今日の箴言
自分が人にした事がそれは良いか悪いかの区別無く、また自分が人から同じようにされるのである。すなわち、あなたが人に親切にすれば、いずれ必ず他の人があなたに親切にしてくれるのであり、あなたが人の悪いところを許せば、いずれ必ず他の人もあなたの悪いところを許してくれるのである。逆にあなたが誰かをいじめているならば、いずれ必ず他の人があなたをいじめるのであり、あなたが誰かの事を嫌いになるなら、いずれ必ずあなたは誰かに嫌われているのである。
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今日の箴言
自分が人にした事がそれは良いか悪いかの区別無く、また自分が人から同じようにされるのである。すなわち、あなたが人に親切にすれば、いずれ必ず他の人があなたに親切にしてくれるのであり、あなたが人の悪いところを許せば、いずれ必ず他の人もあなたの悪いところを許してくれるのである。逆にあなたが誰かをいじめているならば、いずれ必ず他の人があなたをいじめるのであり、あなたが誰かの事を嫌いになるなら、いずれ必ずあなたは誰かに嫌われているのである。
今日の箴言
近い将来、人々の日常生活の有り様はどのようになっていくだろう。まず今では当たり前にある、何かを所有するという価値観が無くなっていくだろう。そう、何かを所有するために必死で働いてお金を貯めるという生活様式自体が時代遅れなものとなるのである。すなわち、人々は所有したいという欲求がほとんど無くなり、すべてはレンタルの時代になるのである。要するに欲しい時に欲しい物を欲しいだけ利用して、不要な時はそれを返すという生活スタイルに変わるのである。すなわち、究極の物々交換制度が誕生するのである。例えば、インターネットのライン上で誰でも閲覧できる掲示板の様なものが表示され、そこには個人一人一人の要望の募集が貼り出される。例えば、ある人は非常に学校の勉強が得意で、勉強を他の人に教える事が上手なのであるが、その人はは引っ込み思案な性格で友達がいないというのが悩みである。それで勉強を教える代わりに誰かに友達になってもらいたいと言う募集を掲示板に貼る。そこでまた別の人がいて、その人は学校の勉強が大の苦手で勉強は出来ないが、非常に社交的な性格で誰とでも友達になれるタイプの人である。ここで両者の利害が一致し、勉強の得意な人は勉強が苦手な人に勉強を教える事で契約し、その勉強が苦手の人は勉強を教えてもらう代わりにその人の良き友達になってあげる事で契約し、互いに自分の能力や持ち物を交換することによって、お互いの欲求を満たす様にするのである。これからは誰がどこで何を必要としているのか、また、その代わりに何を提供出来るかと言う細かい正確な情報が世界レベルで開示されて、非常に効率の良い物々交換制度が成り立っていくのである。すなわち、何かを所有したい時に両者の間に媒体となっていたお金という貨幣制度が無くなっていくのである。すなわち、お金は必要無くなり、その代わりに、直接当人同士で互いの能力や持ち物を交換し合う新しい経済社会が到来するのである。これによって、現在よりも遥かに貧富の差の無い、互いにより対等で平等な人間社会が将来の人類の主要な生活スタイルとなるであろう。
今日の箴言
神学序説
単一価値こそ神エホバ御自身であり、人間の単一価値への傾倒こそ偶像崇拝なのである。要するに、人間が神のなさる同じことを自分達もやろうとした、すなわち、神になろうとしたのである。この事は実質的に神エホバに人間が私達はあなたよりも賢いのです、と言ったも同然だったのである。
2.何事も富もうと思って富む事が貧しい事柄なのであり、賢くなろうと思って賢くなる事が愚かな事柄なのである。すなわち、自らそれを意識してそうなろうとする事が聖書の言う罪(Sin)なのである。よって罪とは自意識過剰の事なのであり、自分で自分を好ましく思う事、すなわち、ナルシズムこそ罪の本性なのである。私達は息をする時、無意識のうちに息をしているのであり、同様に、何事も無意識(無自覚)のうちに自然に富んでおり、無意識(無自覚)のうちに自然に賢い状態が人間にとっての健全で正しい罪のない状態なのである。
