高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

はっきりと言っておく。御子イエスキリストに関する事柄をあくまでも聖書から調べようとせず、そこから独立して自分独自の解釈を提唱して、自分自身の身の潔白を維持しようとしている者達は、無知であるがゆえに不義を行っている者達よりも災いであると言える。なぜならその者達は正しい神の崇拝の仕方を知っているにもかかわらず、あえてそれに対抗して自分独自の義を追い求めているからである。人間にとっての義とは、あくまでも、神に対する従順にかかっており、神から独立した人間の義など存在し得ないからである。最初の人間アダムとエバも自分達にとっての正しさとは、自分達の創造主であるエホバ神に対して従順であるべき事を十分認識していたにもかかわらず、あえて、意図的にそれに対抗して、自分達独自の正しさを追い求めて自分が神の様になる事を望んだからである。それこそが、聖書の言う罪であり、罪の報いは死なのである。であるから、私達人間は皆いずれは死ぬのであり、御子イエスキリストと神に対する正確な知識、すなわち、聖書から聖書を紐解く真の正しい知識を取り入れる事が私達にとっての永遠の命を意味しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正当な事柄には、ちゃんとした責任もあるから、初めがあれば必ず終わりも規定しているものである。よって、終わりが無くて無秩序に広がりを示唆するものは既に不当な事柄である。例えば、これに投資すれば必ず儲かりますよ、という宣伝は、最終的にはどれくらい儲かるのか、もしその儲かる金額を下回ったら、投資したお金の何%をお戻ししますなどと言った規定が無いものであり、最後の規定が曖昧なものであったとしたら、それは既に詐欺である。決してそのような話には乗ってはいけないのである。すなわち、[投資すればするほど儲かります]、などという責任の所在が無い、終わりを規定していない話はすべて不当であり、それは嘘なのである。

2.万物はすべて継続する事でその価値を保っている。なぜなら、お金はすべて流し続けなければ意味が無いし、すべての機械は動き続けなければ価値が無いし、生き物はすべて生き続けなければ生きていないからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間には異性にモテる人とモテない人がいる。その違いは何か。それは見た目の容姿の良さでもなければ、お金を持っているとか、持っていないとかの差でも無い。そう、それは心の美しさである。自分はモテないと思っている人は見た目の容姿の良さばかりを気にしており、自分の容姿の悪さを深刻に悩んでいる。しかし、たとえ、見た目の容姿が良い人でも何かの事で深刻に悩んでいるとしたら、やはりモテないのである。なぜなら、その欲求不満がその人の顔の表情全体を暗くし、そこからマイナスオーラが醸し出され、他の人に近づきにくい印象を与えるからである。欲求不満をどんどん肥大させていくと、いわゆる性格の悪い人になってしまうのである。よって、心の状態は容姿の良い人でも、そうでもない人でも等しく自分の努力次第で変える事が出来る。そう、努力して性格の良い人に成れば良いのである。モテるという事は外見に左右されるのでは決して無く、あくまでも心の良さで決まるのである。たとえ、どうひいき目に見ても美男美女では無い人でも、心が美しければ、その心の清潔さがその人の顔の表情全体を明るくし、そこから人を惹きつける魅力が醸し出され、他の人に近づきやすい、親しみやすい印象を与えるからである。そうである、モテる事の本質とは、いかに多くの人から親しみやすさを持たれるかに懸かっており、モテるとは好感度の高い人の事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人はよく成功した人の話を聞いて自分にもそれを当てはめようとする。しかし実際はそれはほとんど役に立たない。なぜなら成功した本人がなぜ成功したか分からないからである。成功と言っても、彼らは自分のしたい事で成功した訳でも無ければ、自分の理想通りの成功をした訳でも無いからである。ほとんどの人は自分の予想外の分野で成功しているからである。例えば、俳優になる夢を目指して努力し、俳優になっても俳優としては成功せず、たまたまコメディの番組に出演したら、それが物凄く人から受けて、コメディアンとして成功したという場合があるからである。また、世界一のお金持ちになろうと夢見て、努力したが、それは叶わず、大統領に立候補したら、みごとそれに当選し、政治家として成功した場合があるからである。要するに、成功する理由は甚だ個人の特殊的事情の故に成功するのであって、成功するための、誰にでも適用できるマニュアル的な普遍性の事情は無いのである。それよりも、人は、何かの事を目指していて努力したが、それが叶わず失敗した人達の事例を参考として当てはめた方が良い。なぜなら成功する理由よりも、失敗した原因というものははっきり分かるからである。失敗した事情は誰にでも適用できるマニュアル的な普遍性を持っているからである。すなわち成功したければ、失敗した人の逆の事柄を行えば良いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は進歩していくという観点から見れば、今後ますます進歩していくだろう。そう遠くない将来には、我々は何もしなくてもすべて機械(AI)か、アンドロイドが全部代わりにやってくれる様な世界が到来するかもしれない。しかし人間は倫理という観点から見れば、何もしなくても全部代わりに誰かがしてくるという状況は非常に由々しき状況である。なぜなら倫理の法則には(等価交換)という価値観があって、それは何事も働いた分だけしか得る事は出来ないという原則が働いているからである。すなわち、そんな怠け者の世界が許されるほど世の中は甘く無いよ、というわけだ。これはどう考えれば良いだろう。しかしここで我々は(進歩する)ということ自体が倫理的な原則である事に気付く。すなわち、人間は同じ事をやっていても、そのうちマンネリ化し、衰退していくという、これも倫理的価値観の中の熱力学第3の法則である、(すべてのものは放っておくといずれは必ず朽ち果てる)という原則に基づいている。そう、最低限の現状維持を保つ為には、人間は常に新しいものを目指して努力していかなければならないのであり、その為に進歩する必要があるのである。こう考えると、どんなに世の中が進歩しても、倫理的観点から結論するならば、何もしなくても全部代わりに誰かがやってくれるなどという世界は到来しそうに無いのである。もし仮に人間がその様な理想郷を形づくったとしても、その代わりにまた自然は新たな問題を生じさせるであろうという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんなに素晴らしく思われる事でも、理想は理想で終結し、夢は夢で終結し、幻想は幻想で終わるのである。私達はいつでも、私達にとっての現実を現実によって捉えなければならないのである。

