高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって、一番大事なのは、金銭でも無ければ、高価な貴重品でも無く、あくまでも、人間であり、人間関係が常に第一とされていなければならないのである。よって、金銭は金銭の為にあるのでは決して無く、あくまでも、建設的な人間関係を築く為の手段でしか無いし、その為にお金を稼いでいるのであって、ただ富んだり、お金を増やす為にお金を稼ぐのでは決して無いのである。

2.人が、外見だけに格好つけたり、気取っている内は、まだ花なのであり、そういう状態では、立つべきスタートラインにも立っていないのである。カッコいいとは、真剣に生きると言う事であり、真剣に生きていれば、格好など気にしていられないのである。人は、何事も真剣に物事に取り組むことで、自然にプロフェショナルな魅力が身に付いてくるものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

彼は所詮、絵に描いた様な偉大さや立派さなどあるはずが無い事を知っていて、かつ、他の人にもそれを知らせる行いに徹した事においては確かに、彼は偉大で立派な人物であった。

2.所詮、これだけの書物がこの世にありながら、日常のほんの一つの些細な問題さえ解決されていないと言う事実は、皮肉さを超えて、むしろ恐ろしさを感じさせるものである。

3.非文明社会では、考えられないが、先進国で、豊かになった社会の、すぐ隣りに人が確かにいるのに、それが誰かを知ろうともせず、交わり難く感じるこの何とも異質な雰囲気とは、一体何なのだろうと思う。すなわち、何か用事が無いと立ち寄る事が出来なくなっている。何か同じ趣味を持っているクラブとか、同じ職場だとか、またお金を払わないと人間関係が持てないのである。人間とは、普通、そう用事も無くても、ただぶらっと集い合うのが自然の状態なのであるのだが。現代人は、もはや、病的に孤独なのである。

4.今日1日、真剣に生きるという事は、今日1日のためだけに、持っている物すべてを使い果たす覚悟で努力する事を意味すること。

5.甘えに浸かりすぎてダラけている者には、キツいけれども、その者に効く一番の薬は、そうしている事に対する他の人々の影での中傷や冷ややかな態度に気付いて、恥ずかしく思い、それによって、ハングリー精神を出す他しか無いこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人とは、人と言う普遍性では無く、あくまでも、個性で生きているのである。個性を形で表すとすると、人にはそれぞれ、三角形型の人もいれば、ひし形、四角、もしくは、まる形の人もいるという事である。しかし、自分が実際どのような人物なのか、他の人の性格はよく知っていても、自分自身の事を知るのは、たやすい事では無く、あまりそれを自覚してもいなければ、自分を知る為の努力もあまりしていないという点では、人間は自分自身に対しては、いい加減なのである。例えば、まる形の人間は、角ばっていない分、周りの人間が角ばった人ばかりであっても、摩擦を生じにくい長所を持っている。しかし、逆に言えば、角が無くて、丸い分、他の人から軽く扱われる、という脆い短所ともなるのである。よって、これを踏まえずに、自分は実際はまる形であるのに、自分は四角形だと思い込んで、行動したり、自分は実際には四角形であるのに自分はまる形だと思い込んで、行動したりすると、大変な痛い思いをするのである。よって、大事な事は、自分を正確に知る事が必要不可欠なのである。何故なら、あなたは、何故私は人からいつも生意気だ、と言われるのだろうとか、何故私は人からいつも嫌われているのだろうとか、と思った事は無いだろうか。この様に、人は、自分の事を知る努力をしないと、自分の、人からの評価がどうしてそうなのかが理解出来ないのである。これは人生を生きて行く上で致命的なものであり、判断を誤ると、人間は簡単に破滅の道を突き進んで行ってしまうのである。何故なら、ここで他の人との折り合いが悪くなり、喧嘩してしまうからである。喧嘩してしまっては、あなたは職場にも、学校にも行きたく無くなるからである。そう、自分に居場所が無くなってしまうのである。よって、ここで正しい見方とは、他の人の自分に対する評価が、自分には納得いかなくても、他の人の自分に対する評価の方が正しいという事実である。よって、他の人からの評価を基準にして、自分はなぜそう思われているのかを努力して発見しよう。もしその理由が分かれば、あなたは自分自身を正確に知った事になる。まさに中国の孫氏の兵法にもある通り、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、なのであり、自分を知ると言う事は、どんな知恵よりも賢いのである。よって、自分を正確に知っていれば、あなたは人生を上手に送れるようになるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

