高田義裕の人生論

今日の箴言

なぜ、人は生きることに困難さが生じ、行き詰まると、宗教に目指すのかと言うと、それはひとえに楽だからである。自分は何も考えずに、ただ指示された通りに行っていれば、最低限の物質的、また精神的な必要は保証されるからである。これは、多くの人間を、ただ一つのイデオロギーに縛りあげて精神的に、融通の利かない人間に作り上げてしまうのである。それは、結局は崩壊した、社会主義的、官僚主義的な精神の堕落を助長させ、人間が人間らしく無くなり、まるで何かに操られているロボットの様な者に作り上げられていくのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ただ、正しさだけが存在しても、物事は成り立たない。なぜなら、正しさだけという状態は、何も書かれていない真っ白な白紙の状態だからである。そこに、黒という悪い事柄が加わることで、初めて、水墨画の様に、あらゆる形や絵、文字、図形などを表現できるようになるからである。要するに、正しさとは、悪い事柄が正しい分だけ存在することをいうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

経営論

私が最近気付いた事として、あるショッピングセンターでの事がある。私はフライパンを買いに行ったのだが、どのコーナーにフライパンが置いてあるのか分からなかったので、店内にいる店員に聞こうと思った。しかし、ものすごい大きな売り場に、店員はなかなか見つからず、私はそこら中、探して回った。そして、ようやく、店員を見つけたのだが、彼女は非常に忙しくしていた。ものすごく声をかけるのに勇気がいったが、どこにフライパンがあるのか尋ねた。すると店員はちょっとめんどうくさそうな顔をして、実にあっさりと、21番コーナーにあります、とだけ言って、また、そそくさと自分の仕事に戻って行った。それで私は21と書いてある、棚コーナーをなんとか探し当て、フライパンを見つけることが出来たのだった。しかし、ここで、私は非常な違和感を覚えて、それなりに熟考してみた。それはこうである。店を経営するにあたって、いろんな仕事がある。商品を棚に陳列したり、在庫を確認することも立派な仕事である。しかしである。店側として、一番大事にし、最優先しなければならないのは、お客である。なぜなら、その商品を買ってくれるのは、お客様だからである。しかし、私の場合、彼女は、私という一人の客の都合よりも、自分の担当している仕事の方を優先していたのである。これは、まさに、本末転倒で、コンビニでもよくあるが、配達されて来た商品の数のチェックや陳列に、夢中で必死になっていて、レジに来た肝心のお客を待たせてしまう、というケースである。また、最低限の人数で仕事を任せて、少しでも、経費を削減しようとする気持ちも分かるが、それでは、私みたいに客に店員を探すという無駄な行為を助長してしまうのである。このように、経費削減を最優先しようとするあまり、逆に、一番大事な接客がおろそかにされてしまうのである。これを、商売のジレンマと言う。もし、これを改善しなければ、徐々に客足は減って、経営に行き詰まるのは、目に見えているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々はなぜ、皆、偶像を崇拝することを好むのだろう。なぜならそれは、偶像は無きに等しい者だからである。偶像の神は、人々が何をしようと、殺人を犯そうと、姦淫を犯そうと、何も言わないからである。何しろ、人は、厳しい規則が大嫌いである。自分で好き勝手に過ごし、安楽で、堕落した生き方をしたいのである。ひるがえって、人々は、唯一真の神エホバ(キリスト教の神)を崇拝することを嫌う。なぜなら、本当の神は、実在しており、私達人間のように、人格を持った存在だからである。神は非常に、高貴で清い方であり、人々にあれこれと、御自分の御意志に従うことを要求される方だからである。よって、神の高い道徳基準を守らなければならなくなり、人々はそれを、おっくうに感じ、自分の自由を奪われていると感じるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

恋愛論

人は結婚相手を決めるとき、次の点を考慮すべきである。相手の異性が一番魅力的に見える時に、相手を選んではいけない。むしろ、相手の異性が、一番自分の悪い部分を出している時に、相手を選ぶか考慮すべきである。その時、あなたが相手の一番だらしない部分を許せる範囲内であると判断できれば、初めて、その人を結婚相手にすべきである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

生きるとは何かを問うために生きる。それが生きるということだ。すなわち、これが、聖書の言う永遠の命である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神と悪魔の対話

悪魔は言った。すべての者は私より下である。

神は言われた。すべての者は私より上である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

一つの物事には、一つだけの解釈があるのではない。無限の解釈の仕方がある。例えで考えて見よう。ある温泉街に毎年花火大会がある。その日には大勢の見物客が訪れるが、近くに有料駐車場があり、車一台につき500円を徴収している。ほとんどの車は花火が始まる前に駐車場に到着しており、30分の花火大会を十分に楽しんだが、ある少数の車だけは、花火が終わる5分前に到着した。それでも彼らは同じ500円を徴収された。これに対してある人は言った。彼らは五分間しか花火を見れなかったのに、それでも、500円を徴収された。これは不公平ではないか。彼らには無料にしてあげれば良かったのに、なんと欲張りなのだろうと。しかし、また別のある人が言った。イヤイヤ、駐車場は決して欲張りでもなんでもない。花火が終わるぎりぎりに到着したのは、あくまで彼らの都合上のことなのであって、駐車場が同じ500円を徴収するのは当然であり、公平なことなのだと。このように、同じ事柄に対しても、全く逆の解釈の仕方ができるのである。この世は、そのようなことで満ちている非常に複雑で、かつ、多様性に満ちた世界なのである。