高田義裕の人生論

今日の箴言

日本人が日本人の事を駄目だ、と言ったら、それは客観的態度と言えるであろうか、それとも主観的態度と言えるだろうか。そのどちらも言える。すなわち、日本人が日本人の事を悪く言っても、それは日本人が言っている事だから、多分に主観的であり、感情的であり、正確で、冷静な判断とは言い難い。しかし、日本人が日本人の事を悪く言う事は、それは日本人の事をよく知っている日本人である故にこそ、真実性の重みを帯びている。それは客観的態度であり、内省的であると言える。では、これをそっくり人間に当てはめて考え、人間が自分自身の事を自分は駄目である、と言ったなら、それは客観的態度であろうか。それは所詮自分の事を自分に言及している点で、どうしても自分に都合の良い考え方という主観の域を出ないものであるから、客観的で正確な分析とは言い難い。しかし、逆に、自分の事を自分は駄目であるという事は、自分自身の事をよく知っているのはその人本人しかいないから、それを言う事は他の立場の人間がそれは間違っているなどとは言えない。すなわち、多分に内省的であり、冷静で客観的態度であると言える。要するに、数学においては、α=-αという矛盾を認め無いが、この世界においては、それ自身がαでもあり、-αでもあるという自己矛盾を抱えている事柄は無数に存在するのである。

2.何でも手に入れる事が幸福なのでは無い。むしろ、どんなに努力しても手に入れられなかった事の悔しさを感じる事こそが、人間にとって本当の幸福なのである。例えば、あなたは初恋をした事はあるだろうか。年上の異性の事を好きになり、相手に対して憧れ続けるのだが、決してその恋は実る事は無い。その好きでも決してそれを手に入れる事の出来なかった悔しさと無念さと切なさが、今でも心の中の熱い永遠性を持って、自分の心の純粋さと言う財産になっているのでは無いだろうか。もし、それが簡単に手に入るものであるのなら、それほどの時が経過していても、色あせる事の無い永遠性という価値は得られなかった事であろう。すなわち、永遠の憧れを持ち続ける事こそが、人間の心を純粋にし、幸福にしてくれる唯一の源なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

常に忘れてはならないのは、大きな成果も、小さな一歩の延長線上にしか存在しないという事である。よってどんなに小さな事であっても、それを行い続けなさい。その継続が後に大きな成果を生むのである。

2.人間にとって、人生ははかなく短い。よって大切な事は、自分のあまり興味の無い事など無理してする必要など何処にも無く、自分の興味のある事だけをすればそれで良いのである。

3.内気な人に対して、引っ込み思案だから、引っ込み思案のままで良いのでは決して無く、引っ込み思案だからこそ、少しでも自分の事を知ってもらえる様に、他の人以上に、周りの人と接触して行かなければならないのであり、それを実行するのは苦しいかもしれないが、このパラドックスをきちんと認識しておかなければならないのである。

4.賢いとは、すべての事を知っている事では無く、自分自身の事を知り尽くしているという事を初めて指すのである。その意味において、人は自分自身の事が一番よく分かっていない存在なのであり、すなわち、賢い者は1人としていないと言う事である。

5.まず、自分が幸せでなければ、他の人をも幸せにする事は決して出来ない。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

現実主義も度を越すと、超現実となり、空想となること。

2.物が豊かになってしまった分、人々は助け合わなくても、1人で十分暮らしていけるようになった。それで人々は、互いのコミュニケーションをする手間(努力)を鬱陶しく、面倒なものと考えるようになってしまったのである。それによって、人間関係が甚だしく、希薄なものになってしまっているのが現在の状況なのである。これが人々の孤独を助長し、孤独が人々の心を蝕み、あらゆる異常な犯罪の温床となってしまっているのである。

3.この世の中は、すべて最終的に心掛けで決まるのである。だから、たとえ同じ事をしても、普段から良い心掛けをしている者と、普段から悪い心掛けをしている者とで、結果が全く違って来るのである。

