高田義裕の人生論

今日の箴言

相手が、明らかに悪いと判断出来る場合でも、相手のことを裁かないことが、人が人を裁くことは出来ないという意味である。

2.実は、劣等感と虚栄心とは、表裏一体である。

3.部分が、全体を駆逐することは出来ない。そうするには、こちら側も、全体で対処するか、もしくは、全体よりさらに大きい全体によって、すなわち、全体を部分と見なせる程の、さらなる全体によって、全体を征服してしまうかの2つの方法しか無いのである。

4.単なる罪人は、何の意味も成さないが、悔い改めた罪人は、以前罪人であったその経験の故に、その欠点が、今では、その人にとって、何事にも代え難い貴重なポリシーに変化するのである。そのように、ある欠点を持った人間がそのままであれば、それはその人にとって欠点のままで終わるが、ひとたび、その欠点に気付いて理解を示し、それを努力して悔い改めた時、初めて、自分と同じ欠点を持つ他の人の気持ちを許すことのできる、立派な人格者となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリストイエスの音信の最も重要なかなめを、要約して言うなら、何事も、自分で決めつけないこと、すなわち、自分の考えを基準に行動しない、ということに尽きるのである。よって、あなた方は常に、神に頼りなさい。もし何かの事で悩み、苦しんでいるのなら、心から熱烈に神に祈りなさい。神は誰であれ、必ずあなたのことを顧みてくださるからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆるすべてのものに勝っているからこそ、それを初めて神と呼ぶのである。

2.人間は、誰しも、自分に都合良く出来ていること。それで、人は、あくまでも、自分に都合良く考えなければ、生きていかれないということを、意味していること。すなわち、すべての人間には、自分のペースとリズムが存在するのであり、それが乱されると、どんなに簡単なことでも、行うことが出来なくなるのである。

3.すべては、何が悪いかでは決して無く、ただ、従順ではないということ、すなわち、初めから、あることが決定されていて、それを守るべき理由を確かに知っているにもかかわらず、それを破ること、もしくは、踏み超えるということが、初めて、悪いということなのである。よって、悪いとは、ある取り決められたことに対して、従わない、または、それに反するということなのであるから、その従わない理由や、反抗する理屈が、どれだけ正しいもので、全く正当なものであっても、それは問題とはされないのであり、それが正しいことには、決してならないということなのである。すなわち、ある掟を破る理由や、従わないことの根拠が、問題なのではなく、あくまでも、その破った行為そのものが、問題なのである。人間がなぜ神に対して罪人と呼ばれるのかと言うと、それは、神が人間が守るようにお決めになったルールを、人間側は、それを守るべきことを十分認識しておきながら、あえて、それを破った反抗的精神の故なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あくまでも、巨大で避けられない程の、必ず起こる大災害や、大きな出来事は、それがむしろ、規模的に大きければ大きいほど、より事前に、それを確実に予知することができるということである。なぜなら、それは、その規模が大きいということは、その存在に至るまでのエネルギーも、大きいということであり、それはそのエネルギーが溜まるまでには、相当の時間がかかるのであり、おいそれと、ちょっとした外的圧力くらいでは、変化したり、変更はされないということなのである。すなわち、それが起こる規模が大きい程、それが起こる確率性も高く、それが起こる前の事前現象も、何年も前からサインを発している為である。すなわち、大きいということは、それだけ、目標物としては、非常に安定していて、捉え易く、観察し易いということも意味しているのであり、より強いものはまた、弱点も多いということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