カゴの中の鳥は、もはや、カゴの中でしか生きられず、むしろ、外では死んでしまうしかない様に、悪行者も、悪なる環境でしか生きられず、義なる者も、義なる環境でしか生きられないのである。それで、天の父は、悪なる者にも義なる者にも、御自身の太陽を昇らせ、義なる者にも、不義なる者にも、天からの雨を与え、すべてのものを生かしておられるのである。

2.何事も、行動に移す時は、その結果の最後の部分を想定し、最後までそれを続けられて責任を持てるかまでを考えて行動するべきであること。よって、何事も衝動的に、その良く見える部分だけを見て、そのものの全体を捉え損なわない様に判断して行かなければならないのである。

3.その人にとって、主役は、あくまでも、その人自身であること。

4.本当の素晴らしさ、良い事とは、誇れる様な、珍しいものでは決して無く、本当の素晴らしさ、良い事とは、日常において、ごく当然で、当たり前の事なのである。

5.たとえ、何をしてしまったとしても、最低限、他の人を裁く(悪く言う)と言う事だけは、してはならないこと。それさえしなければ、何があっても、必ず生きて行ける。

6.何の失敗も無く、また、何も傷付かず、何も失わなかった1日は、何もしなかった1日に等しいこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてを捨てただけでは、本当に捨てた事にはならない。すべてを捨てたと言う意識すら捨てて、初めてすべてを捨てたと言う事が言えるのである。要するに、すべてを捨てたら、自分は捨てた、と言う意識すら知らないものである。そう言う意味においては、私達人間は、自分は今生きている事を意識して自覚している。本当に生きていると言う事は、自分は生きていると言う意識すら捨てているものなのであり、生きている事を自覚しないのである。よって、我々は生きている事を認識している事によって、本当の意味で生きてはいないのである。すなわち、生きるという事を完全燃焼させていないのである。そう、私達は、生きると言う事の半分も生きてはいないのであり、中途半端にくすぶって生きているつもりになっているだけなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何事も、最良の事柄こそ、その用い方次第で、最悪の事柄にもなり得るのであり、逆に、何事も、最悪の事柄こそ、その用い方次第で最良にもなり得るという事なのである。よって人間と言う理性を持ち、あらゆる物事を識別する特質を持った存在にとって、最悪を避けて、最良の事だけ行うというのは、むしろ、最も狭量で、人間本来の能力を活かしていないやり方であり、生き方であると言う事である。例えば、人間以外の生き物は、それぞれにとって、最悪を避け、最善の生き方しか知らないのであり、それは、そう言う意味においては、完璧な生き物なのである。しかし、そう言う事であれば、本能だけによって支配されている他の生き物、すなわち、鳥や魚や動物の様に人間もすれば良いと言う事になってしまうのである。しかし、人間は、自分達が、他の生き物より遥かに勝っていると言う自覚があるのでは無いか。この自覚は何処から来るのだろう。これは最初にも述べた様に、人間には選択権があり、その用い方次第で良くも悪くもなると言う事に価値があると言わざるを得ない。要するに、無駄な事も出来ると言う点で他の生き物より勝っているのである。もしそうだとするなら、人間は常に正しく生きるべきである、と言う倫理観は、最も愚かな価値観だと言える。人間は神の様に、清く正しく生きるべきである、と言う価値観自体が果たして正当なものであるかは、疑わしいと言う事になる。何故なら、無駄な事や間違った事も自由に行える能力を持っていると言う事が、他の生き物より勝っていると言う理由になっているからである。神を信じている私から言えば、これは根幹をゆるがす大問題である。何故なら、そんな無駄な事も行えるから他の生き物より優れている等と言う理由は、私には、そんなに優れたものには思えないからである。これについては、これからもよく考えて、思索して行こうと思う。読者の皆さんはどう思われるだろうか。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間とは、最低限、自分自身さえ生活が出来て、自分自身の世話さえ出来ていれば、他の人から文句を言われる事もないし、その筋合いもないのである。しかし、あなたが、利己的になって、自分さえ良ければ良いと考える様になって、自分の事ばかり気にかけて他の人の事は、知らんぷりをしていたらどうであろうか。実はそれでも、あなたは、他の人から文句を言われる筋合いはないのである。このように、自分が、どう生きようが、自分という存在において、権利は、自分にあるという事である。ただ、あなたは、自分の事ばかり考えずに、他の人の事も顧みるという選択肢を、権利として持っているのであって、それは強制的義務ではないのである。よって、あなたは、自分の適用範囲を自らの意志で広くし、それを他の人にまで広げることも自分次第なのである。ただあるとすれば、日々、他の人の所まで、親切にしている事を習慣にしている者は、いざ、自分が問題に陥ったり、災害に見舞われてしまった時、いつも親切にしてあげた他の人が今度は、あなたを救ってくれるのである。あなたは、あなたが思いがけもしない仕方で自分が救われるのを見るであろう。しかし、日頃、自分の事だけに追われている者が、いざ、問題に陥ったり、災害に見舞われてしまった時、助けてくれる者は誰もいないのである。何故なら、あなたは、日頃、他の人の為に、親切にしてこなかったからである。誰かが、あなたの事を助け様にも、あなた自身が、他の人に自分という存在を明らかにしてこなかった故に、誰もあなたの存在を知らないからである。よって、結論として、自分の事だけに集中している人は、それ自体は、罪では無いが、他の人のことを知らんぷりしている分、他の人もあなたの事を知らんぷりしているのである。しかし、自分の事だけ考えずに、他の人の事も気にかけている人は、他の人に自分という存在を知らせている分、他の人もあなたの存在を知ってくれているという事なのである。この違いはいざという緊急事態の時には、生死を分けるほどの差となるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が、世の中が厳しいもの、苦しいものに感じる心理的な背景には、世の中に対して、本来、人生は上手く行って当然という思い込みがある故に、その心の苦痛を倍増させているという事なのである。よって、世の中は、上手く行かなくて当然、上手く行く事事態が特別なのだ、と言う考え方に変えれば、たとえ、逆境に見舞われたとしても、必要以上に苦しく感じたりせずに済むのである。よって、世の中とは、大半の人にとって、劇的に上手く行く事も無ければ、極端に悪くなる事も無いものなのであり、世の中の現象とは、そんなに簡単に劇的に変動しないものであり、比較的安定しているという意味においては、むしろその事を喜んで感謝する事が出来るものである。そう、人間とは、基本的に保守的であり、変化を望まない傾向にあるのである。何故なら、物事が劇的に変化すれば、日頃の生活は安定しなくなって不安になるし、日々新しい事に対応して行かなければならないとしたら、頭も体も疲れてクタクタになってしまうからである。人間は基本的には、怠惰な生き物であり、日々を楽に過ごしたいのである。よって、世の中を変えようとしても、世の中は急には変われないのである。それは、猛スピードで走っている電車が、急ブレーキを掛けても急には止まれない事と同じなのであり、この世の中とは猛スピードで走っている電車の様なものだからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

