高田義裕の人生論

今日の箴言

商売するときでさえも、常にライバルとの共存共栄の気持ちでやって行かなければ、どちらとも立ち行かないのである。

2.神はあえて人を天使達(霊者)よりも低く、より愚かなものとしてお造りになった。なぜなら、人は肉であり、その部分部分に話すことや聞くこと、そして見ることなどをつかさどる器官をそれぞれに与えられたからである。本来もし、完全で賢いものであれば、その様なものはその最初から無駄であり、必要性の無いものだからである。

3.人生に王道なし。

4.単なる文字通りのマスターベーションだけで無く、常に自分に都合の良い考え方や行いすべてが、マスターベーション(貪欲)なのである。

5.各々の人間の考え方、捉え方、感じ方にそんなにも大差は無いのである。だから、人間間にいつも争いは絶えないのである。みんな同じ物を欲し、同じ考え方をし、同じ感じ方をしているから欲しいものも同じなのであり、欲しいものの数には限りがあるから、我先にそれを得ようとして、争奪戦になるのである。もし、各々人間の考え方、捉え方、感じ方が全く異なっているなら、人間間に争いなど決して起こらないからである。なぜなら人によって欲しいものが全く異なるのだから、競争する余地が無いからである。競争の無い所に、争いは無いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは人の人生の勝利者はどのような人の事を言うのか考えた事があるか。多くの現代人は、有名な大学を卒業して、有名な大企業に就職する事が人生としての勝利者、もしくは成功者だと思っている。そして、誰もが、やりたがらない、きつくて、危険と隣り合わせの、汚い仕事をする事は惨めな人間のする事だと思っている。果たしてそうだろうか。あなたは野生の鳥と飼育小屋で大事に育てられたペット用の鳥と比べて、どちらの方が最終的に生き延びられるか考えてみるがよい。野生の鳥は夏は厳しい暑さに耐え、冬は厳しい寒さに耐え、たくましく生きている。それに対してカゴの中の鳥はどうか。彼らは空調設備の整えられた快適な環境で育ち、餌を毎日与えられて恵まれた環境で生きている。しかし、ひとたび、外の厳しい世界に突然追いやられたらどうなるか。彼らは余りの厳しさに耐えられず、すぐに死んでしまうであろう。人間も同様である。生まれながらにして裕福な家に育ち、何の苦労も無く、ぬくぬくと生きて来た金持ちの息子や娘が、突然、状況が一変して、世間という厳しい外の世界に放り込まれたらどうなるか。彼らは余りの厳しさに耐えられず、すぐに死んでしまうか、精神に異常をきたして廃人となってしまうであろう。それに対して、貧しくて生活するのに大変厳しい家庭で育って来た息子や娘はどうか。彼らは生まれながらにして厳しい試練にさらされて生きて来た為、いざ世間という厳しい外の世界に飛び出しても、何の苦も無く、たくましく生きていけるであろう。人間はともすれば楽な方、楽な方に行こうとする。すなわち、安楽で居心地のいい生活をする事を夢見る。すなわち、カゴの中の鳥になりたいと思っているのだ。野生の鳥の様に厳しい世界で生きる事を嫌うのだ。しかし、最後に生き残るのは、野生の鳥の方であり、貧しい家庭で生きて来た恵まれ無い子供達の方なのだ。要するに、人は苦しい事や辛い事や厳しさから逃げてはいけないのである。むしろ、苦しい事や辛い事や厳しさを追い求めて、自身の身を投じ無ければならないのである。その様に行動した者だけが、初めて、世間という荒波をくぐっていける人生の勝利者であり、成功者と成れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて綺麗すぎる事には、それに比例して恐るべき裏があるのである。

2.商売のコツは、儲けようと思わない事である。

3.リーダーとして振る舞うのでは無く、実質的に自然にリーダーになっている事が最も望ましいのである。

4.何事においても、少しでも誇る理由のある段階(レベル)では、最低限為すべき事さえもまだ、行っていない状態なのである。

5.人は皆、自分の知らない所で他の人に迷惑をかけているものなのである。

6.常に現実を直視する事が、カルトにはならない方法なのである。そして誠の神エホバに従う事が、常に現実を見て、それに対して実際的な仕方で対処して行く事と同一なのである。

