高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、各々、自分の弱点によって、滅びるのではなく、人は皆、自分が得意とすることによって、滅びること。

2.人は、全き悪にも耐えられないが、また、人は全き義にも耐えられないこと。

3.この世界で、自分が初めから決して出来ないことに、必死に行おうとし、また、行えると信じていることほど、無駄なことはないこと。

4.悪を行うこととは、義を行う必要がないのに、義を行うことに等しい。

5.何もしたことの無い人間ほど、自分は何でも出来ると思いがちであり、逆に、何でもやっている人間ほど、自分は何も出来ないと思っていること。

6.より強い者ほど、恐ろしさを知っており、真に強い者ほど、真の弱さを知っていること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の聖句にあるように、人が、各々の災いに見舞われる原因のすべては、その当人の、欲望の咎によってのみ、引き起こされるのであって、いかなる他の人や、外部からの力や影響力によって、引き起こされるものでは決してないこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の言動を、常に、口によってではなく、行いによって語るようにせよ。

2.損得でしか動けない者は、もはや、人ではあり得ないこと。

3.真の賢さは、本人が、知識や知恵を多く所有していることではなく、本人がいかに全く何も持っていない状態から、多くを生み出せるか、ということ。

4.誇りは、無知により、生じる。よって、全知全能なる神は、誇るということに関してのみ、唯一、無知であること。よって神は誇ることを知らないのである。

5.余分なことは、無駄なことであり、無駄なことは、負担であることであり、負担であるということは、損失であるということである。

6.人は、賢くなることは出来るが、ただ、人は、自らが、賢くなろうと意図して、賢くなることは決して出来ないこと。

7.すべて、賢いことは、どういうことなのか、なのでは決して無く、あくまで、何であろうと、物事を、どう扱うか、ということが問題なのであり、物事の扱い方の優れた者が初めて真に賢い者なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昔の厳しい乱世の時代には、女性はおしとやかで、慎ましかったのでは決してない。ただ、戦争に対して、女は男にはどうしてもかなわないから、自分の身を守るために、男の好みにわざと合わせて、本姓の気ままさを出すことをせず、保身の為に、必要にせまられて、男のために、物分かりの良い人間を演じていただけに過ぎないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中が豊かになって、高度な文明的社会になって行けば行くほど、男は女性的になり、女性が男性的になって行くのである。本来、男らしさとは、道なき道をゆくという、道が無いなら、自らがそれを創造していく雄々しい能動的精神のことをいうのであり、女は、あくまでも、既に整えられた道を後から付いて来る受動的で保守的な面では、優れているということであったはずなのである。よって歴史が証明するように、必ず文明社会は、消極的ヒステリーの典型である、デフレーション社会に陥り、生命的活力とも言えるイノベーションを失って、ゆくゆくは、滅びてゆく運命にあるのである。要するに、社会全体が、他力本願になって、自分でどうにかしようという生きていく力が衰え、他に依存しようとする気持ちが全体を占めるようになり、社会全体が女性的になり、活力と活気が失われていくのである。これがデフレーションという社会現象なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

現実的に言って、この世界は、とことん良いままか、とことん悪いままかのどちらかしかないこと。すなわち、少し良くて、少し悪いとか、ほとんど良くて少し悪く、また、ほとんど悪くて少し良いなどと言う曖昧で、分かりにくいものは、決して意味を成さないということなのである。なぜなら、少し嘘で、ほとんど本当だ、とか、少し頑張って、ほとんど頑張らないとか、少し男で、ほとんどの部分が女だとかを主張する者がいたら、一体、誰がその人を認めたり、信用したり、従業員として雇いたいと思うであろうか。誰も思わないのである。よって私達の選ぶ道もただ、二つのうちのどちらか一つしかないのであり、それは、神への従順か、それとも、悪への道かのどちらかしかないということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もが、多くの人々の注目を集めて、名声を得たい、有名になりたいと思っている。しかし、あなたの知っている有名人を思い起こして欲しい。どうだ、すぐには思い出てこないだろう。所詮、有名人でもその程度なのだ。確かに、彼らは大人気になり、誰もが熱狂し、人々を夢中にさせた絶頂期があった。これすら、過去形である。すなわち、どんなに人気があっても、必ず、絶頂期を過ぎると、次第に人々から飽きられ、いずれは、忘れ去られてしまうのである。本人達に残るのは、あの頃は良かった、でも、今は、思い出でしかない、という虚しい思いだけなのである。彼らの人生は、浮き沈みの激しい不安定なだけの人生であり、彼らは一回、絶頂を味わっているだけに、余計に、虚しさと、未練が募るだけなのである。その点、ごく普通の凡人は幸福である。なぜなら、彼らの日常は、平凡かもしれないが、浮き沈みの無い安定した生活を送れるからである。昔は良かったが今は、という虚しい思いになることも無く、心の状態は、安定しているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人を、批判することは、他の人を自分より低めて、人を利用することにより、自分を高める、相手の人間に対する依存行為に等しいこと。

2.すべて、初めから興味も無く、また、聴こうとする気持ちの無い者に対して、理解させる術は無いこと。

3.厳しい試練や誘惑、また、迫害によって初めて、人は、自分の信仰心の質が計られ、かつ、向上できること。

4.神にすら従えないで、一体何に従えるというのか。

5.いきなり、悪が確固として固定されてあるのでは決して無く、悪も一つの流れの中の一つの要素に過ぎないこと。すなわち、1.不適合→2.危険→3.悪の順であくまでも、あるということである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんなに無駄にしか見えないことがあったとしても、およそ、この世界に無駄で全く不必要なものなど最初から一つとして無いということである。

2.どんな人間であろうとも、必ず一つ、神のように洗練された部分を持っていること。すなわち、全く駄目な人間もいなければ、また同時に、全く良い人間もいないということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

平気で悪行を行う者は、逆に同じことを、決して、自分がされたくないと思う者なのである。それに対し、自分が悪行を受けて、それに耐えられる者は、逆に、決して悪行を行わない者なのである。