高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に謙遜な者は、本来、疲れるという事が無いこと。この様に疲れるという事は、肉体のごく当然の生理的欲求の様に思われがちであるけれども、実際には、あくまでも、心の有り様と深い関係があるという事である。よって、疲れるという定義は、その体の使用される頻度や数値の限界を超えた時に生じる生理的現象の事を言うのでは無く、まだ、幾らでも余力があるのに、自分という意識が、すなわち、心であるが、これだけやれば、もう自分としては十分であると勝手に決め込んでいる自分が居て、その自己満足的な誇りの精神が、私は疲れた、と判断しているに過ぎないのである。すなわち、自分で勝手に限界を決めてしまい、その限度を超えると、もう自分には限界だ、と思い込んでいる心理的状態が、肉体にこれ以上働くな、という命令を出しているのである。これが疲れる原因であり、疲れるとは、あくまでも、肉体的なものでは無く、精神的なものであるという事である。よって、謙遜な者は、どれだけ人の為に働いても、これで十分だ、という自己満足的な誇りの精神が無いので、どれだけでも働けてしまうのである。すなわち、疲れを感じ無いのである。よって人間の本質とは、元々疲れ無い様に出来ているという事である。

2.人間にとって、永続的な喜びこそが、最大の、かつ、唯一の喜びである。よって、一時的な喜びは、確かにあるが、それは決して続かない偽りの喜びなのである。例えば、永続的な喜びとは、相手の人間に親切にしてあげて得られるさわやかな気持ちであり、清い良心を保つ事によって得られる満足感の事であり、一時的な喜びとは、アルコールを飲んで、浮かれ騒ぎをする事であり、麻薬を使用して堕落した肉の欲望に耽る事であり、それに類する事柄なのである。

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