高田義裕の人生論

今日の格言

愛の定義 2

愛とはそれ自体、計画して行うものでは、決して無く、あくまでも、思いがけない状況に対して、とっさに判断して行う親切の事を言うのである。すなわち愛が形式化され、教理化され、形骸化されて行われる、イベント化、もしくは、行事化、として計画されている時点で、それは既に愛ではないのである。それは既に死んでしまった愛である。我々は常に生きた新鮮な愛を隣人に示す事によって、初めて神からその行為を是認されるのである。例えば、中国における、新型コロナウイルスが突然思いもかけず出現した時、1人の医師は瞬時に判断して、自分が国に逮捕される危険性をも顧みず、人民のために、すぐにウイルスが蔓延する危険性を告発し、インターネット上でその情報をいち早く報告した。これは計画された親切ではない。あくまでも、思いがけない状況に対して、隣人に対する愛から、とっさに判断して彼は行動し、まさに生きた真の親切(愛)を示したのである。彼は必ず神によって復活させられ、良い報いを得るのである。それに対し、毎年、恒例で行われる、計画されたチャリティイベントや慈善事業や社会福祉や救済のための募金などは、最初は良い動機でなされていたものが、それが継続して行われていくうち、徐々にマンネリズム化して、もはや当初の新鮮な愛は片隅に追いやられ、ただ外見だけを繕ったイベントや祭りや祭礼や行事として宗教化、もしくは形だけの形式化(教理化)となってしまうと、そこにはただ無機質で事務的な義務的価値観による、うわべだけの親切になってしまうのである。それはもはや親切とは呼べるものではなく、逆に人々の負担でしかなくなってしまう。よって我々は常に予期せぬ時に判断を迫られた場合、果たして自分を犠牲にして隣人に愛(親切)を示せるかを自問自答しよう。そのような愛(親切)こそ、神によって愛され、是認され、神によって良い報いを与えられる、あなた自身をいざという時に守ってくれる保護となるのである。

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