高田義裕の人生論

今日の箴言

公理とは、あくまでも、物事すべての基本となる、証明を必要としないことを言うから、その場合、次の3種類が考えられる。

1.それ自体、証明することが全く必要のない程、すべてに対して自明の理である事柄のこと。

2.それ自体、証明することが全く不可能な程、すべてに対して絶対的である事柄のこと。

3.それ自体、証明することが全く無関係である程、すべてに対して影響力がない事柄であること。

これらを公理の条件としよう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰であっても、自分のしたいことだけしていたい。しかし、長い人生、時には、必要の為に、全く苦手なことも、あえてしなければならない場合があるということである。

2.何が正しくて、何が間違いかを議論することは、まるで、ウサギとタヌキは、どちらが優れていて、どちらが劣っているかということを論ずるような、的外れな事を言っているのに等しいのである。あくまでも、ウサギとタヌキは、共に、それぞれ別の種類の生き物であり、それぞれに、独立しての存在理由を持ち、初めから比べられるものではないからである。

3.はっきりと言っておく。誰かが何の宗教に入っているかとか、あなたはマスタベーションをしているか、していないかとかは、極めて個人的な事柄であるということである。よって、本人以外の誰であろうとも、それに対してとやかく言って、個人の行使権を侵害する権利は決してないということである。すなわち、その宗教に入っているから、もしくは、あなたはマスタベーションをしているからと言って、第三者が、それを良い、悪いと言い得る資格のある者は、一人としていないということである。よって、一人の人権は、一人が一単位であって、親すら別であるということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康とは、あくまでも、神からの人に対する無償の賜物なのである。ここで、無償の賜物とは、その人が立派だから与えられ、その人が愚かだから与えられないというレベルを遥かに超越した力によるものであることを意味しているのである。

2.ただ、単に、駄目な者が本当に駄目な者では決してないこと。ただ、人のことを駄目だと言う者が、初めて本当に駄目な者であること。

3.人は、自分自身のことを、他の人のように扱うことにより、自分で自分のことを無責任に、軽率に、酷く扱うのではなく、あくまでも、人は、自分自身のことを自分のことのように扱うことにより、自分で自分のことを、責任を持って、真剣に、大切に扱うようにしなければならないのである。人は皆、誰でも、男であっても、女であっても、良いことも、厭うべきことも、自分の好きなように自分でできる代わりに、また、得することも、損することも、自分自身についてのことは、全く自分だけが責任を負わねばならないということなのである。しかし、逆に言えば、自分自身が、責任さえちゃんと全うさえしていれば、良いことも、厭うべきことも、その人にとって、好きなように行っても、誰も、ましてや、神さえも、何も言えないということなのである。よって、神のクリスチャンに要求される従順さも、ただ、何も知らない子供心の様な、盲目的従順さなのでは決して無く、あくまでも、自分達の意志で決定した自発的従順さが求められているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人に対して、過度に、批判的、厳しい規律を強いる傾向のある人達に言えることは、人間、誰でも、ある程度の規準に達していて、常識をわきまえているなら、たとえ、その人が何をしていようとも、別の同じ人間が、それについて、あれこれ、とやかく言うことは、あくまでも、出来無いということである。

2.人にとって、たとえ、どんな些細な事でも、どんなことがきっかけで自分自身を変える機会があるかは、わからないのである。

3.一口に言って、神の愛、もしくは男らしさ、大人らしさとは、相手の醜い部分をありのままに受け入れてあげる包容力の事であるのである。

4.はっきりと言っておく。利他的精神に富んだ者こそ、初めて、人間的にも魅力のある人間であると言えるのであり、それは、俗に言うとモテる人と言うのである。よって、それが自分に欠けているのに、どれだけ外見を良く見せても、駄目だということである。すなわち、心のスマートな人間こそ、初めて、魅力的だということであり、相手に対してしつこかったり、貪欲だったりしては駄目なのである。本音では、もっと本当は聞き出したいし、もっと本当は欲しくても、そこを、あえてぐっとこらえる自制心、忍耐力、辛抱強さこそが求められているということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

学校の先生だけが、自分の教師だと思ったら大間違いであること。彼らは、単に、学問についての教師であって、人生についての教師でもあるか、と言えば、決してそうではないのである。よって、人は、視野をもっと広く取るよう努力し、頭を柔軟にして、この世界すべてに存在している、どんな些細な事柄、もしくは、あらゆる人々の考え方や行動がどんなに小さくて、一瞬の事であっても、それに注意を払って、そこから何かしらを、学ぼうという態度を培うなら、あなたの周りにあるすべてのことが、自分にとっての貴重な、人生の教師となり得るということである。

素直な人間になるとは、何でも人の言うことに従うということを意味しているのでは決して無く、ただ、自分の悪い所も、弱い所も包み隠さず、自分のありのままを人に出しているという謙遜で、勇気のある人間のことを、初めて意味しているということである。