高田義裕の人生論

今日の格言

善人と悪人のジレンマ

善人になればなるほど、悪人になりやすく、悪人であればあるほど、善人になりやすい。これはどういうことか。例えば、人が善人であるという評判が高ければ高いほど、正直に振る舞うことは難しくなり、悪人であるという評判が高ければ高いほど、正直に振る舞うことはたやすい。例を挙げよう。ある人は日頃から親切な人で知られ、悪から離れ、まじめであり、日々、清い生活を送っていた。それで人々からは称賛を受け、評判もすこぶる良く、絶大な信頼を得ていた。しかし、ある時、その人が常日頃、仕事をまじめに行っている故に、日頃の疲れが溜まり、つい、仕事上でミスを犯してしまった。幸い、誰もそれを見ていなかった。そして、本来なら、自分がミスを犯したことを自分の上司に正直に報告しなければならなかった。しかし彼は、日頃の自分が人々から称賛されている評判が傷つくことを恐れ、正直に上司に報告することをしなかった。しかし、ある日、上司がたまたま彼の作業場に来ると、そのミスに気付いた。それで、善人にそのことを問いただすと、彼はしぶしぶ自分のミスを認め、謝罪した。そして、そのことが多くの人に知られるようになり、そのことを知った人々は彼に対して幻滅し、多くの人の信頼を失った。さて、変わって、ある人は日頃から悪人であることで知られ、常日頃から不誠実で不真面目であり、日々、悪行を犯していたので、人々から忌み嫌われ、評判も悪かった。しかし、ある時、その人が不真面目に仕事を行っている故に、それが原因で怪我をした。それで、悪人はその怪我に懲りて、自分の悪行を悔い改めた。すると、そのことが多くの人に知られるようになり、人々は彼が悪行を悔い改めたことで非常に驚き、彼に対して称賛の声が多く挙がった。このように、善人はちょっとしたミスで悪人扱いされるし、このように、悪人はちょっとした善行で善人扱いされてしまうのである。すなわち、この意味で、善人は悪人になりやすく、悪人は善人になりやすいのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

まじめであることの息苦しさ

人間は罪を犯したい存在である。人間=罪を犯したい、と定義すれば、日頃、罪を犯す者は当たり前であり、日頃、罪を犯さない者は異常だということになる。すなわち、日頃、罪を犯さない人達は、皆、罪を犯したい欲望を我慢しているということが露呈される。これは、例えれば、溶岩を溜め込んだ火山の様であり、いつ大噴火、すなわち、重大な罪を犯しても不思議ではない状態である。人は禁止されればされるほど、それを破りたくなるのであり、してはいけないことをするほど、気分がスカッとし、ストレスが発散されるのである。人はまじめであることにストレスを感じる。まじめに振る舞うことに息苦しさを感じ、生き辛さを覚えるのである。よって、日頃、まじめ過ぎる人ほど、ある日、突然、大きな罪を犯す確率は高い。人がまじめさを保つのは、大変な労力を要するのであり、私達は他の人がまじめに振る舞うことを、日頃、当たり前に思っていないか?それは甚だ見当違いなことなのである。むしろ、他の人のまじめな振る舞いを、日頃から褒めるべきであり、場合によっては、報酬を与えるべきである。よって人は、日頃、まじめに振る舞うことによって生じるストレスを何かしらの形で発散させなければならない。なぜなら、それによって、人が常日頃、まじめな態度を保つためのモチベーションに繋がるからである。まじめであることが当たり前の社会は、むしろ、異常であり、すべての人に常に笑顔と品の良いマナーを当たり前のように要求する社会は、感情労働を無意識に強いる強制労働社会であり、人間の自由意識を搾取する不健全で、甚だ、不健康な社会なのである。誰でも、本音を言えば、男女の区別なく、かって気ままに振る舞いたいし、いろんな欲望を満たしたいし、いろんな異性とセックスを楽しみたいし、特に男性に関しては、ポルノビデオを見たい。すなわち、まじめさを要求される職業に就く人ほど、そうでない人達よりもストレスを溜め込んでおり、アブノーマルな性犯罪や欲望の衝動に駈られている。例えば、警察官や教師や医師や聖職者という模範的立場にいる人ほど、アブノーマルな欲求を抱きやすい。よって、私達はある悪い習慣を克服したと考えているなら、私達はいまだにそれを克服すべきほどにも克服してはいません。よって、我々は死ぬまで、あらゆる誘惑、もしくは、ギャンブル依存性、アルコール依存性、セックス依存性、ポルノ依存性、ドラッグ依存性、買い物依存性と戦い続けなければならないのである。よって、人は他の人の抱えている問題は自分たちと同じものなのだ、と考えて、自分の心を広げ、他の人を思いやる点で自分の心の寛容さの許容範囲を拡張しなければならないのであり、自分を他の人と比べて、優劣を競う対抗心を辞め、むしろ、互いの罪を告白し合う点で率先し、互いに心の本音をたやすく言い合える環境を作りあげていかなければならないのである。これこそが本当の健全で健康な社会の在り方なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々は実在しているのか?

