今日の箴言
神学序説
1.私達はクリスチャンとしての行状を、使い古された言葉や、提唱された法律の前に自らを推薦するのでは無く、私達はクリスチャンとしての行状を、すべての人々の良心に推薦するのである。
2.聖書に拠る救いとは、こうあるべきだ、こうに違いない、という自己暗示によるみかけの安心感の事では決して無く、事実によってもたらされる、決して揺るぎない確信から来る心からの安心感の事なのである。
3.私達人間にとっての真理とは、お互いが自分達の神エホバを心を込めて愛する事と、私達人間がお互いがお互いを心から愛する事のたった2つだけなのである。
4.何と言っても、人間一人一人には、その人特有の心の偏り、すなわち、心の傾向という性向があるのである。それをまず本人が気付くという事が、自己認識の基本である。
5.聖書から結論出される人間一人一人の立場というものは、次のように定義できる。まず、すべての人間の根源である最初の人間夫婦アダムとエバの、神エホバに対する故意による反抗的精神によって、彼らから産まれてくるすべての子孫は、その子孫には直接責任が無いのにもかかわらず、無条件に不完全さを受け継ぎ、すべての者は罪の内に産まれてくる。そして、その罪深い傾向が、長い期間、何らかの仕方で処置されなかった為に、あらゆる形の種類の不完全さによる弊害が生じ、人々は悪を悪とは自覚しなくなるほど、悪を行うのに凝り固まってしまったのである。よって、すべての人間の心の性向として、権威という対象に対して何らかの反抗的態度が見受けられるのである。それは自分の親に対してであったり、教師に対してであったり、社会に対してであったりするのである。それで神エホバはアダムとエバ以外のそれらすべての子孫に対して、御自身の救いの道を施す事を決意され、昔には、イスラエルの人々に対して御自身の意志を示されたのである。しかし、イスラエルはまた、堕落の道を自らが選んで、神エホバから離反した。なぜなら、その方の厳密な表現である御子イエス・キリストに信仰という形で近付こうとはしなかったからである。それにより、本来は救われる範疇には決して入って居なかったイスラエル以外の他の諸国民に救いの道が予想外に開かれたのである。聖書にはまさにこう書かれてある。新約聖書、ルカによる書14章16節から24節に、イエス・キリスト御自身が語られた言葉で、[イエスはその人にこう言われた。ある人が盛大な晩餐を設けていました。そして大勢の人を招いたのです。そして彼は晩餐の時刻に自分の奴隷を遣わして、招いておいた人たちに、おいでください。もう用意ができましたから、と言わせました。ところが、彼らは皆一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました。私は畑を買ったので、出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします。お断わりさせてください。また別の者は言いました、五くびきの牛を買ったので、それを調べに行くところなのです。お願いします、お断わりさせてください。さらに別の者は言いました、妻をめとったばかりなのです。そのため、参上できないのですが。それで、奴隷はやって来て、これらのことを主人に伝えました。すると、家あるじは憤って奴隷に言いました。急いで市の大通りや路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、盲人、足なえの人などをここに連れて来なさい。やがて奴隷は言いました、ご主人様、お命じになったとおりに致しました。でも、まだ場所が余っております。すると主人は奴隷に言いました。道路や柵を巡らせた場所に出て行き、無理にでも人々を入って来させて、私の家がいっぱいになるようにしなさい。あなた方に言うが、招かれていたあの者たちには誰にも私の晩餐を味わわせないのだ。]