高田義裕の人生論

今日の格言

受験の悲劇

彼は学問の勉強はやってきたが、人生の勉強は少ししかやってこなかった。それで、人にとってより大事なのは人生の勉強の方だったのである。そしてタチの悪い事に、彼は知識だけは持ち得ている分、人生を仮想現実的に評論家のような態度を取る。すなわち頭の知識だけで人生を知ったつもりになっているため、心のプライドだけは非常に高いのである。それで社会に出ても、社交性が乏しいから、仕事も職場の同僚や先輩とうまくコミュニケーションが取れない。それで彼は非常に悩んで仕事を辞めてしまう事になる。そして一歩踏み間違えると、あとは雪崩の様に人生を転げ落ちていく。これが現代の受験の悲劇なのである。本来学問が好きな者だけ大学に行けばそれで良いのである。世の中に出れば、引き算と足し算さえできれば仕事が出来るし、学生の頃に習った微分積分などの知識は社会に出たらほとんど使う事はないのである。そんな知識は数学者になりたい人だけ勉強すれば良いのだ。よって勉強が嫌いな人は中学校を卒業したらさっさと働けば良いのである。中国の孔子が勧めた科挙による試験で優秀な人材を選び、その様な者こそ役人や官僚になるべきであり、君子が政治を治めるべきだという考え方は一見正しいようで実は問題を多く抱えているのである。みんながみんな君子になる必要はないのである。よって受験戦争とは人の弱点を巧みに突いたプライドという心理に訴えた自尊心を逆手にとった殺人システムと化しているのである。我々はそろそろ学歴社会を捨てて、もっと幅広い多様性に富んだ教育システムを早急に構築しなければいけない。世の中とは賢い人が支配してうまくいくものでは無く、大勢の人の多様性という役割分担によって成り立っていくものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人の幸、不幸の分かれ道はただ心の持ちようにのみかかっていること。

2.何もしようとしない者は本当の怠け者か、そのままで自分が一番偉いと思っている者のどちらかである。

3.人生をうまく渡る秘訣とは、一言で言って、たとえそれが本当の事実であったとしても、それをあえて言わないということのみにかかっているのである。なぜなら、いつでも誰であっても、真実とは常に残酷なものであるから。

4.神は私達に奇跡を見せてくれないと言っている者達よ、私達がごく普通に生きるためには奇跡が必要不可欠なのである。それは離婚した女性が生まれた子供を1人身で働きながら育てる事であり、1人の若者が貧しさに耐えながら勉強に励んで仕事と勉強を両立させながら生きることであり、目の見えない者が必死に努力して立派なピアニストにまでなることであり、手のない者が過酷な自転車レースに挑んで優勝する事であり、精神を病んであまりにも凶暴過ぎて牢屋に入れられていた者が、周りの人達の愛ある協力で遂には普通に働けるまで回復した事なのであり、挙げたらキリが無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