我々の世界は実在しているのか。相対論に基づけば、我々のこの世界が唯一[絶対]なのではない。無限の世界が存在し、我々の世界はその1つに過ぎない。その意味においては、我々の存在は実在とは直接に関与しない。これを相対主義と言う。例えば、Aという直線があるとする。そのA直線上に我々は存在していると考える。しかし、直線は1つではなく、無数に存在するから、我らA直線上の世界以外に、B直線上の世界もあれば、C直線上の世界も同時に並行して存在する。このように同時に並行して存在しているため、A直線上の我々は、B直線上の世界や、C直線上の世界を直に観察することはできない。要するに、観測という行為は、観測する対象が自分たちの観測しようとしている世界より、時間的に遅れているか、それとも、時間的に先に進んでいるかの場合にのみ、観測する対象を観測することができるのである。言い換えれば、我々の目で見えるものは、常に過去のものか、それとも、未来のものかに限定される。私達が宇宙の星が見えるのも、その星の光が幾億年もの昔に輝いたものが今、見えているわけであり、我々の視覚に映る草木や風景も、視覚神経を通して眼球に達するまで時間が経過しており、我々の見る世界は常に数秒過去のものを見ていることになる。よって、量子力学の世界において、極微な電子を観測しようとするとき、光子の光を当てた時、電子の現時点の状態を見ることができない。すなわち、光子を当てる前の電子の状態か、光子を当てた後の電子の状態しか観測できない。これが電子の存在を確率論的にしか予想できない理由なのである。よって、物質の最小単位である電子は実在していることとは直接に関与しない。よって、光は粒子でもなければ、波でもないことが理解できる。逆に言えば、光は粒子でもあれば、波でもあると言うことができる。なぜなら、粒子は我々の世界では、ボールのようなものであり、ボールは現在の位置が分かれば、将来の位置も予測できる性質を持つから、それは多分に未来的であり、波とは、石が水面に落ちた後に起こる現象であるから、それは多分に過去的なのである。それでは、実在とは存在するのであろうか?ここでは実在を真理と置き換えてもよいだろう。果たして真理、すなわち、現時点での本当の値、正確な数値、本当の実在世界は存在するのであろうか?例えば、時刻が狂っている時計があるとする。それが1つだけしかなければ、何の意味もないが、それぞれにすべて時刻が狂っている時計を無限に用意したならどうなるであろうか?そうすれば、その中に必ず時刻の正確な時計が存在することは自明の理である。よって、相対論に基づけば、無限の相対世界が存在するのであるから、その中に必ず、真の実体、すなわち、実在する世界が存在するのは自明の理である。よって、真理はどこかに必ず存在することになる。よって、皮肉なことに、相対的存在が絶対的存在を証明する役割を果たすのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

