高田義裕の人生論

今日の格言

民主主義の共産主義化

民主主義は自由だって? とんでも無い。単にそれは表面的に言論の自由があるだけで、実際の社会体制はガチガチのしがらみだらけの既得権益層がしっかり我々を縛っている。なぜそうなるかと言うと、例えばハウスメーカーがあるとして、そこには実際に家を作る大工が在籍しているわけであるが、実際に家を作るのは大工だから、ものすごく威張っている。しかし、大工の腕は確かでも、彼には営業力が無い。すなわち職人気質ではあるが、お客を取ってくる接客業には向いていないのである。だから、どこかのハウスメーカーに身を置く事になるのである。政治も一緒だ。実際に政治を運営しているのは、官僚達である。しかし、彼らは事務能力はあっても、営業力が無い。すなわち、有権者を引っぱってくる様な接客業には向いていないのである。それで、表向きに営業力のある、接客業には自信がある、いわば、ハウスメーカーの顔とも言うべき、営業マンが必要となってくる。政治で言えば、政治家達である。彼らはその見た目の感じの良さや口のうまさで、ハウスメーカーの営業マンの様に有権者というお金を払ってくれるお客を連れてくるのである。しかしそこまでで、政治家には対人力があるが、実際に家を作る技量や能力は無い。これと同じく、政治家は有権者というお客を連れてくるだけでその役割を終えると、後の政治の難しい舵取りの方は官僚達に変わってもらうしかない。すなわち我々国民が自由なのは、政治家という表向きの看板を新調するだけに過ぎないのである。どれだけ政治家を選んでも、すなわち、どれだけ表の看板を新調しても、店の本体自体は全く変わらないのである。すなわち、政治権力を駆使する官僚達はいつまで経っても同じ者達ばかりであり、政治家が変わっても、決して彼らの政治方針は変わらないのである。すなわち民主主義は羊の皮をかむったオオカミのようなもので、表向きは、自由を掲げているけれども、実質は独裁政権に過ぎないのである。これは前面に独裁色を掲げている共産主義よりも自分達をさも共産主義とは違う自由を与える天使の様にカモフラージュしている分、遥かに悪質でタチが悪いと言えよう。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

愛の定義

愛とは何か。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、パウロによるコリント人への第一の手紙13章4節から7節、[愛は辛抱強く、また親切です。愛は妬まず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓ばないで、真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え、すべての事を信じ、すべての事を希望し、すべての事を忍耐します。]

そしてまたこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章13節、[しかし今、信仰、希望、愛、これら三つは残ります。しかし、このうち最大のものは愛です。]

またこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章8節、[愛は決して絶えません。それに対し、預言の賜物があっても、それは廃され、異言があっても、それは止み、知識があっても、それは廃されます。]

またこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章1節から3節、

[たとえわたしが人間や天使のいろいろなことばを話しても、愛がなければ、音を立てる一片のしんちゅうか、ただ鳴り響くシンバルとなっています。そして、たとえ預言の賜物を持ち、すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても、また、たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても、愛がなければ、何の価値もありません。そして、ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても、また、自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても、愛がなければ、わたしには何の益にもなりません。]

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中のあらゆる現象は、理性的哲学によって説明されるのでは無く、客観的知性によって説明されるのでは無く、論理的思考によって説明されるのでは無く、科学的実験によって説明されるのでは無い。もちろん、独断的偏見によって、説明されるのでは無い。それらすべてに共通するものは、消極的精神である上から目線の批判的精神に根ざしている。この世の中のあらゆる現象はただ1つ、積極的愛によって説明されるのである。いや、積極的愛は、この世の中のあらゆる現象を説明するに留まらず、むしろこの世の中を形作るものとなるのである。よって我々はこの世の中を説明するとか、この世の中の問題を解決するとか、控えめな姿勢でもって事に当たるのでは無く、この積極的愛によって能動的に世の中を作っていかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

自分1人でここまで育ってきたと思っている者は、悪人でも、罪人でも無く、それは単に世間知らずなのである。

2.心の綺麗な者は将来の美人である。

3.大河から私達は教訓を得る事が出来る。たとえ、水一滴でも、それが同じ場所に留まる事を惜しんだならば、河全体は流れて行かないのである。また、麦から私達は教訓を得る事が出来る。麦一粒でも地に落ちる事を惜しんだならば、次の芽は出ないのである。すなわち、麦一粒は、次の芽のために自らの命を投げ出しているのである。

