高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界に果たして価値のある実物資産というモノは存在するのであろうか。それは金や銀であろうか。またダイヤモンドやルビー、宝石の類いのものであろうか。それとも、高価な美術品や芸術品であろうか。しかし、ここで現実を見て見よう。私達は毎日苦しい思いをして、額に汗しながら働かなければならない。この事実は何を物語っているか。そう、それは、およそ、この世界にこれが一番価値があるという実物資産など決して存在し無い事を意味する。それはなぜかと言うと、もし、この世界にたった1つだけ一番価値のある実物資産があるとしたら、全世界の人々はそれを手に入れようと躍起になるだろう。あちこちで、その争奪戦の争いが起きる事であろう。しかし、実際にはその様な戦争は起きてはいない。確かにこの世界には戦争があるが、その様な類いの戦争では無い。それは民族間の争いであったり、政治的利権の争いであったりするわけである。要するに、もし、人間が一番価値のある実物資産を手に入れてしまえば、もうそれ以上働く必要も無ければ他の人と争う必要も無いのである。ただ自分1人だけが独立して、幸福を満喫する事が出来るはずである。。しかし、この世界の頂点に立っている様な人物は存在していない。現実は分裂した国家間の争いがあるのみである。すなわち、この世界には価値があるものなど無いから、自分達で人為的に価値あるものと見なされる物事を生み出す努力をする以外に無いのである。この様な訳で支配者達は、奴隷をこき使い、その安い低賃金で作った製品なりを付加価値を付けて売って儲けを出すという価値を人為的に作り出しているのである。そして、それはここまですれば良いというものでは無く、延々と働き続けて行かなければならない無限地獄なのである。だから人類は、過去からずっと連綿と戦い続けて来たのである。これからも戦い続けなければならない。なぜなら、この世界には、価値のある実物資産というものが無いのだから。よって、金や銀も、ダイヤモンドや宝石、高価な美術品や芸術品も絶対的に価値のある実物資産では無い。それはあくまでも、相対的な価値観の一部に過ぎ無い。要するに、時代が変われば、価値観も全く変わるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真理

[感想]

真理とは何か自分達からは程遠い、かけ離れた、高くて手の届か無いものであり、容易には知り得ない、全く難解で複雑なものと思われがちであるが、実際には、全く逆で、私達にとって、非常に単純でごく当然な簡単なものであったという事である。よって、顔をしかめてこの世界でたった1つしか無い貴重な宝石を追い求めるかの様にして、手間をかけ、日々奮闘し、力を尽くして来た者達の努力は、残念ながらまた、哀れにも、すべて徒労に終わる事は、否めない事実なのである。

[真理]

1.それが必要であるべき時にそれを備える事である。よって、それが必要で無い時にそれを備えてはならない。

2.その様にするべき時にその様にすべき事である。

3.その様にあるべき時にその様である事である。

4.それが必要な時にそれがある事である。

5.すべては順番と言う配列で成り立っているという事である。よって配列を間違えると、有害な事柄が生ずること。

6.決めるべきで無い時に決め無いこと。

7.決めるべき時に決めること。

8.すべてはバランスである事である。

9.楽しむべき時に楽しめば良い事である。

10.誇るべき時に誇れば良い事である。

11.捨てるべき時に捨てれば良い事である。

12.話すべき時に話せば良い事である。よって、話すべきで無い時に話してはならない。

13.見るべき時に見れば良い事である。よって、見るべきで無い時に見てはならない。

14.裁くべき時に裁けば良い事である。よって、裁くべきで無い時に裁いてはならない。

15.死ぬべき時に死ねば良い事である。よって、死ぬべきでは無い時に死んではならない。

16.同じものでも、ある人には無害でも、またある人には有害であること。

[私が信じている信条、もしくは万物の公理]