文明論

人心乱れるとき、天災あり。

人間の文明には寿命がある。古今東西、いろいろな社会体制が生まれては消えていった。絶対王政から共産主義、軍国主義や貴族主義や世襲制、様々な支配体系が試みられ、すべては最後には崩壊していったのである。我々、現時点での社会体制は民主主義であり、資本主義である。それ以前の様々な支配体制はすべて戦争によって終わりを迎えた。そうである、それまで築き上げてきた価値観なり、富や財産、文明の中心地である都市は戦争によって破壊され、すべてはがれきの山となって崩れ落ちたのである。その都度、新しい社会体制はまたゼロから出発してきた。そう、人間の文明は長くもっても半世紀、50年であり、このサイクルが人類史を形作ってきたのである。我々の時代も同じである。民主主義や資本主義ももはや末期的であり、あと数年で崩壊しようとしている。民主主義は衆愚政治と化し、頼れるリーダーの不在を産み、言論の自由により、世の中はいろんな情報で溢れかえっているが、もはやどの情報を信じてよいのか分からなくなっている。資本主義はますます貧富の差の拡大を産み出し、資本主義の貪欲な利益の追求が地球環境を汚染し、その付けが自然災害となって、我々に降りかかっている。世界はまさにパラダイムチェンジのターニングポイントに我々は位置しているのである。私の国、日本も第二次世界大戦の敗戦により、軍国主義が崩壊した。その後、アメリカ合衆国の占領下において、日本は民主主義となり、一時は経済大国として名をはせた時もあった。しかしそれもバブル経済の崩壊により、その繁栄は終わりを迎え、そこから日本経済は急激に縮小し、不景気によるデフレーション経済となり、今に至っている。そうである、戦後、焼け野原から成長し、膨張し続けてきた日本型民主主義体制という資本主義はあと数年で崩壊しようとしているのである。このように我々の住む地球世界は1つの体制がずっと続く状態を許さないのであり、1つの体制がいつまでも富を独占することを拒むのである。これは万物の法則であり、倫理の大原則なのである。日本において、本来なら、優秀な政治家が舵取りをし、これまでの社会体制を全くの逆の方向へ導かなければならないのに、自由民主党という一党独裁が何十年にも渡り、既得権益層と化して、その権益を死ぬまで離そうとしない。一度敷かれてしまったレールはそう簡単には動かすことはできないのである。現代社会においては、昔のように戦争によって現体制を崩壊させることは倫理的にタブーであり、不可能である。そう、日本のこれまで積み上げてきた価値観なり、富や財産を人間の側から変えることは難しいのである。それでは万物の法則である大自然の摂理はどのように対処するのであろうか。そう、人間が変われないなら、自然の力で変えようと働きかけるのである。それこそが天災であり、近年の日本の自然災害の増加に必然的につながっているのである。要するに、人間の1つの文明がまた50年周期の終わりに差し掛かっており、それは大自然の地殻変動という大地震によってひとたび日本を再び昔の焼け野原に変えようとしているのである。よって、日本の大都市である東京に最も人や富や財産、そして既得権益層が集中しているため、大自然の摂理の法則は、首都、東京を標的にして大地震によって現体制を終わらせようとしているのである。まさに今、日本はパラダイムチェンジのターニングポイントのただ中にいるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

日本の国民よ、早く逃げよ。とてつもない大きな地震がまもなく来る。フィリピンプレートがやばい。南海トラフ大地震である。東京にいる者は早く首都から脱出せよ。あまりにも東京に人と富とが集中し過ぎた。大自然は倫理の法則に従って、このアンバランスを元に戻そうと振り子のように動くから、地震が起きるのである。日本の東日本は沈没し、東京の代わりに大阪が代理の首都となる。最近の日本周辺の小規模地震は南海トラフ大地震の予兆であり、人々に避難を促す警告である。今月の3月中までにそれは起きる。人々よ、今すぐ逃げよ。どうしてあなた達が死んで良いだろうか。

高田義裕の人生論

今日の格言

無神論者達に対して。

無神論者は神など存在しないと言う。これは実は甚だ本末転倒な主張なのである。これを例えで考えてみよう。まず私が芸能人だとする。私はある芸能プロダクションの会社に雇われている。すなわち、芸能プロダクションの会社から仕事を貰って、芸能活動を行っているのだ。私はあるテレビ番組の司会者を任された。それで、テレビの前の視聴者に面白おかしく世の中の情勢を自由に自分の意見を話して、視聴者から人気が出た。ある時、事件が起きた。なんと私の所属する芸能プロダクションの会社が不正を行い、人々から非難を受けたのである。当然、私のテレビ番組もその事件を扱うことになった。私は視聴者から人気があったため、つい調子に乗って自分の会社を非難した。ここがおかしいのである。私は自分の会社のお陰でテレビ番組の司会者になれたのに、その立場を利用して自分の会社のことを悪く言ったのである。本来なら、自分のテレビ番組で自分の会社を非難することは、自分の立場上、言える権限はなく、それに対しては、沈黙すべきだったのである。もし、その芸能プロダクションの会社を非難したければ、その芸能プロダクションの会社から貰ったテレビ番組の司会者を辞めて、新たに自分の自力で芸能プロダクションの会社を立ち上げ、自分の力でテレビ番組の司会者になって初めて非難する権限を持つのである。これと同じで、神は存在しないという主張も、あくまで神が存在するお陰で初めて言えることであり、神は存在しないという主張も神が存在することに依存しているのである。よって、我々には最初から神は存在しないなどと主張する権限はないのである。もし、正当に神が存在しないことを主張したければ、神から貰ったこの命を一旦捨て、自分の自力で命を誕生させ、まったく神からの恩恵を受けずに、独立した存在になって、初めて、神は存在しないということを主張する権限を持つのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