4.私達クリスチャンは、悲観的な状態には希望を、楽観的状態には裁きを述べ伝えていくのです。

高田義裕の人生論

今日の格言

新貨幣論

西暦2020年2月8日現在、世界の経済情勢はますます悪化している。特に顕著なのは、貨幣の流動性が滞っている事である。すなわち、人類は何か世界を一変させるような劇的な発明なり、発見をしていない。社会体制をも激変させるような、今までの常識では考えられない第4次産業革命でも起きない限り、この貨幣という水の流れの大河はいずれ干上がってしまう。すなわちお金を投資出来るような新たな分野の発展が見られないのである。人々は経済状態の不安のために、お金を使おうとせず、貯蓄に走る。また企業も先行きが不透明だから、新たな投資を控えて、お金を使わず、将来の危機に備えてお金を貯めこむ。すなわち内部留保だけが増え続ける。そうなれば、世の中にお金が回らなくなって、うっ血した血管のように血液というお金が体全体に行き渡らなくなり、徐々に体は壊死してゆく。最後には死が訪れるのである。ここで、不景気を打破するために貨幣制度を変えてみよう。すなわちみんながお金をもっと使って消費するようになるため、貨幣制度の在り方を変えてみようと思うのである。まず、二種類の貨幣を用意する。1つはこれまでと変わらない、いつまでも使える永久貨幣である。もう1つはこれまでと違った、いつまでも使えない期限切れの貨幣である。すなわち、その貨幣を使える期限を定めるのである。もしその期限が過ぎたら、もうその貨幣は紙くず同然となって使えなくなるのである。例えば、西暦2020年から、西暦2021年までの1年間だけ有効な紙幣を発行する。これをα貨幣としよう。そして、次に西暦2020年から、西暦2023年までの3年間だけ有効な紙幣を発行する。これをβ貨幣としよう。また次に西暦2020年から西暦2025年までの5年間有効な紙幣を発行する。これをγ貨幣としよう。そして、次に今まで通りの無期限の永久貨幣を発行する。ここで、人々は労働し、働いて、賃金を貰うのであるが、その時に、人々が自由にα貨幣と交換するか、β貨幣と交換するか、γ貨幣と交換するか、それとも永久貨幣と交換するか、自由に選べるようにするのである。例えば、ある人は月に30万円の収入があるとする。それは永久貨幣としての金額が30万円としよう。しかし、もし30万円をγ貨幣と交換する場合、その価値は有効期限のある紙幣だから、永久貨幣に換算すると、30万円×2=60万円貰える事にする。すなわち、5年以内に使えば、永久貨幣の2倍の60万円に相当する価値がある事になる。次にもし、30万円をβ貨幣と交換すれば、使用期限は5年よりも短く3年間なので、その代わりに、永久貨幣の3倍の価値が与えられ、30万円×3=90万円が貰える事になる。そして次にα貨幣であるが、永久貨幣の価値30万円分をα貨幣と交換するなら、その使用期限は1年間と短いので、その代わりに永久貨幣の10倍の金額が貰える事になる。すなわち、一月に30万円稼いだ人は、自分の意志で、そのまま永久貨幣として持っているか、それとも、今、家と高級車が欲しいから、価値が10倍になるα貨幣と交換して、30万円×10=300万円にし、それを1年間以内にα貨幣として貯蓄し、300万円×12ヶ月=3600万円にまで膨らまして、使用期限の一年が切れるまでにその3600万円を家と高級車の分として使い切ってしまうのである。こうすれば、人々は嫌でもお金を使おうとするし、使わなければ損をするという心理が働いて、どんどん消費するようになる。すなわち永久貨幣として貯蓄する事が一番低い金額しか貰えないような仕組みにしてしまうのである。こうすれば、人々は資産として永久貨幣を持ち続けながら、期限ありの貨幣をも使って物を消費し、豊かな生活を送る事が出来る。こうすれば自然と不景気が解消されると私は考えるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

もし、私達が今日中に終わらせなければならない仕事を完璧にこなせる力があるとするなら、スケジュール表やメモ帳はいらない。なぜなら、私達が今日中に終わらせなければならない仕事を完璧にこなせる自信がないから、わざわざメモに書いて、どうすれば今日中に仕事を終わらせられるか、計画を立てるのである。私のように文章を書く者もそうだ。私達がなんでもすべて完璧に記憶する能力があるなら、まず文章に書いて残す必要もない。自分が思った事を忘れるから、文章にするのだ。すなわち、我々にはすべてを記憶する能力が無いから、文字という媒体が必要となるのである。よって、なんでも完全にこなせるし、すべて記憶する事が出来る人間には、スケジュール表という計画も、文章という文字も無駄なものであり、愚かなものなのである。よって素晴らしい計画や、素晴らしい文章というものがあっても、それは、愚かさを高めている様なものであって、愚かさを誇っても無意味なのである。同様に賢い者には賢い事は必要では無く、愚かな者に知恵が必要なだけである。よって知恵を誇ってもそれは無意味なのである。また、正しい者には正しい事は必要では無く、悪い者に正しい事が必要なのである。よって正しさを誇っても無意味なのである。これは例えれば、車を既に持っている人には、もはや車は必要では無く、車を持っていない人に車は必要である事と同様である。よって人は知恵や正しさを誇る傾向にあるが、それは自分達が愚かな者である事を高めているに過ぎないのである。すなわち、賢さも正しさもすべて相対的価値観に過ぎないのであり、それを絶対的なものとして賞賛し、崇める様な事であってはならないのである。すなわち、ただ、絶対的存在で、賞賛し、崇めるべきなのは、唯一まことの神、エホバだけなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