生き物とは本来、人間も含めて、注意を怠ると、傲慢になり易く、ともすれば自分自身の益だけのことを考えがちで、すぐに堕落してしまう性向を持っているということである。これは、すべての万物が、何もしないでおけば、いずれ荒れ廃れて、朽ち果てていくという、熱力学の第3法則が働いているのと同様のことなのである。例えば、人間が作った精密機器などは、非常にデリケートに出来ているから、それを正確に保つ為には、細心の注意と、丹念な品質管理が必要不可欠である。ましてや、それ以上に精密に、複雑な構造をしている生物である、人間には、私達が想像を絶する賢い知恵と知識が必要不可欠であり、我々は非常にデリケートな生き物なのである。すなわち、人間が常に、正常に動き、働く為には、想像を絶する大きなエネルギーと、無限なまでの深い愛情という導きと管理が必要不可欠なのである。よって、すべての万物の造り主であり、あらゆるすべてのものの要求を満たし、すべてのものの世話をしておられるエホバ神こそが、それに確当する存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今日の栄光は、明日の挫折であること。なぜなら、昼が来た後には、必ず夜が来、収穫の秋が来たなら、その後は、必ず厳しい冬がやって来るからである。よって、順境の時や、春の時期は、自分を富ましたり、贅沢に、面白可笑しく暮らす為にあるのでは決してなく、その後に必ず訪れる厳しい逆境や冬の時期をなんとかしのぐ為の、少しも無駄に出来ない準備期間でしかないということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康の定義とは、具体的に言って、物質的にも、精神的にも、何かが欠けている欠落感とか、何かが余計で、負担感を感じる、ということが無い、充実した状態のことを言うこと。

2.見える人を愛せない者が、見た事の無い神など愛せる訳が無い。また、見える人を許せない者が、見ることの出来ない神を許せる訳が無い。また、見える人を褒めることが出来ない者が、見た事の無い神を讃えることができる訳が無い。また、見える人を恐れない者が、見ることの出来ない神を畏れるはずが無い。また、見える人に、辛抱出来ない者が、見ることの出来ない神を辛抱できる訳が無い。また、見える人に対して、謙遜に出来ない者が、見えない神に対して謙遜になれる訳が無い。また、見える人と共に分かち合い、共有することの出来ない者が、見ることの出来ない神と共に、知り合い、親しくなれるはずが無い。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、内面(心)が変わったり、向上したりすると、以前とは全く変わらない同一の物事の様子や景色も、それ以前には、決して知り得ることが出来なかった、別の見方や感じ方ができるようになること。

2.およそ、この世の中にあるすべての意見は、たとえどれだけ義に適っていると思えても、必ず何かに、偏っているものであり、決して、平衡の取れた客観的なものではない、あくまでも、主観的なものであることを、わきまえ知っておくべきこと。

3.貪欲さ、執着とは、精神的な借金を抱えているようなものであること。

4.この世界の営みにおいて、最も価値ある、ただ一つのものは、物事や、相手を信頼し、信じるという信仰心という態度であること。

5.その人が、魅力的に見えるのは、決して、外見の良さではなく、あくまでも、目には見えない、その人の精神性の公平さ、平衡さ、スマートさから来ていること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あれこれ、いろいろと、こうすれば、恐らくこうなるだろうと想像して、まるでしたような気分でいることと、その中の一つでも、実際に行ってみることとは、全く別の事柄なのである。

2.この世界にあって、すべての人の立場は、まさに、人を保護する屋根なり、壁なりが取り払われた、全く無防備の中で、風雨や激しい嵐に、為すがままに打ちつけられている状態の構図なのであり、荒れ狂う波の中にいる、全く無力な船のような状態のただ中にいるのである。

3.人を殺すのに、何も大掛かりな殺傷武器など必要ない。ただ、各々、その人にとって、一番悩んでいる、その人の一番弱い所を、ただ、言葉という剣で刺せば、それだけで、人は、たちどころに死んでしまうのである。それだけ、悪意のある言葉による中傷は、殺傷能力が高いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてを得ようとするからこそ、失うということも、生じ得るのであり、初めから、得ようとしなければ、失うということも全くないということである。

2.それをすることができるすべての条件が、全く整ったから、それをするという構図は、それ自体は、何の価値も無い死の状態であること。しかし、それをすることができる条件が全く整っていない状態であっても、あえて、それをできるようにする構図こそ、初めて、それ自体が、全く価値のある機能性100%の命ということであること。すなわち、1から、1を産んでも、それは、当たり前であり、そこに何の付加価値もない。要するに、1しかない所から、2を生み出して初めてそれに、付加価値が付くのである。別の言い方をすれば、有から有を生み出しても、それは何の意味もなく、まさに、無から有を生じさせなければならないのである。そこに初めて意味があるのである。