今日の箴言
人はその人生の途上において、非常な努力と苦労を強いられる事がある。極貧の生活をして、何とか飢えをしのぐほかない苦しみを経験しながら、苦学し、大学を卒業して今ではエリート社員として年収1000万円以上を稼ぐようになった人もいる。中学校時代にひどいイジメをうけ、不登校になり、引きこもりになったが、その苦しみを乗り越え、今では一流企業の社長にまで昇りつめた人もいる。この様に事情は様々だが、そういう立派に生きてきた人達は大勢いるのである。ここまでは良いとしよう。しかしである。その自分がいかに苦労して今の輝かしい現在があるかという事を誇りにしている人達がいるのである。はっきり言って、自分が苦労して成功した事を誇りにする時点で、その人はまだまだ苦労が足りないと言える。本当に極限まで自分を試し、本当に苦しみを受けた人間は、決して誇らないし、誇る事が出来ないのである。なぜなら、苦労した事で自分の限界と自分の力の至らなさを思い知らされたからである。よって、人は自分の限界と自分の力の至らなさを思い知るべきなのである。人間の健全な精神状態は、自分の限界をはっきりとわきまえ知ることによって、常に謙虚な者にならざるを得ないからである。
今日の箴言
どんな主張も嘘か本当かのどちらかにしか分けられない。例えば、[太郎は怠け者である。]という主張は、太郎は本当に怠け者なのか、そうでないのかのどちらかに決まる。すなわち、太郎は怠け者であり、かつ怠け者なのでは無いという事は言えないのであり、白か黒かのどちらかなのである。同様にどんな人間も神に従うか従わないかのどちらかにしか分けられないのである。すなわち、私は神に従うわけでもなければ、かつ従わないわけでもない、などと言う事は言えないという事である。
今日の箴言
昨今のニュースを見て感じるのは、インターネットというものは計り知れない力を持っているという事だ。特にヤフーのニュースの記事の後に、一般の人達が書いた感想や意見の記事が載せられているのだが、それは第三者の役割を果たしており、非常に有益で参考になるものだ。また誰かの投稿した映像が瞬く間に世界中に拡散し、その内容に問題があるなら、それは[炎上]という形をとって全世界の人々に影響を及ぼす。すなわち、インターネットの個人的な書き込みが、一流企業やある国の政府の行く末をも左右するほどの権威を持つようになったのだ。人類歴史史上、個人の意見がこれほどまでに広範囲に世の中に対して、影響力を持つようになった事はかつてない。これは一種の革命であり、全く新しい文化の出現である。これは政府やマスコミに次いで第三の権威と成り得る。一般大衆が物申す時代になったのだ。これはある意味喜ばしい事だと言えるだろう。しかし、悪い側面もある。それは問題を起こした1人の個人に対してインターネットの投稿を通して多数の人から誹謗や中傷の書き込みが相次ぎ、周りから袋叩きにされるという間違った力の行使の仕方も生じてくるという事である。すなわち、現在インターネットは誰の権威の元にも置かれていない野放し状態になっているという事だ。これは良い意味で言えば自由とも言えるし、悪い意味で言えば無法地帯とも言えるものである。
今日の箴言
経済論
この人類社会の経済情勢は、経済学者アダムスミスの言う、放っておけば自然と自動的に上手く成り立つ、神の見えざる手が存在するのであろうか。例えば、ある製品を作る工場があって、ある部品がベルトコンベアによって自動で運搬されているとする。真っ直ぐ進んでいる時は全く順調に進んでいたが、それがカーブのコーナーにさしかかるとする。大半の部品は順調にベルトコンベアの動く方向に進んでくれるが、1000回に1度の割合で何らかの原因で歪みが生じ、部品がベルトコンベアの流れから外れて角に引っかかってしまう事がある。この場合それをずっと放っておいても決して元には戻ってくれないので、作業員である人が手でその部品を取って、ベルトコンベアの正しい位置まで戻してやらなければならない。