7.ただ物知りである事が良いのでは決して無く、知るべき事と知らないでおくべき事とのバランスをどう保つかだけが大事なのであって、そのバランスの絶妙さが初めて良いのである。また、正しい事をどれだけ知っているかが良いのでは決して無く、すべての正しさを、そのただ一つの絶妙な配置によって、全体のバランスがとれている事が初めて良いと言えるのである。いかんせん、私達の考えや行動の全体は、すべてにおいて部分的であり、相対的であり、レベルの低いものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

宗教は精神的なアヘン(麻薬)であり、その中でもカルト(自閉的盲信性)宗団が、その特質を引き出すものである。この世の中に、命ほど大切なものなど無いにもかかわらず、また、この世の中に、何ものをも犠牲にしてでも守るべき絶対的なものなど無いにもかかわらず、ある一つの事を絶対的なものであると思い込み、命や、あらゆるすべてのものを犠牲にしてでも、その考えや信条などを守ろうとする様になってしまった人の心の状態を[洗脳を完了した]と言う。マインドコントロールの典型的な性質は、まず第一に、それを信じている人間がもし、その信じている内容が、全くの誤りである事が判明した時に、もはや自殺するしかないと思うしか無かったとしたら、それはその対象物が、その人に対して[カルト的に作用した]と言う。もはや、その様な時は、その内容に関係無く、その人にとって、その対象が無ければ、一時も自分を支えられない様な、奴隷的、強制的で、不自然な心の麻薬として完全に捕らえられてしまっているという事である。ここにまで病状が進んでしまった場合、本人を元に戻すのは容易な事では無い。(中毒状態)。ここがカルト宗団の恐るべきところであり、常にそれは、外面では無く、見えない内面に、最初は全く害の無いように入り込み、徐々に本人の無自覚なままに、じわじわと効いてくるボディブローの様にその心に染み込んで行き、遂には人格の破壊をもたらすものである。ここで注意すべき事は、見た目にはカルトは決して無害なもので、有害なものでは無く、むしろ非常に論理正しく、誰にでも容易に理解できる、人を惹きつける力があるという事である。その精神的快感の内容を述べると、まず、自分達は一番の唯一正しい事を行っているという優越感に浸っており、この歪んだエリート思考が、中毒になるまで止められないほどに、心に快感を感じてしまっているのである。よって、彼らの悦びや義は、すべてよこしまであり、非常に部分的で、一般人には通用しない、非常に小さな世界感であり、全体から見れば、はっきりと分かるくらい偏っているはずである。ただ、もし、その信じている対象が誤りであると判明した場合、その本人が本当にすんなりとそれを止められたと、自分自身を客観的に判断出来る様になった時、もはやその対象はその人に対して[カルト的に作用していない]という事である。その時初めて、本人は精神的中毒状態から解脱したという事になる。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達人にとっての緊急課題とは、大いなる勘違い(思い込み)を出来るだけ多く気付く事である。すなわち、誰も、魂も抜かれる程に熱狂的になっている対象など無いし、皆誰も、とりあえずそれを行っているというのが気持ちの真実な所であり、ある意味、冷めた目線で対象物を見ている、という精神状態が正常でまともな人間の心理的状態なのである。すなわち、妄信的、熱狂的な麻薬性の精神は決して持つべきでは無いのである。よって、あなたが何かの事で、熱狂し、夢中になっているとしたら、それはすぐにその対象物を捨てるべきなのであり、あなたは今危険な状態にある事になる。

高田義裕の人生論

今日の箴言

結局、すべての事は、その各々の心の状態がどうであるかによって決定され得るのであって、その各々の外見の良さや悪さによって決まるのでは決して無いのである。

2.人は、それぞれ互いの立場を尊重し合い、気遣い合い、大事にし合う事をしていかねばならないのである。

3.たとえ、それが正しい事であったとしても、急にそれに変化させる事は、害悪を生み出すのである。すなわち、車は急に止まれない様に、この世の中はなおさらの事、急に変われないのである。

4.後は何も要らないから、ただ一つ必ず行わなければならない事で、かつ、ただ一つ持っているべき事は、他の人の立場を全く尊重した、自分自身に対する様に相手に対して気遣う全く無私の愛の気持ちなのである。それも、相手から自分に愛を示されるのを待つのでは無く、まず、自分自身の方から積極的に声掛けをして、相手の方に近付いて行く行動力が必要なのである。

5.人間にとって、仲間がいない、誰からも相手にされなくなるという事は、死よりも悲惨な事なのである。

6.人は皆、人生に関して、得る事では無く、失う事だけを想定した対処をしていけば良いのである。なぜなら得ようとすると、必ず失望が来るからであり、捨てようとすると、希望が付いてくるのである。