2.ある人々の成功している栄光ある姿を見て、これが現実だ、と思う者は、本質の核心部分では無い、表面的な外面だけのカゲロウの様な影だけを見て、これが実体だ、と勘違いしている者達なのである。すべて、他の人の事は良く見える部分だけを見て、本当の苦しい実体を見ていないのである。隣の芝生は自分の家の芝生より青く見えるものなのである。

3.ある事柄を曖昧さを避ける為に、はっきりと決定する事は正しい事柄であるけれども、決定した事によって正当な自由が侵害される場合、その決定は間違いであると言える。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰とて自分が甘えても甘やかしてくれる優しい異性と付き合いたいと思うだろう。そういう人当たりのいい人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最高の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの優しい態度をガラリと変え、それに全く関わり合いたく無い故に、急に冷たい態度になり、あなたを捨てるだろう。優しい人は優しいだけで、問題解決能力に乏しく、面倒な事には一切関わり合いたく無い、薄情なタイプの人間だからである。また、誰とて自分に対して厳しくて、気難しい異性と付き合いたくないと思うだろう。そういう見た目は悪そうな人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最悪の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの気難しい態度をガラリと変え、あなたの事を親身になって考え、助けてくれるだろう。気難しい人は普段は気難しい代わりに、問題解決能力があり、面倒な事でもあえて間に入ってくれて、人情味のある頼もしいタイプの人間なのである。要するに、すべてが揃っている万能な人間などこの世の中に1人もいないという事である。すなわち、すべてには一長一短があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある身体障害者がいた。彼はパラリンピックで、右足の膝から下の部分が無いのに、100メーター競争で世界新記録を叩き出した。悪魔はそれを見て神に言った。彼を見て下さい。彼は片足が無いのにあれだけの運動能力を出せるのです。もし、五体満足であれば、いかほどのものとなれるでしょう。そこで、神は奇蹟的に彼を癒やして右足を元通りにさせた。そうして神は彼がそれ以上の能力を出せるのか見守った。ところが、彼は自分が五体満足になったとたん、自分の名声と地位を利用して淫行の限りを尽くし始め、暴飲暴食し、以前の引き締まった筋肉質の体とは程遠い、みるみるのうちに脂肪の付いた肥満体になってしまった。そうである。人間は恵まれ過ぎていては堕落してしまうのである。人間は自分に何かが足りない時、むしろ能力を発揮し、すべてが揃っている時以上の働きをするのである。すなわち、ハングリー精神が人を向上させるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