民主主義と共産主義はどちらがより優れた支配の仕方か。

より自由である事は不自由である事より優れているか。すなわち、選択できる物や条件が狭められている事と、選択できる物や条件が豊富にある事の違いである。すなわち、言論の自由であり、あらゆる情報の収集可能な状態である。一見すると、なんでも自由に手に入る民主主義社会の方がより優れていると思われる。しかしここに大きな落とし穴がある。なんでも自由に手に入るという事は言い換えれば、情報過多であるという事であり、それは人が生きていく上で選択肢が多い分、なんでも自分で決定しなければならないという事だ。すなわち、自分の人生の道筋を指南してくれる指導者がいないという事を意味する。すなわち自分の人生をどう生きればよいか選択肢が多すぎて路頭に迷うのである。民主主義は確かに自由を享受してそれを謳歌している者もたくさんいるが、逆に自分がどう生きればいいか分からなくて、いろんなやり方を試し、それでも納得がいかずに病的に悩んで精神や体を無理に酷使し、社会から取り残される人々も多くいるのである。すなわち民主主義において、うまく行っている人を500人とすれば、うまく行っていない人間は1000人いるのである。それに対し、共産主義は確かに言論の自由も無いし、手に入る情報も少ない。これにより不自由な生活を強いられ、自分の人生は選択肢が少ないため、できる事も限られている奴隷状態となる。よって一見すると共産主義は民主主義より劣っていると思われがちである。しかしそこには大きな見落としがある。なぜなら共産主義には人民を指導する、はっきりとした指導者がおり、その人の言うことを聞いてさえいれば普通に生活できるし、その国で社会から取り残されるという事は無い。また、自分ができる事の選択肢が少ないという事は、その分、できる事が限られるから、人生をどう生きるべきかも限定される。そうであれば、与えられた条件下で精一杯最善を尽くそうという精神が育ち、次第に自分に与えられた仕事に熟練し、生き甲斐を見い出す様になる。すなわち共産主義において、不自由で苦しんでいる者もたくさんいるが、逆に与えられた範囲内で全力を尽くし、成功して人生を謳歌している者も多くいるのである。すなわち共産主義において、うまく行っていない人を1000人とすれば、うまく行っている人間は500人いるのである。すなわち民主主義体制と共産主義体制の中でうまく行っている人間とうまく行っていない人間の割合はどちらも500対1000であり、なんの大差も無いのである。よって、民主主義と共産主義はどちらがより優れているかは、甲乙つけ難いという事になる。すなわち言い換えれば、民主主義には民主主義の良いところもあれば、悪いところも多いし、共産主義には共産主義の悪いところもあれば、良いところも多いという事になる。すなわちどちらが優れているかは言えないのであり、これはもはやどちらの支配体制を選ぶかという個人の好みの問題になってくるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

果たして全くの自由を持たれる神ほどの方が、してもしなくてもほとんど大差のない事柄をあえてしてはならないと言うだろうか。決して言われないのである。忘れてはならないのは、神の掟は私達の意志や決定をなんら奪うものでは決して無く、神の掟はすべて私達の身を守るために書かれているのである。すなわち、神が私達に与える掟は神の都合とか、神の益のために書かれているわけでは決してないという事である。よって、神が私達に~してはならないと言われた時は、それにはちゃんとした私達の益のための理由があるのであり、もし逆に私達がそれに逆らって行うとしたら、それは私達の身にとって必ず害になるという事なのである。

2.便利さの実感は不便さを実感した上で初めて知り得るものである事と同様に、神の掟の有益さは神の掟を破って味わった苦しみを経験して初めて実感できるものである。

3.すべての人間が何物にも勝ってすべき事柄は、自分の内にわずかでも残っている良い点を探し出す事に熱心であり、目ざとくあり、そしてそれを足がかりとして、それを伸ばし増やしていく事にのみ、全力を尽くす事なのである。

4.聖書は決して間違っていないという意味とは、たとえ聖書が書かれている事を自ら当てはめてみたけれどもなんら益は無く、むしろ害になったという場合があるとしても、それは聖書の側に何か不備があったからでは決して無く、その当人の聖書に対する捉え方、用い方、解釈の仕方が間違っているという、それを取り入れる側の方に問題があるということなのである。

5.文字通りの死だけが死ではない。たとえ生きていても、人にとって助言者がいないという事は、既にその人にとって死を意味し、また生きてはいても性的快楽に耽る者は既に死んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

真に賢く、すべてを調べ尽くした者は言った。私は私が決して賢くなる事を見い出せないと。つまり、賢くなろうとしていた事自体が全く愚かな事である事を真の賢者は認めざるを得ないのであった。

2.神を信じない人達よ、ある競技に対しての敗者がその勝者を認めざるを得ないのと同様に、人も自分が死ぬ時に神エホバを認めざるを得ないのである。

3.あらゆる失敗をしても、それは後でやり直せる。しかし、自分の目から見て自分は賢い者であると思う愚かさだけは避けるべきである。その失敗はやり直せない。なぜならそれは一生涯恥ずかしい目に遭うからである。