7.それを守り通して、角が立ち、周りに弊害を与える程にまで正しいと思われる事を固辞する必要は無いのであり、すなわち、周りに迷惑をかけてまで守り通す程の正しいものなど、この世の中には初めから存在しないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、妥協すべき事と妥協すべきで無い事柄をきちんとわきまえ知る事が必要なのである。

2.たとえそれが、正しかろうが、正しく無かろうが、その内容に一切関係無く、その人の心や行動や人格に偏りが見られる事自体が問題なのであり、それが悪なのである。

3.何事もすべての事に対して、真面目過ぎて、深刻に考え過ぎてはならないのである。

4.知識とは、人の知らない事を知る為のものでは決して無く、むしろ、人と互いに共有する事を深める為のものなのである。

5.常に思いに留めておくべき事は、世の中一般で起きている事柄すべてを、自分が何か評論家の様になり、ひとまとめで一般論で判断したりしてはならないという事である。世の中は一般論で説明出来る程、単純で甘いものでは決して無いからである。要するに、一般論を聞いただけですべて分かったつもりにならない事である。はっきり言って、自分自身の身に生じている事柄以外の事は皆、自分の世界とは全くの別世界の出来事であると日々認識するべきである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の根源は何であるかと必死に模索している人は多いが、それは探さなくても既に私達は持っているのである。それは宇宙におけるビッグバンはどのようなものであったかを調べ、詳細に説明する事などでは決して無く、もっと私達の日常にとって、ごく身近な事であり、それは、互いが互いを自分自身の様に愛するという事なのである。これこそがすべての根源であり、すべてが始まる為の力そのものなのである。何故なら、あなたの存在の根源はどこから来たのか。それはあなたの母ではないか。要するに、あなたの生まれた根源はあなたにとって、日常的で身近にいる、親しい関係の母であり、父なのである。しかし、科学者達は万物の根源とは何か、といかにもそれらしく仰々しい、遥かに過去で起きたビッグバンなるものを詳しく調べている。これはあなたに関して言えば、あなたの母の母のそのまた母のずっと昔の母の系図を辿っていく様なものであり、そんな存在はあなたにとってほとんど関係の無いどうでもいい意味の無い事なのである。それらはもうあなたにとっては赤の他人であり、あなたの存在を誕生させた根源であるとは言い難いのである。要するに、人間にとって今この瞬間だけが大事なのであり、すべてなのである。遠い過去や、遠い未来など我々にとってほとんど意味を成さ無いのである。よって、今この瞬間を必死に生きなさい。そして、今出会っている他の人達を心から熱烈に愛しなさい。あなたの人生とは今なのであり、間違ってもビッグバンでは無いからである。いや言い換えれば、あなたにとって今という時間がビッグバンなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に必要不可欠で、大事な事柄には議論などその初めから全く必要無いのであり、常に激しい議論や争いは、些細な事柄に関して付随しているものなのである。

2.神からの音信の意味とは、決して他の人よりも裕福になるとか、珍しい事をやり遂げる人間になるとか、または、聖人の様に、人の模範的人物になる事を意味しているのでは決して無く、人間として誰もが当然持っている、当たり前の事柄を当たり前に行える人間にならなければなら無いと言っているのである。よって、神の主張には、私達人間に対して何の無理難題であり、特別な過度の要求などされてい無いという事である。

3.宿命として、常に革命が、たとえそれがどんなに正しいものであろうとも、決して避けて通る事が出来無い事は、その革命を実現させる上で必ず、相対する既存の既成事実との摩擦であり、衝突なのである。すなわち、変革には必ず犠牲と争いとが付いて廻るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書に書かれているように、罪に対して直ちに処罰が執行されなかった為、人は罪に凝り固まってしまったのであり、これは、麻薬中毒、アルコール依存性や、タバコ癖などと同様に、人は罪を行わずには生きていかれない程にまで、末期的症状になってしまっているという事である。終わりの日の現在、神に逆らう人間の諸体制が全地を覆い尽くしており、すべてが誠の神に敵して配置され、身も心も罪の上に築き上げられて成り立ってしまっている為、この様な時期に、誠の神の御意志を守り通す事は、人智を超えた神が助けて下さらない限り、人の努力だけでは決して不可能なものなのである。結局は、すべての事を成し遂げ、あらゆる事柄を裁かれるのは、神エホバのみであって、これはたとえ、救われる側にしてもかつ、救われない側にしても、皆それはエホバ神のものであるという事である。何故なら、神はすべてのものに対してすべてであられるからである。