題名    わずかしか貰わない者が最後には、多く貰う事になる。

[解説]

現実社会において、多く稼いでいる者と少なく稼いでいる者がいる。それでは、全人生という長いスパンで考えて、生涯でどちらの方が多く稼ぐだろうか。もちろん多く稼いでいる方に決まっている、とあなたは言うであろう。ところが実はそうでは無い。例えば、ある人は年収が1000万あるとしよう。そしてもう1人の人は年収が180万あるとしよう。ひと月に換算すると、多い人は月83万も貰っている。それに対し、少ない人は月15万しか貰っていない。この状態は長く続くと思われていた。しかし、現実はそう甘くは無かった。リーマンショック並みの不景気が突然起きたのである。多く貰っている人も、少なく貰っている人も共に職を失った。年収1000万あった人は、毎月の生活費が収入に応じて高かったため、一気に生活レベルを下げなければならなくなった。それだけならまだ良いが、月83万の収入の内、70万以上の支出があったため、収入がマイナスに転じた。それで彼は借金を背負わなければならなくなり、コツコツ貯めておいた貯金を取り崩すほか無くなった。そして少しの間は持ちこたえたが、貯金もわずかになり、彼は再就職の道を進まざるを得なかった。必死に仕事を探してもなかなか見つからず、ようやく仕事を見つけたが、その収入は月でわずか15万円であった。彼はその金額では、毎日食べていくのが精一杯で、貯金する余裕も無かった。それに対し、年収180万円の人は、職は失ったけれども、毎月15万の生活費の中から5万円ずつコツコツと貯金していたので、暮らしは以前ほど変わらず、そんなに苦しくは無かった。それに、毎月15万円くらいの給料の仕事なら、探せばいくらでもあったし、借金も無かったので、余裕を持って良い条件の仕事口を探す事が出来た。新しい職場は、なんと月に22万円の収入があった。昔より7万円もアップしたのだ。そうして彼はその7万円を毎月5万円ずつ貯金していた通帳に加えて、合計12万円も貯金出来るようになった。どうであろう。日頃多く稼いでいる人は、日々の生活も贅沢にしがちであり、突然の災難の時には一気に転げ落ちてしまうのである。しかし、日頃多く稼いでいない人は、日常の生活も切り詰めて質素に暮らしているから、突然災難に遭っても、普段の生活にそんなに大きい変化も受けずに安定しているのである。すなわち、多く稼ぐ者はまた、いざという時には、多くを失うのであり、その損失もまた大きい。しかし、わずかしか稼がない者は、いざという時にはわずかしか失わないのであり、その損失もまた小さいのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

親ある子にとって、子の都合の悪い時だけが親でなくて、子の都合の良い時だけが親であるとは決して考え無いように、神エホバの子である私達人間も、自分達の都合の良い時だけに神エホバに従い、自分達の都合の悪い時には神エホバに従わないというわけには決していかないのである。

2.神エホバの御言葉とは、常に選択できる余地があるという事に着目すると、神の言葉とは[人はどのように生きなければならないのか]という事柄に対して述べられているのでは決して無く、[人はどう生きれば幸せになれるか]という視点で述べられているのであって、強制では無いという事である。しかし、結果的に神の言葉通りに生きなければ、人は不幸になるので、神の言葉は、人の生き方そのものに直結しているという事なのである。

3.日々、できればすべての人々の前に自分の最善を供えなさい。しかし、神エホバの前には常に自分の最善を供えなさい。

4.御子イエスキリストは、[お互いに与え合い、お互いに忍び合い、お互いに愛し合いなさい]と言われたのである。よって一方の人が他方に与えるままであったり、他方が一方から与えられるままであったり、一方が他方に対して忍ぶままであったり、他方が一方から忍ばれるままであったり、一方が他方を愛するままであったり、他方が一方から愛されるままであったりしてはいけないのである。