これと同様に世界の経済情勢も最初のうちは、放っておいても自動的に上手くいくかもしれないが、次第に何らかの原因で歪みが生じ、経済活動が上手くいかなくなるのである。この時はやはり、人為的に人が介入して上手く調整しなければ経済も上手く流れて行かないのである。単純な仕組みのベルトコンベアでさえ歪みを生じさせるのだから、それよりももっと複雑なネットワークで動いている世界経済は上手くいかなくなって当然なのである。要するに、初期の段階の経済の流れまでなら、市場経済の自動調節機構、すなわち、神の見えざる手は存在するが、ある程度にまで経済情勢が発達し、熟年期、高年期にさしかかると神の見えざる手はまるで効果が無くなってしまうのである。現在の私達の世界の経済情勢はまさにカーブのコーナー(高年期)にさしかかっており、誰か飛び抜けて頭の良い、信頼出来るリーダーが神業で操作しない限り、世界経済全体は正しい方向に決して戻ってはくれないのである。
今日の箴言
左腕で左腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、右腕によって左腕をつかむ事が出来る。また、右腕で右腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、左腕によって右腕をつかむ事が出来る。すなわち、それ自身がそれ自身の存在を証明する事が出来ないという事である。例えば、あなたという人間は自分は今確かに存在しているという自覚があるかもしれないが、あなた自身の存在をあなた自身が証明する事は出来ないという事である。あなたという存在が確かに存在する事を証明出来るのは、あなた以外の別の人間があなたを見てあなたは確かに存在していると認めなければならないのである。この理屈をマクロの視野まで広げてみるならば、私達の生きているこの世界全体もそれ自身では自分の存在を証明する事は出来ないのである。すなわち、私達がはっきりとこの世界は確かに存在していると自覚していても、この世界自身は果たして存在するかはわからないのである。もしかすると我々の住むこの世界は実在しておらず、我々の世界は単なるバーチャルワールド、すなわち、仮想現実かもしれないのである。この私達の世界の存在を証明する為には、この私達の世界とはまた別の存在、もしくは別の世界が存在しなければならないという事である。
今日の箴言
人よ、あなたは全人生において成功と幸福を同時に得る事は出来ない。成功を選ぶか、幸福を選ぶかのどちらかにしなさい。上水と下水が共に混ざり合う事は無いように、あなたは神と富とに同時に仕える事は出来ないからである。またあなたは神と悪魔とに同時に仕える事は出来ないのである。幸福は神に属しているのに対して、富と成功とは悪魔に属しているからである。よってあなたは神と共に貧しくても幸福に生きるか、悪魔と共にこの世の栄光と富という成功を得る代わりに不幸に生きるかのどちらかを選ばなければならないのである。
今日の箴言
正しい事柄は無数にあるかもしれないが、唯一かなめの事柄、すなわち、真理というものは常に1つしか無いのである。これは無数の人間がいても、あなたという存在は1人しかいないのと同様である。
2.聖書=事の結論であって、たとえ現在、どんなに新しく別の素晴らしい道や可能性が私達の前に開かれているかの様な気分になっても、それは結局は朽ち果てて行かざるを得ないものであり、人間の編み出す事柄はすべて、過去であろうと、現在であろうと、将来的にであろうと、決して永続的な性質のものでは無いのである。私達は、聖書を読むことによって、この世界の序論と本論をいわば飛び越えて、結論を知る事が出来るのである。人間にとって刺激的、快楽的な事柄であればあるほど、それはすぐに枯れてしまう美しい花のようであって、結局は神の言葉しか残らないのである。神の口から出る真理の命の言葉こそ、永続性を持つものであって、結論を言えば、人間にとって、唯一真の神エホバを恐れ、その掟を守る事こそ、人の行うべき務めのすべてであるという事である。