1.神はおられること。

2.神はただお一人であること。

3.神の名はエホバであること。

4.神は絶対者であること。

5.神は全能者であること。

6.神は万物の造り主であること。

7.偶像崇拝は最大の罪であること。

8.神は御自分の独り子を持たれること。

9.イエス・キリストは、神の子であること。

10.神とは、エホバの事を指すこと。

11.イエス・キリストは地上に肉体の衣を付けて来られたこと。

12.イエス・キリストは殺され、その三日後に神によって復活させられたこと。

13.イエス・キリストは永遠に王として支配しておられること。

14.神エホバの主権を認めること。

15.神は私達人間の父なる方であること。

16.神の民を迫害したり、悪く言ったりは決してしないこと。

17.神は愛であること。

18.私達人間は皆、生まれながらにして、死刑の宣告を受けた神に対しての罪人であること。

19.真のクリスチャンは、清貧を目指すが、ケチでは無いこと。むしろ人をよくもてなすこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバに付き従う人々とは、この世のものでは無いという事である。つまり、今ある現実の状態を自分達の行動を決定付ける基本的尺度とは見なしてい無いという事である。よって、この世のもの達は、今ある現実がすべてであるから、自分達の行動の尺度を現実に求め、かつ、据える事から、彼らは良い意味においても、悪い意味においても、現実主義者であるという事である。彼らが終始、口にする自慢の根拠となる、この世において誤って真理と唱えられている常識、すなわち、世の中は甘く無い、しっかり気を引き締めておかねばならない、苦労する事は美徳である、などの処世訓はどれも皆、この世を規準とした、とりあえず、と言う緊急処置的な、決して永遠に亘って通用する様な真理と言うものとは程遠い、一時しのぎの方法論でしか無いものである。よって、神の観点から見て、この世の常識は、本来あるべき状態から全くかけ離れた異常なものなのである。また、神に服従する人々とは、その様な現実主義者であるこの世のものとは、一線を画する存在であり、彼らは神と共に生きている1人の独立した人なのである。よって、この世の人々が当然の事と思って行っている常識とは、本来は全くする必要の無かった無駄であり、余計な事なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々の間で起こる誇り、自慢、見栄などは、まるで、いつも自らを新鮮に保つ、常に動いていて、二度と同じ場所にずっととどまらない、勢いある波しぶきの清さから、1つ外れた所に出来ている岩のくぼみに溜まっている腐敗した海水の表面に浮いているあぶくの様なものである。

2.敬虔な専心(信仰)は、すべての事に益があり、すべてに通じるものなのである。

3.神の事柄を行う事によって生じる作用は、すべて、何かを失う事では無く、すべて、今あるものの上にさらに得る事に関するものである。

4.神エホバからの知恵は、摑みどころの無いもの、尻尾の無いもの、すなわち、弱点の無いものである事である。

5.内面から来る綺麗さ、すなわち、心の清さから来る綺麗さの後に初めて、外面のまとまりの良さ、すなわち、容姿の良さが来るのである。

6.すべての何ものにも勝って神の事柄を追い求めよ。神の事柄とは、1つのものですべてをまかなう事の出来る様なものだからである。

7.若さは、若いというだけで財産なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

髪の毛が抜ける事が禿げるという原因なのでは決して無く、それは物事の本質では無くて、その表面を捉えているに過ぎない。もっと正確に言うならば、髪の毛が抜ける数が、髪の毛が生えてくる数に勝ったという事が初めて、禿げるという原因なのである。よって、ここで、死ぬという事が死ぬという原因なのでは決して無く、体の新陳代謝という過程の中で、細胞が死んでくれ無くなる事によって起こるものが、初めて、体全体の死をもたらすという事なのである。要するに、生まれ代わりのサイクルである細胞単位の世界において、古くなって死ぬべき細胞の数よりも、古くなっても死なない細胞の数の方が勝った状態の事を言うのである。決して死ぬ細胞の数より、生まれて来る細胞の数が減ったという事では無いのである。すなわち、簡潔に述べるなら、1つ1つの細胞が自分の存在をいつまでも保とうとして、新たに生まれて来る細胞の為に自分が犠牲となって死のうとしなくなったのである。それゆえ、体はその新鮮な状態を保て無くなり、古い状態のままになる事に拠り、老化して行くのである。それが人間の死の原因であり、アダムとエバが利己的な精神を示し、神が禁じておいた禁断の実を食べる事により、その利己的精神の作用が肉体の細胞レベルにまで影響を及ぼした結果である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どうも私は人付き合いに対して本気では無く、心そこにあらずで、別の事を考えいると思われ、適当にやり過ごそうと思っている為、人が付かないのでは無いか。それと、何事も本音を言わないで、何か腹に一物を持って、煮え切らない為、終始警戒して人との距離を置いている事もあり、他の人はそれをあまり好意を持って見ていないのでは無いか。要するに、二枚舌を使って腹の中ではせせら笑っている嫌な奴だと思われ、その様な態度が見て取れる為、相手は腹が立つのでは無いか。要するに、私は人間関係を持とうとしているのでは無く、あくまでも、人間関係を自分にとって、都合の良い単なる手段として捉えているのではあるまいか。また、あまりしゃべれない、しゃべりたく無くなったと言うよりは、しゃべるのが面倒くさくなっただけでは無いのか。やはり、人と話す時は、常にそれに集中力を付けて、真剣に話しを聞き、あくまでも、本音で話すべきなのである。