 

なんでも自分の思い通りになったら、幸福であろうか。確かに最初のうちは愉快かもしれない。しかし、あなたはそうしているうち、何かが欠けていると思い始める。そうだ、自分が物凄く孤独な事に気付いたのである。なぜなら自分以外のすべてのものは自分の思い通りになる将棋の駒にしか過ぎないからである。要するに自分と対等な存在がいないから、対等に話し合える相手もいない事になる。そうして、あなたは孤独に耐えられなくなって気が狂いそうになった。そして、ふと考えると、すべてのものは自分の思い通りになる事に気付いた。そしてこう言った。私を孤独から解放せよ、と。するとすべてのものは全く元通りになり、あなたはなんでも自分の思い通りになる力を失った代わりに、すべてのものはあなたと対等な立場となって孤独から解放された。どうであろう。例え、なんでも自分の思い通りになったとしても、孤独になり、自分の孤独をどうする事も出来ないのである。結局は何も思い通りに出来ない普通の状態に戻るしかないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ、みんな離婚をするのか。

男性であるあなたはレストランに食事をしに行った。すると非常に美しいウェイトレスの女性がとびきり美しい笑顔であなたを迎えた。すると、あなたはそれを見て、一目惚れしてしまい、なんて素敵な女性なんだと思い、心の中で自分の結婚相手として理想の人だ、と思った。まさにここに大きな落とし穴がある。あなたが見たのは、彼女が仕事のために自分の全力を尽くしてあなたにとびきりの笑顔という感情労働をしてくれたのである。すなわち彼女としては普段の本当の自分の姿では無く、あえて意識して好意を持たれるように一生懸命自分を作ったのである。すなわち、あなたは彼女の結構無理をして作り笑顔をした本当の彼女では無い彼女を愛したのである。実は彼女は本当は内気で、なんとかその内気な自分を変えたいと思い、結構無理をして接客業にチャレンジしていたのである。実際に仕事が終わった後は、彼女はとてもくたびれて、自宅ではうつ状態であった。すなわち、こういう事である。人という者は誰しも、人には言えない過去や悩みを抱えている。ある人は今は明るい性格だが、昔は根暗で陰気な性格だったりする。それで子供の頃、みんなからいじめられていた。その様に、人に言えない過去があったりする。また、ある女性は大変、今は魅力的な人なのだが、昔、過去に自分の好きな男性にフラれて自殺未遂を起こしていたりする。その苦しみゆえに、心の病を抱えて、精神薬を飲んでいたりする。そうなのだ、人は恋愛をする時、相手の人の今現在の姿や見た目で判断してしまう。すなわち、相手の人間のこれまでの歩んできた紆余曲折を知らない。本当は相手は自分の悪い癖や習慣を隠してあなたと接しているかもしれないのである。それを知らないまま、結婚したりする。そして一緒に生活して見て、初めて相手の悪い癖やだらしなさを発見する。ここであなたはようやく気付く。彼(彼女)がこんな人だとは思わなかった。しまった、こんな人なら結婚するんじゃなかった、と後悔するのである。そして当然の結果として、2人は性格が合わない為に離婚するのである。人という者は、幼児からの基本的な性格というものは実は変えられない。本人はそれに十分悩み続けてきて、努力をし、成人になる頃にそれを克服したと思っているかもしれないが、実際には基本的なベースは今も引きずっているものなのである。例えば、小さい頃から内気な人は、それを悩んで、外交的な性格になろうと努力してきて、今では、社交的な人物として周りからは映っているかもしれない。しかし、本当は、完全に内気な性格を直せない自分に自信を持っていないかもしれないのである。この様に、1人の人間がどういう人間か、判断するためには、幼い頃から歩んできたその人の遍歴を辿らなければならないのである。すなわち、視野を広く持って、その人の人生全体から眺めなければ、本当のその人の日頃の行動の動機が何かわからないのである。それをせずに、今現在の一瞬のその人の全力を出して作った良く見せている部分だけを見て、その人を判断してしまうから、後でこんなはずでは無かった、と後悔する事になるのである。よって相手が自分にとって、ふさわしい相手かを見極めるためには、相手の一番、悪い点を見るべきである。そうして、相手の本当の自分を出している時を観察すべきである。もし、相手の一番気を許している時の素の部分を見て、それでもそれがあなたにとって許せる許容範囲であるならば、その人と結婚すれば良い。そうすれば、すでにあなたは結婚する前から相手の一番悪い部分を知っていてあえて結婚するのであるから、後で後悔する事も無く、離婚せずに結婚生活を続けていけるはずである。であるから、私が思うのは、お互いに好きになったのなら、いっぺん結婚せずに、一緒に住んで同棲してみると良い。そうすれば、いやでも相手の悪い性癖が見えてくるから、そこで結婚すべきか、しないべきか判断すると良い。そうすればあなたの人生において離婚という世間から見て汚点となる選択を避ける事が出来るはずである。

