今日の箴言
神についての考察
私は神を信じているのだが、最近分かった事がある。神という存在自体が人間間に争いを生み出すという事である。まず、誰かが、真の神はお一人であり、それ以外の神は信じてはならない、と言ったとしよう。すると、それを言った途端に、人間の間に、その神を信じる人達とその神を信じ無い人達とに分裂してしまうという事である。当然そこで、意見の食い違いが起きて、人々は争いを始めるのである。なぜなら、もしこの世の中に神はいないとしたら、神を信じる者達と信じない者達という立場の分裂は起きるはずが無いからである。そこには、むしろ、何の差別も無い、すべての考え方を良しとする平和が到来するはずである。すなわち、神を信じる事自体が争いの元であるという事である。これでは、余程、無神論者の方が平和主義者であると言えるであろう。この世の中において、無数の宗教があるが、特に、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教について見てみると、ユダヤ教でも、イスラム教でも、キリスト教でも、最初は全く同じ神から出発しているのに、今では、スンニ派、シーア派、イスラム原理主義者、キリスト教においては、カソリック、プロテスタント、統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他、多くの分裂分派に枝分かれしている。そうして、互いに自分達こそ、真の神を信じていると主張し、その考え方や教理の違いで言い争いが生じ、宗教間戦争が起きている。これは何故起こるのか。それは、当の本人の神自身が我々人間には見えないからである。神を信じ無い人達はこう言う。神が存在するなら、あなた方は神を見た事があるのかと。いや、人類誕生以来、誰も神を見た者はいない。また、無神論者はこう言う。神があなたを窮地から救ってくれるのなら、神が実際、天から降りて来て、あなたの体をその両腕で抱え上げてくれたのかと。いや、誰も神が人間を助けた所を見た者はいない。すなわち、神という存在には、これと言った実態が無いのである。もし神がハッキリと人間の目に見えたのなら、すべての人に神は見えるのだから、神に関しての意見の相違など起きるはずが無いのである。要するに、神を見た者が誰もいないから、神について、様々な臆測や見解や解釈が生じるのである。いや、臆測や見解や解釈などでは収まらず、人間の誰かが、自分こそ神である、と言い始めて、歴史上、時の権力者と成り、人々を支配して来た時代が続いて来たし、現在も続いているのである。私はこれは、もうしょうがない事だと思っている。何故なら、聖書の聖句にこう書かれているからである。新約聖書において、イエスキリスト御自身がこう言っている。マタイ書10章34節から35節に、[私(イエス)が地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和では無く、剣を投ずるために来たのです。私は分裂を生じさせるため、男をその父に、娘をその母に、若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。]と。もはや、神御自身がそう述べておられるのであり、我々人間が口を挟める事では無いのである。しかし、私はそれでも言おう。イスラエルの神は、ただお一人の神であり、平和を愛する神であり、神が人間に見えないのは、争いが生じるためでは決して無く、むしろ、いかなる形にも置き換える事が出来ないほど、素晴らしい神であり、偶像崇拝を忌み嫌われる神なのであると。何故なら、これも聖書の聖句に神御自身がこう述べておられるからである。ヘブライ語(旧約)聖書の聖句、出エジプト記20章4節に、[あなたは自分のために下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。]と。すなわち、[神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、神の存在は、世界の創造以来明らかに見えるからであり、それ故に人間は言い訳が出来ません。] 新約聖書、パウロによるローマ人への手紙1章20節より。