理由を知ってからでしか行動しないようでは、それはもう出遅れであること。何故なら、あなたはもし、地震が起きて、津波が来てから初めて逃げなければならないと知っても、その時は既に遅いのである。しかし、いかんせん、人間という者は、理由が分からなければ、行動しない生き物であることも確かなのである。しかし、人生において、緊急事態は、常にやって来るのであり、緊急事態の時に考えていては遅いのである。考え無いで、瞬時に行動する事も必要なのである。例えば、地震が起きて、誰かが、ここから早く逃げろ、と言われて、それに素直に対応して瞬時に逃げれば、その逃げた後で、津波が来た事が、分かるし、理由などは、後で知れば良いものなのである。よって、大事な事は、日頃から、いつ緊急事態が起こっても、それに機敏に対応できる素直な心と、謙虚な気持ちを培っておかねばならないということである。日頃、緊急事態に備えていない鈍感な心と高慢さがいざという時に足かせとなって、自分自身を救う事を阻む原因となるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は、自分の業績を、人に語って自慢しても、全く相手にはそれは伝わらない。むしろ、自分が立派な業績を上げていても、それを語らず、自慢せず、黙しているなら、他の人の方からそれを聞いてきて、何も語らないあなたに感銘を受けて、この人は、何と偉大な人であろうと言うのである。この様に、語らぬ方が、よほど語る事になるという事であり、むしろ、真に言うという事は、全く自分から言わずに、相手から語らせる事にあるのである。よって逆説的ではあるが、何事も本当にそうであるという事は、そうではないという事を言うのである。すなわち、自分自身とは、自分自身の物ではなく、相手の所有物であり、真理とは、真理の物ではなく、真理は、自分の事を真理であるとは自覚しないのである。よって、我々は、永久に自分自身になる事は出来ないのであり、真理は、永久に真理になる事が出来ないという事である。すなわち、永久に得られないという飢餓状態が、永遠に生きるという事なのである。