2.私の性格は、人間関係について、どちらかと言うと、プライドが高く、ちょっとした事で傷つく所があり、その様な傷つきを経験したく無い為に人前に出る事を躊躇して消極的になり、引っ込み思案になっている事である。また、人との付き合い方も、お互い差しさわりのないおおまかな理解の所で止めておきたい、すなわち、それ以上の深い仲を持とうとしない、もしくは、自分の深い所に立ち入って欲しく無いと言うナイーブな面があるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神と悪魔の対話

[神]   あなた方は姦淫(不倫)してはならない。

[悪魔]   人よ、おおいに姦淫(不倫)しなさい。確かに、Aさんの不倫の結果は失敗に終わった。しかし、あなたの不倫は成功するかもしれないではないか。何事もやってみなければ分からない。この世界に全く同じ条件の不倫など存在しない。いやむしろ、この世界の中で1つとして同じものは無い。神の言う様に、不倫という事柄を一般化して、不倫全体をひとくくりにして、不倫は悪いなどと一方的に判断するのは間違っている。不倫の相手や状況や背景は1人ずつ全く別なのであり、すべての不倫を否定する根拠は何処にも無い。すなわち、すべての不倫は悪いなどという主張は間違っているのである。不倫だけに言える事では無い。あらゆるすべてのものに共通する法則とか普遍的真理など、何処にも無いのである。よって、物事を知る為には、1つ1ついちいち、実際にやってみなければ何も分からないのである。何も試さずに、すべてのものをひとくくりにして、それを一般化し、何か共通の法則を見い出そうとしても、それは無駄なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が最近気付いた事は、いかになまぬるい気持ち(甘やかし)がその人を修整出来ない死へと追いやってしまうかという事である。ぐずぐずして決心する事に尻込みして、結局行動を起こさず、その結果、欲求不満が溜まって犯罪を犯してしまったり、精神に異常をきたすよりは、その人にとって、その時は非常に辛くて、厳しい事かもしれないけれど、愛のムチとして、その人にその人の問題点をハッキリと指摘してやる、ショック療法が必要不可欠なのである。これは、結局は全体的に見て、本人にとって益となるのである。まさに、一次の損失は、すべてを拾うのである。

2.何事も、曖昧さは優しさとは違う。物事を曖昧にするのは、それは単なる無責任であり、甘やかしに過ぎない。病気を治す時は、肉体の時は、その病名と原因をハッキリと知って、初めて治療が始められる様に、精神の病もその人に辛いかもしれないが、その病名と原因をハッキリと自覚させる必要があるのである。そうして初めて、治すという一歩に踏み出せるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

万物の公理

第一. 神を神として扱う事。すなわち、神のものは神に返し、人のものは人に返すこと。

条件1. 神から直接に命令された事柄を、[どんな理由が有ろうとも]最後まで守り抜くこと。

条件2. 神の御意志を聞き、その御意志を[最後まで]従順に行い通すこと。

脚注1.  [どんな理由が有ろうとも]とは、最大限に定義すると、たとえ、どんなに神の命令に反するもっともらしい理由が有ろうとも、という意味である。

脚注2.  [最後まで]とは、神がここまでで良いと規定された期間のこと。よって、人にとっては死に至るまでの場合のこと。

よって、結論として、たとえ、廉直で、義に適っている行いをしていたとしても、それだけで神に従っているという主張の理由には、必ずしもなら無いという事である。すなわち、単に義に適っている事は、全く義に適っているとは言え無いが、神の言われる事柄は、全く義に適っているという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が聖書を幾らか学ばせてもらって、初めて分かった自分の間違いは、自分は他の人よりも自分がより義に勝っていたい、というよこしまな差別意識を人に要求していたと言う事である。よって、常に、人の為に義があるのに、義の為に人があるというふうな本末転倒に陥っていたと言う事である。すなわち、より良い人生を送る為に義があるのに、いつの間にか義を行う事を目的にしてしまっていたと言う事である。これは、まるで、人が生活する為にお金を稼ぐのに、いつの間にかお金を稼ぐのが目的になってしまっている事と同じ事である。これでは、いずれ行き詰まるはずである。聖書を読んだ事によって、深く考えさせられ、この事を気付かせて下さった神に全く感謝したい。私はいつの間にか、本当の義から離れ、中身の無い、義のセレモニーに自己満足するという、全くの偽善に傾いていたのである。聖書に初めから書かれてある通り、人は義を追い求めるのでは無く、人は人と互いに愛し合う事を目標にして行かなければならないのである。そこには、互いの身分がどうのという差別意識は全くの招かざる客なのである。