肉と霊の違い

肉的とは何か?それは欲望を満たすことである。それに対し、霊的とは何か?それは欲望を満たさないことである。例えば、肉は飢えれば食し、渇けば飲むことを要求するのである。肉的な人間は、自分の飽くことなき欲望を遂げようと必死になる。そこには常に争いが生じ、争いは軋轢を生み出し、軋轢は人の心を欲求不満にならせ、人は心身を病み、終始、苦しむことになる。しかし、霊的な人は違う。人は皆、失って、初めて、それが自分にとって必要不可欠なものであることに気付く。ある人々は今まで家族が一緒にいることは当たり前のことと思っていた。しかし、ある日、突然、災難に遭って家族すべてを失い、自分1人だけが生き延びた。彼は嘆き悲しみ、自分の哀れな境遇を呪った。そして、生きている限り、彼は自分にとってかけがえのない家族のことを思い浮かべながら、孤独を生き抜いた。そうである、人はもはや二度と手に入れることのできないことによって、それを実際に手に入れている人達よりも、それを永遠に愛することができる。あこがれこそ、人を富ませ、人格を形成し、そこには深い孤独感とともに自分にしかわからない心地よい自分の世界の境地を生み出す。これこそ、霊的な世界なのである。よって、すべてのものを手に入れるためには、今一度、すべてのものを失う必要があるのである。人は失うことによって初めて成長するからである。あなたには最愛の異性がいたか?もし、あなたが異性を何らかの形で失っても、それによって、失う以前よりも相手のことを愛することができる。もし、失わずにずっと二人でいたら、互いの存在の有り難さに気が付かず、むしろ、些細なことで喧嘩して離婚していたかもしれない。なぜなら、肉の思うことは一時的であるが、霊の思うことは永遠だからである。よって、すべてのものを手に入れることのできる者とは誰か?それは神である。なぜなら、神は肉ではなく、霊的存在だからである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネによる書、4章23と24節。[とはいえ、真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際、父は、ご自分をそのように崇拝する者達を求めておられるのです。神は霊であられるので、神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません。]よって、大切な人を失った者達よ、あなたの頭をまっすぐ上にあげなさい。なぜなら、失ったことがない人よりも、失ったことによる悲しみを他の人と分かち合える人の方が幸福だからである。なぜなら、その人はもはや肉的ではなく、霊的な人だからである。神は傲慢な者達に敵対し、謙遜でへりくだった者達に過分のご親切をお与えになるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神の存在の証明

否定背理法

まず、存在するかわからないものをオメガと置く。そしてそれ以外のものをアンチオメガと置く。そしてもし、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜならアンチオメガは書いた字のごとく、オメガの存在を前提として初めて成り立つ概念だからである。

否定背理法の具体的適用

[神が存在するか]はわからないので、[神が存在する]をオメガと置く。そして神は存在しないことをアンチオメガと置く。もし、神が存在しないことを証明できたならば、すなわち、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜなら、神は存在しないという主張自体がアンチオメガであり、神が存在すること[オメガ]を前提にしたものだからである。よって、神は存在しないことが確実ならば、間接的に神が存在することも確実なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人は何のために生きるのか?また、自分自身とは何か?また、人間とは何か?