高田義裕の人生論

今日の格言

真のクリスチャンとしての信条

1. 信仰    (御子イエスキリストを信じ、認めること。)

2. 徳        (神の目から見て、良い事を行うこと。)

3. 知識     (あらゆる状況に適切に判断し、行動できること。)

4. 自制     (状況の許容範囲を判断し、行動すること。)

5. 忍耐     (積極的に良い事のために忍ぶこと。)

6. 敬虔な専心    (神の定められた事柄に積極的に奉仕すること。)

7. 兄弟への愛情  (思いが同じ者達に対して愛情を共有すること。)

8. 愛         (すべてのものを愛するように日々、積極的に行動すること。)

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ、同じ罪を犯しても、逮捕される者もいれば、逮捕されない者もいるのであろうか。日本では18歳未満の女性と性関係を持つ事は犯罪である。ヤフーのニュースでは、ほぼ毎日、性的虐待事件や18歳未満の女性と淫らな行いをしたとして男が逮捕されるという報道は後を絶たない。しかし、これは氷山の一角であり、18歳未満の女性と性関係を持っている成人男性はまだまだ沢山いるのである。警察に捕まる者も大勢いるが、まんまと警察に捕まらずにやり過ごし、淫らな行為に引き続き耽っている者も大勢いるのである。これは不公正では無いか。倫理的に言って、悪い事をした者はすべて裁かれるのが正しいはずなのに、現実はそうではない。同じ悪を行っていても、裁かれる者もいれば、裁かれなくて済んでいる者もいるのである。しかし、ここで定義すべき事は、正しさとはその人が行った当然の報いを必ず受けるという事なのである。それに対し、悪とはその人が行った当然の報いを受けないという事なのである。この世界は悪がはびこっており、悪い事をしても繁栄している者が大勢いるのである。そして正しい事を行っていても衰退している者が大勢いるのである。実はこれはすべて偶然の所産なのである。偶然たまたまその場に居合わせたばかりに、爆破テロに遭って死ぬ場合があるのであり、偶然たまたまその場にいなかったため、爆破テロに遭わなくて済んだ場合もあるのである。コインの表の表は裏であり、コインの裏の裏は表であるのと同様に、偶然の偶然は必然であり、必然の必然は偶然なのである。よって、コインを投げて、裏と表が出る確率は、2分の1である。すると表の次にまた表が出る確率は4分の1であり、また、裏の次にまた裏が出る確率も4分の1である。よって、偶然の偶然が出る確率は4分の1であり、必然の必然が出る確率も4分の1である。すなわち、必然的に報いを受ける者の確率は4分の1であり、それは25%である。また、偶然的に報いを受ける者の確率は4分の1である。それは25%である。これは言い換えれば、悪い事をして報いを受ける者の確率は4分の1であり、25%である。また、言い換えれば、悪い事をして報いを受けない者の確率は4分の1であり、25%である。すなわちここで[倫理の均等理論]が働いて、25%-25%=0であり、全体としては悪くも正しくも無いのである。これは例えで言うと、人類の総人口が70億人であるとすると、半分の35億人が悪い事をして報いを受けるのに対し、また半分の35億人が悪い事をして報いを受けないという事になる。よって35億人-35億人=0であり、人類全体としては[倫理の均等理論]が働いて、互いの数が同数である事により、倫理的にはどちらにも偏っておらず、公正であるという事になる。よって私達は悪い事をして報いを受けない者が大勢いると感じるのは物事を部分的にしか見ていないからなのである。