高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論part2

人類は知的探求の長い歴史での苦闘の果てに、何もないことを表すゼロという概念を発見した。これにより、10進法が形作られ、計算の仕方が格段に進歩し、容易になり、我々人間の現代社会になくてはならない普遍的ツールとなった。がしかし、私は最近、ゼロの概念に非常に疑念を持つようになった。それは何もない状態を表すゼロの存在自体の実在性に疑いを持ったからだ。なぜなら、何もないことが、何もないことを成立させることはできないからである。例えば、何も入っていないコップはなぜ、何もないという状態を成立させるのか?それは多分にコップという入れ物、すなわち、容器が存在するからだ。もし、入れ物、すなわち、容器が存在しなければ、何もないという条件も成り立たないのである。ゼロも同じである。何もない空の状態ゼロは、それ自体でゼロを成り立たせているのではない。それは、ゼロを成立させるには、どうしてもゼロ以上の有限値である空っぽの瓶を想像せざるを得ないからである。要するに、ゼロはゼロ以上の有限値の存在で成り立っているのである。よって、ゼロ自身はゼロ自身を成立させることができない。すなわち、我々は普段、暗黙の了解の内に手軽にゼロの概念を使用しているが、実際にはゼロの概念そのものが自明な事柄ではなく、あくまでも証明を必要とするのである。よって、我々は、まだゼロが存在することの証明を知らないのだから、勝手にゼロを使う訳にはいかなくなったのである。これは、数学の計算全般における危機である。なぜなら、まだ証明されていない不確かなゼロという概念を我々は何の疑いもなく、計算に用いているからである。また、1=1も、我々は暗黙の了解の内に自明な事柄として受け入れているが、これもまた、証明を必要とする厄介な命題である。なぜなら、同じ1でも、1周目の1なのか、それとも、2周目の1なのか分からないからである。数学においては、推論する際、何周目の1であるかまでは区別したり、考慮せずに、すべての1は同じ1として扱うからである。これは例えれば、人間の人生を100メートルトラック競争に例えれば、ある時、二人の人が全く同じ位置であるA地点に並んで走っていたとしても、ある人は50周目のA地点であり、もう1人の人は、まだ2周目のA地点を走っているかもしれないからである。これは明らかに同じA地点でも意味が違うのである。であるから、同じ1であっても、中身までは同じではないということである。しかし、数学の推論において、すべての1は同じ1とみなすから、これも、思考における厳密性において、甚だ不完全であることが言えるのである。よって、数学は物事の真理に直接に関与しない。すなわち、あくまでも、仮定のもとに構成する、思考の相対的なツールの1つに過ぎないのであって、我々のこの現実世界を完全に模倣することはできないのである。

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