高田義裕の人生論

今日の格言

我々はなぜ生きているか。それは私たちが生きているうちは分からないであろう。これは自己言及のパラドックスである。生きている事に依存しながら、生きているとは何かを考えても、それは無意味だからである。例えば、心とは何かを問う時、我々は心を使っている。それゆえに心とは何かを知る事はできない。よって何事もそれを知るためには、それを観察しなければならない。すなわち、ある事柄の性質を知りたい場合、その対象物からは独立して離れていなければならない。例えば、ライオンがライオンとは何かを問うても、ライオンにはそれは分からない。あくまでもライオンとは何かを問うためには、ライオンとは別の存在が、ライオンという存在から独立して離れている事により、初めて客観的にライオンを観察できるのである。そうである、人間にとって生きるとは何かという問いは、あまりにも主観的過ぎて客観的見方ではないのである。よって生きるとは何かを客観的に観察するためには、我々は生きる事から独立して離れていなければならない。それによって、初めて生きるとは何かを客観的に観察する事が出来る。では、我々は生きるという生命そのものだから、生きている事から独立して離れる事などできるだろうか。いや、それはできない。すなわち我々はなぜ生きているか、という問い自体が生きているという事の部分集合に過ぎない事に気づくのである。よって我々が生きるとは何かを知る場合は、まず、生きているという事を超越しなければならない。しかし、我々は生きる事自体から逃れる事はできないので、我々はなぜ生きているか、という事を知る事はできない。すなわち、我々は生きる事の奴隷なのである。しかし、人は自分がなぜ生きているかを模索し、考え、悩みぬいた末、自殺する事もある。では、死とは生きているという領域から独立して離れているのだろうか。いや、それは離れていない。すなわち、死は生きる事を超越してはいないし、独立して離れてもいない。なぜなら、我々は生きている存在だからこそ、死ぬという選択も可能なわけだし、この意味において、死は生きる事の反対ではなく、あくまでも、死は生きている事の部分集合(一部)なのである。よって、たとえ死んでも、我々は生きる事から逃れる事はできない。なぜなら死は生きる事の部分的要素だからである。よって人はたとえ死んでも、生きているのである。死さえも生きる事から別たれる事はできないのである。よって生きる事を超越する事は死ぬという事ではない。すなわち生きている事を超越する事は、生きる事でもなければ、死ぬ事でもないのである。よってもし、生きる事を超越できれば、我々はなぜ生きているかを、明確に知る事が出来るだろう。

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