高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバなる唯一無二の全能者であり、自分達の造り主であり、すべてのものの創造者である、真の天に住んでおられる父なる方から、人間は自ら離れ、神との直接の会話やその関係の親密さとコミュニケーションを失ってしまった。今日の海の波の様に、無秩序なさまに、ただ、あてもなくさざめく不穏な全人類のすべての営みによる多大な貴重な命と血の犠牲によって、かろうじて立っている諸体制や諸体型、いや人類そのものにとって、誠の神の代わりとして機能している権威あるもの、例えば、大多数の総意や、政府機関などのものが、突然、跡形も無く、それまでようやくコツコツと築き上げてきた歴史ある、すべての人間が、頼みの綱としてきた富と貴重な財産が一瞬にして崩れ去り、取るに足らないものとされる、神に拠る最後の審判の日に、人類が経験する狼狽ぶりは無理からぬものがあり、深く同情せずには居られない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私も含めて、大半の人は、お金が無いから、お金を使えないので、自分の体と頭を使える時に、使えるだけ、使えるうちに適度な仕方で使うべきである。なぜなら、自分の体と頭を使う事に関しては、誰からも何も言われないし、それだけは、自分の自由であり、また、ただであるからである。

2.この世の中の、神を知らない人々の努力と労苦には、全く感心させられる。しかし、ただ1つ言える事は、その、せっかくの労力の向ける方向が適正かどうかについては全く別問題なのである。すべてこの世の中の有様とは、その本質を述べると、およそこの世の中に、固定された唯一の権威などと言うものは存在し得ないのであり、すべて、互いの立場に優劣というものは無く、言い換えて言うなら、すべての要素は権威たるものなのである。よって、ここで問題になって来るのは、すべて、使用する為の材料とも言うべき事柄は既に用意されているのであり、用は、その用い方いかんによって決まるという事である。すなわち、悪とは、何か固定された、それだけで悪という性質を持った純粋な要素が存在する事を意味しているのでは決して無く、悪とは、ある対象に対して、ある正しい用い方をするべきであったのにもかかわらず、それに対して間違った仕方、すなわち、不適正な仕方で用いてしまった場合にのみ、互いに生じる弊害の事を意味するのである。よって、この世の中のあらゆる人間の行っている、どんな誠実な努力も、それが、不適正な方向だけに偏って成されているという現状において、この世の中の諸体制は、非常に無駄の多く、アドバンテージの低い、悲惨で、機能効率度がゼロに近い末期的状態であるという事である。ただ1つ大事な事である事は、罪を悔い改めた人々や、神の名によって義を実践している人間達の事では決して無く、それらの者達を救い、成長させてくださる神エホバだけであるということ、すなわち、これだけを常に思いの中に控えて置かなければならないのが本来の人間の本分なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

10万円稼いだままで、そのままお金を取っておくよりも、その10万円で1つの情報を買え。それを元手に20万円にする為である。今の世の中は、既に腕力の権威は失われたのであり、情報を誰よりも先に知っている事が勝利の切り札であり、権威であり、力なのである。今日、情報化時代と言われて久しいが、これは単に、知識や情報を溜め込み、詰め込む収集家の意味では無い。そんな事は人工知能の方が人間より遥かに上手であるのである。そうでは無く、ある情報が必要になった時、その情報をいち早く利潤に変えられる、常に新鮮で、タイムリーな、無駄の無い創造的活動の事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近になってようやく分かって来た事で、あらゆる人々が、また私も含め、人がごく当然の権利だと思っていた事柄で、決して当然な事では無いというルールとは、人同士が会話する事に関して、相手に対して質問をしても、それは当然の権利であり、要求であると思って、相手から当然返答が来るなどと決して思ってはいけないのである。むしろ、人間の初歩的権利とは、質問に答えないというところにあるのである。よって、私もあなた方も、自分の質問に相手が答えてくれないからと言って、決して相手に不満や怒りを感じてはならないのである。あくまでも、質問された側は、その質問に答える義務は無いのである。これこそ、人間の自由の権利なのである。よって、あなたが相手に質問する時は必ず、自分の側がその質問をする事が出来る立場にあるかを考えてみる事である。もしかすると、あなたには、その質問をする資格が無いかもしれないからである。よって、相手に不適切な質問をした場合、あなたは、相手の権利を、笑顔に拠る暴力によって、侵害した事になる。よって、質問する時は、まず、その質問が当然成立出来る様な状況に前もって自らを設定し、準備するべきなのであり、また、そう出来るレベルにまであなたの立場がなっていないとすれば、質問の内容をこちらが、相手の気持ちを計らって、相手が答え易い質問をすべきなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間とは、実際には生きる事に関して、漠然と生きていければそれに越した事は無いのである。しかし、現実はそう、たやすくはその様に出来てはいないから、わざわざ、ある目標を掲げるというスタイルを取るのである。そうすれば、生きて行く事に関して、不器用な者でも、何とか生きる方向付けを見つける事が出来るからである。