4.義なる者は、たとえ自分が不当な目に遭って喜べないようであったとしても、むしろ、その様な時にこそ、自分がその様な事を他の人にしていない者である事を何にも勝って喜ぶのです。

高田義裕の人生論

今日の格言

はっきりと言っておく。あくまで神は肉欲の淫らな様を忌み嫌われたのでは決して無く、私達人間の肉欲に対する渇望によって、もがき苦しむ人間の苦しみの様を忌み嫌われたのであり、神はただ罪のみを理不尽なまでに憎み、それを犯している人間を非常識なまでに愛されたのである。これはまさに非常識であり、理不尽なまでの愛であり、異常なまでの神の義であると言えるものである。これほどまでに私達を擁護し、愛してくださっている神の行為に一体誰がこれに対してそれは不法である、それは不正である、などと反論できるであろうか。誰もいないのである。

2.人は1つ誇るために2つの重荷を背負う事になるのである。そう、誇る事は人にとって重荷となるのである。

3.人を褒める者は自分も褒められるのである。これが人間関係の黄金律なのである。

4.唯一まことの神エホバを恐れるという事はすべての初めであり、知恵の初めであること。

5.私達は利他的愛を実践することにおいては貪欲でなければならないのである。

6.私達はいい男(いい女)、より賢い人間になろうとしたが、これもまた遠く及ばない事であった。なぜならこの動機付け自体が私達にとって不純であり、大きな勘違いだったからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は力不足で考えが浅く、無能力で愚かな者であったので、自分達がいかに力不足で考えが浅く、無能力で愚かな者であるかを知らなかったのである。むしろ私達は自分達の現状が最良のものとすら思っているのである。これにより、私達はまさに三重の愚かさを示しているのである。

2.すべて動機が不純でやましく無く、むしろ単純で軽い(純粋に楽しいと思う)ものだからこそ、私達は自分の目標を行い続けていけるし、また、到達する事が初めて可能なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

罪の報いは死である。

あらゆる忌むべき不義に対する至高者であり、聖なる方である神エホバの倫理的事柄に対する公正さは、我らに対して死の宣告だけであり、すなわち、その中には、どうせあなた方は死ぬ立場にあるのだから、それまではお金儲けをしようと、性的快楽に身をゆだねようと、なんにせよ、自分達の望むままに生きよ、というニュアンスが含まれているのである。要するに神は人間がどれだけ不義を行おうとそれ以上咎めたり、とどめたりはされないが、その代わり、もし誰かが災いに陥った時、それ以上助ける事もされないのである。なぜなら最初の人類の方から神に頼る事を捨てたからである。よって今の人間は、自分達が災いに陥った時には自力で解決して行かねばならず、自分にとって神の代わりとなる助けを必死で模索していくしかないのである。これこそが、もし神がおられるのなら、なぜ今苦しんでいる人達を助けないのか、というもっともな疑問の答えとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物事を知れば知るほど、自分がいかに何も知らないかが分かってくるように、人は目標に向かって頑張れば頑張るほど自分の望む十分の1も実現出来ない事がひしひしと感じ取れるようになるのである。

2.この世の中におよそ不可能として固定されているものなど1つとして無いのである。これはこの世の中におよそこれは可能であると固定されているものなど1つとして無い事と同じである。ただある者がある対象に対して、それを不可能であると見なした時、それはその者に対してだけ、不可能なものとなるのであり、また、ある者がある対象に対してそれは可能であると見なした時、初めてそれはその者に対してのみ、可能なものとなるのである。なぜならこれは不可能であると確実に証明出来るものはこの世の中には無いし、また、これは可能であると確実に証明出来るものもこの世の中には無いのだから。すなわち、それがあなたにとって不可能なのは、あなたがそれを可能にする意欲が無いだけであり、それがあなたにとって可能なのは、あなたがそれを可能にする意欲があるからなのである。すなわち、すべては気持ちの問題であり、気持ちの持ち方でこの世の中はどうにでも変わるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