人はなぜ生きるのか? 残念ながら、その答えは、私達が生きている限り、永久にわからない。また、自分とは何か? 残念ながら、それも自分が自分自身である限り、永久にわからない。古今東西、人類はこの答えを得るべく、多くの哲学者が知恵を絞り、あらゆる事を試し、あらゆる手段を講じて熟考し、思索し、探求し続けてきた。しかし、それは私達が人間である限り、永久にわからないのである。この意味は、我々にはその答えを知る能力がないとか、力量不足であるとか、努力不足であるとか、知恵がないという意味では決してない。すなわち、我々が何者であるのかは、原理的にわからないのである。その理由をこれから説明しよう。仮に一次元人がいたとしよう。一次元とは線のことだが、この一次元人には線は見えない。点にしか見えないはずだ。なぜなら、線が線として見えるのは、二次元以上の人だからだ。同様に、二次元人がいたとしよう。二次元とは面のことだが、二次元人には面は見えない。つまり、形が見えないのだ。面が面として見えるのは、三次元以上の人だからだ。このように、それ自身はそれ自身が見えないのである。すなわち、見る対象を見ることができるのは、常にその次元より1つ高い存在でなければならないのである。よって、我々は生きており、自分は自分自身であり、我々は人間そのものであるから、我々は生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知ることは、原理的に不可能なのである。言い換えれば、我々は生の奴隷であり、自分自身の奴隷であり、人間という奴隷なのである。よってもし、我々が生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知るためには、それらよりも一段高い次元から見なければならないということである。すなわち、生きるとは何かを知るためには、生きることを超越しなければならないし、自分自身とは何かを知るためには、自分自身を超越しなければならないし、人間とは何かを知るためには、人間を超越しなければならないのである。しかし、そんなことは我々には到底、不可能なことであるから、私達は永久に、生きるとは何か、自分自身とは何か、人間とは何か、を知ることはできないということである。それでは、それらの事を知ることができるのは、誰か?。それは神である。なぜなら、神は我々よりも高次元な存在であるから。よって、人はよくよく神を知ることに努めよう。なぜなら、神を知ることが、人にとっての知識の初めだからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

倫理の等価交換性は常に成り立っているか?

一見、この世の中は公平ではなく、不公平だらけな気がする。しかし、やはりこの世の中は本質的に公平に出来ており、すべての者は自分が汗して働いた分しか得られないのである。すなわち、表面的には不平等に見えても、本質的には皆、平等なのである。これを倫理の等価交換性という。例えば、自由とは何か?それは最初に束縛状態であった環境から自分を解放することである。例えば、生まれつき、貧しい家庭に生まれ、その日の食物にも事欠く人物がいたとする。それで、その人は身を粉にして働き、貧困という束縛から遂に大金持ちになり、貧困から脱出した。そう、この状態こそが自由になったということなのである。そして、その人は結婚し、子供が生まれ、その子供は生まれつき、なに不自由なく育った。そして我々はその子供の恵まれた境遇を見て、それを妬み、何の苦労もせずに裕福に暮らしている人達と自分達の境遇を比べて、本当に世の中とは不公平なものだ、と言うのである。しかし、その子供は果たして本当に自由な立場にいるのであろうか?いや、決してそうではない。なぜなら、時を経て、その子供が成人して大人になり、仕事につくことになった。その親は当たり前のように高価なスーツや、高価な靴、高価な腕時計を子供に身に付けさせて家から送り出した。すると、職場の同僚達は彼の身なりを見て、皆、彼に対して妬みの感情を覚えた。しかし、ある時、ある1人の同僚が自分の身に付けている安い電池の時計が止まったことに舌打ちし、その子供に今、何時か尋ねた。しかし、成人した子供は生まれつき高級品に囲まれて育ったため、なんの悪気もなく、こう言った。今は11時です。私の時計は自動巻きなので止まることはありません。これを聞いたその同僚は、高価な自動巻き腕時計を自分に自慢したと思い込み、腹を立て、彼に対して恨みを抱いた。そして、その腹いせから、他の同僚達と一緒になって、事あるごとに彼をいじめた。そうして、その子供は次第に精神的に病み、遂には仕事場に行きたくなくなり、仕事を退職してしまった。その後、その子供はそのいじめがきっかけで、自分の自宅に引きこもり、社会的不適幼児になってしまった。どうであろう、生まれつき、なに不自由なく育っても、その子にとっては裕福さが仇となり、社会的人間関係にうまく順応できなかったのである。すなわち、家庭の中では自由でも、一歩、社会に出ると、不自由さを経験しなければならなかったのである。よって、彼が越えなければならない壁は、周りの人達からのいじめという束縛から自分を解放して、社会にうまく順応し、精神的貧困から脱出しなければならないのである。それが、彼にとっての真の自由を意味するのである。よって、この世の中は、見た目には不公平に見えても、本質的には公平なのである。金持ちには金持ちなりの、貧乏人には決してわからない深刻な問題を抱えているのである。この意味において、結局、人は自分が汗して働いた分しか自由を得られないのであり、結論として、倫理の等価交換性は、常に成り立っているということである。