4.人は自分が正しいと信じている事を貫き通す為には、他の人から嫌われる事を恐れてはならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとってコンプレックス(劣等感)は大きな起爆剤として、その人のモチベーションを高め、向上心を促し、自分のレベルを挙げるのに威力を発揮するが、それはある程度までで、コンプレックス(劣等感)が強すぎて、自分自身の自尊心が激しく傷付けられる様であっては、心の健康を害し、病気になって2度と立ち上がる事は非常に困難なものとなる。すなわち、コンプレックスが少な過ぎても、コンプレックスが強過ぎても人は向上出来ないのである。すべては、ちょうどいいバランスであり、コンプレックス(劣等感)も適度なレベルのものでなければならないのである。ここでちょうどいい絶妙のバランスの量をα量としよう。よって、それ以外のものをアンチα量としよう。この世の中にはアンチα量なもので溢れかえっているのである。すなわち、全体の量を1として表し、コンプレックス(劣等感)が多過ぎる事は、α量+α量=1と表される。なぜなら、アンチα量の最大値は1-α量だからである。逆に全体の量を1として表し、コンプレックス(劣等感)が少な過ぎる事は、nα+b=1と表す。よって、2α=1であり、1に2αを代入すると、nα+b=2αとなる。よって整理して、b=2α-nαとなる。これをnα+b=1に代入して、nα+2α-nα=1となる。よって2α=1となる。すなわち、α=2分の1となる。結論として、すべての物事に対する絶妙のバランスは、全体の半分に等しい。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は規則ではそれを制御する事は出来ない。例えば、あなたはタバコを飲んではならないとか、あなたは離婚してはならないとか、~ねばならない、という禁止文句で人はそれには決して従わない。人間は損得で生きる生き物であり、かつ、人間は倫理的に生きる生き物であるのである。例えば、ある人が不倫をして、その結果、離婚したとする。彼は離婚する前に牧師からあなたは離婚してはならないと戒めを受けていた。なぜなら、離婚は神の御意志に反するというのがその牧師の意見であった。しかし、彼はそれを知りながらも不倫の誘惑に勝てず、別の既婚者の異性と寝てしまったのであった。しかし、この事が原因で、離婚した為に、既に2人の間にいた子供は精神的に酷くショックを受けた。愛し、信じていた両親に裏切られたのだ。彼は心の拠り所を無くし、精神的に病んで鬱病になってしまった。しかし、精神病院で精神科医に治療を続けてもらう事で何とかその鬱病を克服する事が出来た。彼は今では普通に働いて結婚もしている。しかし、彼の固く決意している信念は、決して不倫しない事であり、夫婦喧嘩をしても決して離婚しない事であった。なぜなら、親の離婚というものが、いかにその子供達に癒しがたい傷をつけるかを身をもって経験しており、いかに人間の人生にとって狂いを生じさせる無駄であり、損失な事であるかを味わい知っていたからである。この様に人は自分自身の身に直接損失を与える事を経験しなければ、それをしてはならないという意味を悟る事が出来ないのである。もう一つの事例を述べよう。ある人格者がいた。彼は神を心から信じて、愛していた。しかし、一つだけ問題があった。それは彼は普段はおとなしいのだが、何か人から迷惑を受けるとすぐにかんしゃくを起こし、短気で気性の激しい人間であったからである。彼は自分の気性の荒いのを既に自覚していたし、それを直そうと思っていたが、なかなかそれを改める事が出来なかった。しかし、ある時、神を全く信じていない人から、あなたは神を信じていると言いながら、他の人にかんしゃくを起こして、怒りの感情を露わにしている。私はあなたが本当に神を信じている人間だとは思わない。あなたの神は偽り者だと言われた。彼はそれを聞くとがっくり肩を落とし、自分の深く愛している神の評判を、自分の性格の欠点のせいで、神など信じていない人から中傷された事を深く恥じた。そして彼は、神を愛しているという倫理感の故に自分の性格全体をすべて見直し、この短気な性格を全く根絶しなければ、神に誉れを帰すことなど出来ない事を悟り、必死に努力して、遂にはその短気な性格を直す事が出来た。この様に人は、自分の持っている倫理感、すなわち、良心が深く傷つかないとそれをしてはならないという意味を本当に悟る事が出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

努力しない元からの美人よりも、初めからそんなに綺麗では無かったが、自ら努力して美形になった者の方がより価値がある。

2.努力しない元からの善人よりも、初めは善人では無かったが、自らを省み、努力して善人になった者の方がより価値がある。

3.努力しない元からの金持ちよりも、初めは貧しかったが、自ら発奮し、努力して金持ちになった者の方がより価値がある。

4.およそこの世の中に、修正不能なほど絶対的なものなど存在しない。すべては、その気さえあれば、良い方に変化させる事の出来るものばかりで満ちているのである。絶対的なものは、神なるエホバだけであるからである。

5.およそこの世の中に、聖なる者など存在しない。聖なる者は、エホバ神だけである。

6.私達はもっときちんと神に従う事の主旨をわきまえておかなければならない。それはこの世の中には、人智を超えた難題が余りにも多いからこそ、神ほどの方に手ほどきしてもらわなければ決して生き続ける事は出来ないという厳しい現実の元にそれは成立するのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最も由々しき事は、たとえどんな間違いであっても、ひとたび、その中に身を置いてしまえば、感覚がマヒして、それが普通に感じられる様になってしまう事なのである。すなわち、良い人達と交われば、人は良い事を当たり前の様に感じる様になるが、悪い人達と交われば、人は悪い事を当たり前の様に感じる様になるのである。