もし私達人類が運よく奇跡的に全面核戦争を回避できたとしたら、私達の将来は明るいであろうか。いや決してそうはならない。なぜならもし、核戦争後の未曾有の無秩序世界が成立したとしたら、それはその方がまだマシかもしれない。なぜならそこには何も無いが、自由はあるのだから。この先、我々の社会はどう変化して行くだろうか。それは秩序という名のがんじがらめの超監視社会になるからである。昔の人は今で言う職場でのパワーハラスメントを常に受けていた。それでもそれは今と違って、上司や師匠から怒られたり、殴られたりする事は当たり前だという認識があった。なぜなら、現在の我々の生活よりも昔の人々の生活が非常に苦しかったからである。当然、物心ついたときから、自分の親からきつい体罰を受けて育ったし、何しろ貧しくて食べるのにも困ったから、それに耐えるのに、ものすごく根性が自然と鍛えられていたのだ。よって少々の事ではめげないサバイバル力(生きる力)が今の我々よりも何十倍も強かったのだ。我々の世代はどうか。我々は物心ついたときから、比較的、何不自由無く、貧しくも無く、恵まれて育ったのでは無いだろうか。私自身、食べる物が無い、という経験はまだしたことがなかった。普通に暮らしていけたのだ。当然そのように恵まれた環境にいたのだから、根性が鍛えられるという事も無く、甘ちゃん(suger)に育った。しかし我々は社会人になって仕事をするようになると、事態は一変した。職場が無茶苦茶厳しかったのである。今まで楽して生きていた分、それが余計にこたえたのである。私達は日々、上司や師匠から、罵声を浴びせられ、時にはかなづちや包丁が飛んできた事もあった。私達はそれに憔悴しきって精神を病んだ。今は昔とは全く事情が違うのである。昨今はパワーハラスメントで鬱病になり、自殺した者も多くいる。私達は昔の人達より根性が無いのだ、と言われてしまえば、それまでなのであるが、そうもいかない。やっぱり既に時代は変化し、親は子供に体罰すると逮捕されるし、部下を怒鳴りつけて仕事を覚えさせる事はもはや悪なのである。この様に人間は徐々に肉体的にも精神的にも弱くなっていくのであり、昔は問題視されなかった事が今では大きな社会問題になってきているのである。例えば、あるスーパーマーケットに客が買い物に来て、店員の接客態度が気に食わず、大声で罵倒した。いわゆるクレーマーである。昔はお客様は神様であり、何を言われても店員は謝るしかなかったが、今はもう違う。あまりにも客のモンスター化に店員達はキレて逆に客を怒鳴りつけた。それが社会問題化し、国はクレーマー法というものを作って、あまりにもひどい事を言う客には懲役刑を与える事にした。そしてこの難しいストレス時代、みんなストレスを溜め込んで、それを発散させるために、人と人とが激しく怒鳴り合うケースがどんどん増えた。それで政府は事細かに規制を作り、人の事を何でも悪く言う事はもはや犯罪であるとみなし、それをする者には懲役刑を課すようになった。すると人類社会は皆怯えて、何も言えなくなった。そう、憲法に言論の自由が保障されているにもかかわらず、人々は自分の考えや感情を表に出す事自体が悪とみなされ、普通の会話さえ出来なくなったのである。当然、隣の家に怒鳴り声でも聞こえようものなら、隣人が警察に密告する事も珍しく無くなった。これにより、すべての人間関係はギクシャクし、人々はお金を払って、日頃のストレスをぶちまけられるストレスルームが大繁盛した。どうであろう。この先、我々には自由に生きる事も出来ないような事細かな法律という規制の犠牲者となっていくのである。すなわち超監視社会の誕生である。要するにどっちに転んでも、ろくな社会にしかならないのである。この事を今から予想し、それを避けるための知恵を私達は振り絞らなければならない。