制では無いという事である。しかし、結果的に神の言葉通りに生きなければ、人は不幸になるので、神の言葉は、人の生き方そのものに直結しているという事なのである。

3.日々、できればすべての人々の前に自分の最善を供えなさい。しかし、神エホバの前には常に自分の最善を供えなさい。

4.御子イエスキリストは、[お互いに与え合い、お互いに忍び合い、お互いに愛し合いなさい]と言われたのである。よって一方の人が他方に与えるままであったり、他方が一方から与えられるままであったり、一方が他方に対して忍ぶままであったり、他方が一方から忍ばれるままであったり、一方が他方を愛するままであったり、他方が一方から愛されるままであったりしてはいけないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは常に努力し続ける事を止めず、常に心のアンテナを張って、つぬに見張っていなさい。あなたの業がいつ、どこで成功するかは分からないからである。また、あなたは常に誰の事も非難したり悪く言ったりしないようにしなさい。あなたがいつ、どこかで思いがけず誰かに助けて貰う事になるか分からないからである。あなたは普段悪口を言っているその人に助けて貰うような事になるかも知れず、そうなった時に、決まりの悪い思いをすることの無いためである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間はどんな存在にも成れる。上空へと羽ばたく真っ白な鳩のようにも成れれば、腐敗した死肉を喰らう黒いカラスのようにも成れるのである。すなわち、人間は、最高の存在にも成れるし、最悪の存在にも成れるのである。このように人は、非常に多様性に富んだ、あらゆる未知の可能性を秘めている素晴らしい生き物なのである。例えば、淫行の限りを尽くした女が、誰の子供か分からない子を公衆便所で産み、それを放置して死なせた。それを密かに見ていた男が、それを警察に通報しない口止め料として、その女を自分の性の奴隷として犯しまくる。それによって産まれた子供をまた放置して死なせ、2人は警察に逮捕され、刑務所行きになる。その刑務所内でその男は男達から輪姦される。女は看守から密かに呼び出され、性的暴行を受け、その苦しみから逃れる為に独房内で自殺する。このようになる人も居れば、ある人は、犯人の男から自分の愛する子供を性的に暴行を受け、挙げ句の果てに殺された。犯人の男は逮捕され、死刑の宣告を受け、処刑された。しかし、その犯人の男には、自分の愛する子供がいた。すると、犯人に自分の子供を殺されたその人は、身寄りのいない犯人の子供を引き取り、死んだ自分の子供同然のように可愛がって育てた。そしてその子は立派に成人して、性的に搾取されている子供達を助けるための非政府組織、NGOを立ち上げ、そのリーダーとして世界を飛び回っている。犯人の子供を育てたその人は最後までその子に過去の事実を告げずに、その子の父親としての役割を演じ切り、死んだ。そんな神の様な人もいるのである。この様に人間とはピンからキリまで幅広い領域を持てる生き物なのである。

2.例えば、足が骨折した時、その折れた足はそれが治った時、足が骨折する以前よりも丈夫で強固になる。同様に人間も、厳しい逆境に突然見舞われて苦しみのあまりその心が折れてしまう。しかし、ひとたびそこから立ち直った後には、その人の心は逆境に遭う以前よりも強くなり、苦しみを耐える面で免疫力がつく。

高田義裕の人生論

今日の箴言

資力の乏しい人は誰からも好かれ無い。なぜなら、何も無いくせにプライドだけは高いからである。これは他の人から見れば、なんて生意気な奴だとしか感じられないだろう。しかしここで、視点を変えて、その本人の立場に立って考えて見るならば、本人からしたら、何も無いからこそ、プライドが欲しいのである。何も無い人にとって、プライドだけが唯一の心の拠り所であり、心の支えなのである。彼らはそれだけで、かろうじて自分の自尊心を保っているのであり、そのようにして、誰も自分の仲間になって貰えないからこそ、態度だけは大きく見せて、周りの人間からナメられないように武装しているのである。よって、どうか彼らを許してやって欲しい。彼らは実は寂しがりやであり、本当は心の繊細な人達なのである。彼らはその人生の途上において、常に邪魔者扱いされて来たから、他の人を敵視しているのである。彼らには純粋な愛情が甚だ不足している。彼らには愛が必要なのである。それも一時だけの愛では無く、長い期間にわたる愛情を必要としている。確かに彼らは態度は生意気かもしれないが、それは長い間、十分に愛情を受けて来なかった事によって、フラストレーションが徐々に積み重なって、そのような風貌になってしまったのである。彼らとて本当はそんな態度しかとれない自分自身に対し、辟易しているのである。これを熱い愛情を注ぐ事によって、その幾重にも重なって出来た、心のかさぶた(うろこ)を少しずつ剥がして行かなければならないのである。すなわち、人は自分の悪い部分を治す為には長い時間を必要とするのである。最低でも人は自分の内面を精錬する為には10年間はかかるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人からの是認を受ける者は偽り者であり、神エホバから受け入れられる者が初めて人からの是認を受けるのであり、神エホバから是認される者は永遠の命を受けるのである。

2.現代の社会は、物質的豊かさが精神的豊かさを殺したような状況にあるのである。それにもかかわらず、人々は物質的豊かさへの追求を捨てられないでいるのである。人間という創造物にとっては精神的充足が最も大事であるのにもかかわらずである。

3.人間が自分の人生を有意義で価値あるものにしたいという欲求はそれ自体、神エホバの像に従って創造されたという経過上、正常なものであるけれども、自分だけに関する事柄だけが何か意味のある価値のあるものであるとみなそうとする事が邪悪な推論なのである。すなわち、自分の人生を他の人とのつながりによって意義ある価値のあるものにしていこうとする事が正常な推論なのであり、自分1人だけで意義ある何か価値のある事柄を達成しようと思う事が邪悪な事柄なのである。すなわち、邪悪とは貪欲さの事なのである。

4.正しい事柄を行わず、悪い事柄を行うのもそれは[悪]である事柄であるけれども、悪を悪として識別せず、正しい事を正しい事として認めない心のかたくなさも[悪]である事柄なのである。

5.聖書の知恵ある神の言葉とは、決して学識経験者の知的好奇心を満足させる為に書かれているのでは決して無く、人間が事実として受け止める為に書かれているものなのである。