2.人間の為すべき事とは、まず第一に、お互いがお互いに愛し合って行く事を、自分の能力に応じて、自分らしさによって、実践して行く事である。そして、第二に、何事も、誰からも愛想を尽かされた誰にも同情されない、愛されていない者達を愛すること、すなわち、彼らに対して溢れるほどの愛情を与えるべき事なのである。それこそ神の道である。神を信じる者、神を愛する者達はこの事を考慮に入れておくべきである。なぜなら、すべての人を生かしているのは神であり、神は義なる者にも邪悪な者にも御自身の太陽を昇らせ、親切にしてあげても感謝しない者達に対しても最後まで愛を示しておられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近ようやく分かってきた事であるが、人は良い事を行うこと、良い心になること、立派になること、すなわち、聖人の様になることが人生の心構えでは無く、目的でも無い事である。その様な事は、二の次にやって行けば良い事であり、最も大切な事は、あくまで、ありのままの自分を見せられる様に努力して行けば良いという事である。人は日々、自分の本当の姿を偽って、無理をして自分を人に良く見せようとするのでは無いだろうか。そんな必要性は全く無い。人間は嫌われる必要も無いが、好かれる必要も無いのである。裏表のある人格を捨てよ。あなたが他の人達といる時の自分と、自分1人でいる時の自分とを一致させよ。ありのままの自分を人に見せられる様に努力せよ。要するに、もっと気楽に考え、人間関係を堅苦しく、深刻に考える必要は決して無いのである。いつも人の機嫌を伺って、その場の空気を読む事などしていると、精神的に参ってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨今、人間は昔からそんなに変化していないのに、現在、ストレス社会が社会問題として浮上して来たのは、実際、人間一人一人の心の状態が、自分の立場ばかりを重んじ、自己主張の強い利己主義的傾向になって行ったからである。この事によって、その様な傾向が比較的薄かった昔の人々は、現代人の多くがストレスと考えるものをストレスとは見なさず、また感じなかったのである。よって、ストレスの原因はほとんどが、そのストレスを感じている人間達自身が、無意識に創り出してしまっているというのが真実のところである。よって、彼らは余りにも自分の立場を意識し過ぎている、すなわち、損得を考え過ぎているのである。これは、生産性の向上とコスト削減を重視する現代社会の現代病の1つであろう。よって、あまり自分の立場を意識しない様にし、自分の都合よりも、まず他の人の立場を優先して気遣うという利他的精神を培うよう努力するならば、ずいぶんとストレスが軽減され、肩の凝らない、堅苦しくない、楽な人間関係が築き上がって行くと思われる。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どうしてそんな信じられない事が起こるのか、と言っている者達に対して言える事は、たとえ、あなたの感想がどのようなものであろうと、その様な事柄が現実に生じているのであり、何事も現実に勝るものなど無いのである。よって死んでしまった偉人より、今生きているあなたの方が勝っているのである。