2.貪欲さが、すべてのマスターベーションなのである。

3.どんなにその方面において、才能を持っている者でも、それを十分に引き出すという地道な努力をしなければ、何の値打ちも無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

商売するときでさえも、常にライバルとの共存共栄の気持ちでやって行かなければ、どちらとも立ち行かないのである。

2.神はあえて人を天使達(霊者)よりも低く、より愚かなものとしてお造りになった。なぜなら、人は肉であり、その部分部分に話すことや聞くこと、そして見ることなどをつかさどる器官をそれぞれに与えられたからである。本来もし、完全で賢いものであれば、その様なものはその最初から無駄であり、必要性の無いものだからである。

3.人生に王道なし。

4.単なる文字通りのマスターベーションだけで無く、常に自分に都合の良い考え方や行いすべてが、マスターベーション(貪欲)なのである。

5.各々の人間の考え方、捉え方、感じ方にそんなにも大差は無いのである。だから、人間間にいつも争いは絶えないのである。みんな同じ物を欲し、同じ考え方をし、同じ感じ方をしているから欲しいものも同じなのであり、欲しいものの数には限りがあるから、我先にそれを得ようとして、争奪戦になるのである。もし、各々人間の考え方、捉え方、感じ方が全く異なっているなら、人間間に争いなど決して起こらないからである。なぜなら人によって欲しいものが全く異なるのだから、競争する余地が無いからである。競争の無い所に、争いは無いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは人の人生の勝利者はどのような人の事を言うのか考えた事があるか。多くの現代人は、有名な大学を卒業して、有名な大企業に就職する事が人生としての勝利者、もしくは成功者だと思っている。そして、誰もが、やりたがらない、きつくて、危険と隣り合わせの、汚い仕事をする事は惨めな人間のする事だと思っている。果たしてそうだろうか。あなたは野生の鳥と飼育小屋で大事に育てられたペット用の鳥と比べて、どちらの方が最終的に生き延びられるか考えてみるがよい。野生の鳥は夏は厳しい暑さに耐え、冬は厳しい寒さに耐え、たくましく生きている。それに対してカゴの中の鳥はどうか。彼らは空調設備の整えられた快適な環境で育ち、餌を毎日与えられて恵まれた環境で生きている。しかし、ひとたび、外の厳しい世界に突然追いやられたらどうなるか。彼らは余りの厳しさに耐えられず、すぐに死んでしまうであろう。人間も同様である。生まれながらにして裕福な家に育ち、何の苦労も無く、ぬくぬくと生きて来た金持ちの息子や娘が、突然、状況が一変して、世間という厳しい外の世界に放り込まれたらどうなるか。彼らは余りの厳しさに耐えられず、すぐに死んでしまうか、精神に異常をきたして廃人となってしまうであろう。それに対して、貧しくて生活するのに大変厳しい家庭で育って来た息子や娘はどうか。彼らは生まれながらにして厳しい試練にさらされて生きて来た為、いざ世間という厳しい外の世界に飛び出しても、何の苦も無く、たくましく生きていけるであろう。人間はともすれば楽な方、楽な方に行こうとする。すなわち、安楽で居心地のいい生活をする事を夢見る。すなわち、カゴの中の鳥になりたいと思っているのだ。野生の鳥の様に厳しい世界で生きる事を嫌うのだ。しかし、最後に生き残るのは、野生の鳥の方であり、貧しい家庭で生きて来た恵まれ無い子供達の方なのだ。要するに、人は苦しい事や辛い事や厳しさから逃げてはいけないのである。むしろ、苦しい事や辛い事や厳しさを追い求めて、自身の身を投じ無ければならないのである。その様に行動した者だけが、初めて、世間という荒波をくぐっていける人生の勝利者であり、成功者と成れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて綺麗すぎる事には、それに比例して恐るべき裏があるのである。

2.商売のコツは、儲けようと思わない事である。

3.リーダーとして振る舞うのでは無く、実質的に自然にリーダーになっている事が最も望ましいのである。

4.何事においても、少しでも誇る理由のある段階(レベル)では、最低限為すべき事さえもまだ、行っていない状態なのである。

5.人は皆、自分の知らない所で他の人に迷惑をかけているものなのである。

6.常に現実を直視する事が、カルトにはならない方法なのである。そして誠の神エホバに従う事が、常に現実を見て、それに対して実際的な仕方で対処して行く事と同一なのである。

7.ただ物知りである事が良いのでは決して無く、知るべき事と知らないでおくべき事とのバランスをどう保つかだけが大事なのであって、そのバランスの絶妙さが初めて良いのである。また、正しい事をどれだけ知っているかが良いのでは決して無く、すべての正しさを、そのただ一つの絶妙な配置によって、全体のバランスがとれている事が初めて良いと言えるのである。いかんせん、私達の考えや行動の全体は、すべてにおいて部分的であり、相対的であり、レベルの低いものなのである。