2.あらゆる罪深い事を許すという意味とは、決して生半可な簡単な事では決して無く、それは、途方もなく複雑さと能力と力とを要求される行為であり、それは、無限にある愚かさに対して、それをあえて許容できる為のその愚かさよりも、更に勝った公正さをいちいち用意し、1つ1つの愚かさに対して1つ1つの公正さを与えてあるのであり、すべてのわがままを全部自分が手間を取ってやる事によって許している状況と全く似ているのである。要するに、事故によって壊れた自動車をまた作り直してやる事なのであり、罪を許すという事は、そこら中で破壊行為が成されている事に対して、すべてそれらを元の原型に戻して直している行為に等しいのである。これほどの手間とエネルギーを必要とする大変な事は人間技では出来ないのであり、神御自身がすべて1人でそれを行っておられるのである。また言い換えれば、あらゆる問題に対して、その問題を頭ごしに否定せずに、それらすべての問題に対して明解な解答を用意してあるという事でもあるのである。要するに、あらゆる人々の借金を神が肩代わりしてくれているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が生活して行く全般において、また、人々と話しをする事において、自分はそんなレベルの低い話はつまらないとか、自分の関心のある事しか反応せず、興味を示さないとするならば、その人は、その人にとっての真の人間関係の豊かさを自ら得損なっているのである。本来、人間にとって一番大切で、まず最初に優先して行って行くべき事は、相手の話しをよく聞いてあげる事であり、すなわち、お互いがお互いに積極的に関心を示し合う事だからである。この最も些細で、当たり前の事である、最もレベルの低い次元での自己犠牲的精神を示さなければ、人はいずれ、生きて行け無くなるのであり、人生を幸福に豊かに過ごす為に必要な条件は、利他的愛であり、他の人に対する心からの親切心なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神についての考察

私は神を信じているのだが、最近分かった事がある。神という存在自体が人間間に争いを生み出すという事である。まず、誰かが、真の神はお一人であり、それ以外の神は信じてはならない、と言ったとしよう。すると、それを言った途端に、人間の間に、その神を信じる人達とその神を信じ無い人達とに分裂してしまうという事である。当然そこで、意見の食い違いが起きて、人々は争いを始めるのである。なぜなら、もしこの世の中に神はいないとしたら、神を信じる者達と信じない者達という立場の分裂は起きるはずが無いからである。そこには、むしろ、何の差別も無い、すべての考え方を良しとする平和が到来するはずである。すなわち、神を信じる事自体が争いの元であるという事である。これでは、余程、無神論者の方が平和主義者であると言えるであろう。この世の中において、無数の宗教があるが、特に、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教について見てみると、ユダヤ教でも、イスラム教でも、キリスト教でも、最初は全く同じ神から出発しているのに、今では、スンニ派、シーア派、イスラム原理主義者、キリスト教においては、カソリック、プロテスタント、統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他、多くの分裂分派に枝分かれしている。そうして、互いに自分達こそ、真の神を信じていると主張し、その考え方や教理の違いで言い争いが生じ、宗教間戦争が起きている。これは何故起こるのか。それは、当の本人の神自身が我々人間には見えないからである。神を信じ無い人達はこう言う。神が存在するなら、あなた方は神を見た事があるのかと。いや、人類誕生以来、誰も神を見た者はいない。また、無神論者はこう言う。神があなたを窮地から救ってくれるのなら、神が実際、天から降りて来て、あなたの体をその両腕で抱え上げてくれたのかと。いや、誰も神が人間を助けた所を見た者はいない。すなわち、神という存在には、これと言った実態が無いのである。もし神がハッキリと人間の目に見えたのなら、すべての人に神は見えるのだから、神に関しての意見の相違など起きるはずが無いのである。要するに、神を見た者が誰もいないから、神について、様々な臆測や見解や解釈が生じるのである。いや、臆測や見解や解釈などでは収まらず、人間の誰かが、自分こそ神である、と言い始めて、歴史上、時の権力者と成り、人々を支配して来た時代が続いて来たし、現在も続いているのである。私はこれは、もうしょうがない事だと思っている。何故なら、聖書の聖句にこう書かれているからである。新約聖書において、イエスキリスト御自身がこう言っている。マタイ書10章34節から35節に、[私(イエス)が地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和では無く、剣を投ずるために来たのです。私は分裂を生じさせるため、男をその父に、娘をその母に、若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。]と。もはや、神御自身がそう述べておられるのであり、我々人間が口を挟める事では無いのである。しかし、私はそれでも言おう。イスラエルの神は、ただお一人の神であり、平和を愛する神であり、神が人間に見えないのは、争いが生じるためでは決して無く、むしろ、いかなる形にも置き換える事が出来ないほど、素晴らしい神であり、偶像崇拝を忌み嫌われる神なのであると。何故なら、これも聖書の聖句に神御自身がこう述べておられるからである。ヘブライ語(旧約)聖書の聖句、出エジプト記20章4節に、[あなたは自分のために下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。]と。すなわち、[神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、神の存在は、世界の創造以来明らかに見えるからであり、それ故に人間は言い訳が出来ません。] 新約聖書、パウロによるローマ人への手紙1章20節より。