高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、私達が生まれてきた時から定められた、私達の行うべき仕事の量は、神から減らしてもらえることは、決してないけれども、しかし、その分の仕事を行うべき確かな理由だけは必ず、初めから与えられているのである。

2.私が、最近気付かされたこととして、人間、たとえ本来すべての人が、同じレベルに到達すべきような当たり前の正しさに対してでさえ、それを行うことには、各々個人差による限界があるということである。すなわち、正しいことを行うことに関してでさえ、能力の優劣は確かに存在するのであり、しかし、それ自体は、決して不自然で悪いことではないのである。人は、すべての人に対して、等しい正しさを求め、それを植え付けようとするが、それは間違った教育の仕方なのである。よって、各人は、自分の立場なり、限界をわきまえない、過度の努力をすることは、各人にとって、非常に危険なものとなるから、それを避けることに、注意深くなければならないのである。すなわち、正しいことができなくても、それは悪いことではないのである。よって当然のように正しさを要求してくる厚顔な者達には用心せよ。

3.人の上に自分を高めている者は、全く無自覚に、取り柄のない人間は、すべて、見捨てるべきである、という考え方に賛同していることになること。その価値観で生き続けていくと、いずれ、自分の能力が尽きた時に、自分もまた、人から見捨てられてしまうこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

仕事をした後は、必ず、休憩を入れなければ、体を壊してしまうように、人は、成功をした後は、必ず、失敗しなければならないのであり、成功し続けるということは、まるで、休憩を入れずに、仕事をし続けるようなものなのである。もし、何の失敗も経験せず、常に成功し続けるということは、本人にとって、非常に危険なことであり、非現実でナンセンスなことなのである。もし、それが続くとしたら、人はいずれ、精神的にも、体力的にも参ってしまって、人格が壊れてしまうのである。

2.人間は、本来、一方的にしか生きられない生き物なのである。なぜなら、人はたとえ、どれだけ逆境に立たされても、人は生きている限り、悩んでばかりでは居られず、結局のところ、プラス思考と希望とを持って、明るく生きていかざるを得ない存在だからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生とは、決してすぐには解決し、もしくは解消されない問題、もしくは、治癒出来ない傷みや、癒すことの出来ない、慢性的な傷を抱え、それを背負いながら生きていくようなものなのである。よって私の人生とは幸福であるはずだ、という思い込みや、私の病気は必ず治るはずだ、という期待を持てば持つほど、現実とのギャップが生じて、苦しみが倍増するのである。よってそのような根拠の無い曖昧な先入観と理想論を捨て、現実をありのままに受け止め、自分の問題や病と日々付き合っていくことを決意するなら、苦しみや傷みは、半分に減って、何とか持ちこたえて行けるようにまでなるのである。この自覚と決意こそが、真の大人の世界観であり、一人前の人間としての世界観なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、まず先に、得よう得ようとするから、すべて失敗するのである。本当の正しい順序とは、まず、与えてからでなければ、どうして得られるでしょうか、ということなのである。例えば、友達が欲しいと思うなら、相手が来てくれるのを待っていても、それは、永遠に来てくれないのであり、まず、自分の方から相手の人に声をかけて友達をつくっていくようにしなければならないからである。

2.初めから、人生とは、失敗と書くのである。よって、失敗をいちいち恐れてはいけないのである。

3.初めから、人間は、愚かと書くのである。よって、どれだけ愚かな行いをしようが、それにいちいち悔いていては、身がもたないのである。

4.初めから、人間は、助け合いと書くのである。よってどれだけ、お世話になっても、それにいちいち負い目を感じていては、身がもたないのである。また、どれだけ相手のことを助けてあげても、それをいちいち数え挙げていては、誰も寄り付かなくなるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰であれ、一人の人を侮る者は、すべての人を侮ることになる。

2.知恵と真理を知ることが、人間にとっての真の幸福の道であると信じて、それを集めることに没頭する者に対して、その終わりは、自分自身への様々な傷みや問題の集積に他ならないこと。すなわち、人は、知識を増し加えた分だけ、また次から次へと問題をも増し加えることになるのである。これは、まるで、多くの貴重な宝や財産を手元に集める分だけ、それを維持したり、管理したりするのに、少ししか持っていない者よりも、余計にコストがかかり、気苦労も要してしまうということである。人生は、よくマラソンに例えられる。すべての人がゴールまで向かって走るのであるが、その走る際、マラソン選手は、できるだけ、何も身に付けずに、身軽になって、自分の身一つで走ろうとするだろう。しかし、一人だけ変わった人がいて、体に幾つもの黄金の金を身につけて、酷そうに走っている。観客は皆、それを見て、笑ってこう言う。あの人はなぜ、あの様な重たい荷物を持ちながら、走っているのか。それでは、酷いに決まっているではないか。マラソンの意味が分かっているのか、と。そう、マラソンという人生において、多くの物を所有することは、最後には、もう走れなくなって、リタイアするマラソン選手のような者なのである。彼らは自らのその富の故に、自らの人生を滅びに陥れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

強さは、弱さに勝る。しかし、知恵は、強さに勝る。しかし、正しさは、知恵に勝る。しかし、愛は、正しさに勝る。よって、たとえ、弱くても、愛があれば、どんな力よりも強い。また、たとえ弱くても、愛があれば、どんな知恵よりも賢い。また、たとえ弱くても、愛があれば、どんな正しさよりも正しい。よって、最も強いのは、愛である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しいことと、正確であるということは、同一のことであること。要するに、正しさを得る為には、まず、正確さを目指さなければならないのである。すなわち、人は、正しさを得ようとして、正しさを得ることが出来ないのであり、まず別の観点である、正確さを追求しているうちに、全く意図せずに、正しさも得ることが初めてできるのである。

2.倫理学序説

人はすべて、意図してそれを得ることは出来ないが、人はすべて、それを意図せずに初めて得ることができる。この法則を無視して、得たいものを得ようと欲張ると、必ず失敗して痛い目に合うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人より、比べものにならないほど、お金を多く所有している者は、むしろ、お金を余り持っていない人達よりも、お金に対して感激しなくなるのと同様に、他より、比べものにならないほど、知識と知恵があり、偉大である者は、むしろ、自分の持っている知恵と知識と偉大さに関して、感激したり、誇ろうとは思わなくなるものである。よって、むしろ、逆に、お金も中程度に持っていて、能力も中程度のレベルにある人々が、しきりに、お金の量を競い合ったり、能力の差を誇りあったりしているのである。すなわち、互いに競いあっている段階で、常に、お互いの程度が低いことを露見するものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大きすぎるものは、むしろ逆に、大きすぎて見ることが出来ず、気付かれないように、偉大なものも、むしろ逆に、その偉大さの大きさの、途方もなさの故に、偉大すぎて見えず、かつ、気付かないものなのである。よって神は、偉大な方であるので、我々には、見えないものなのである。しかし、神御自身は、それでも、人が、自らの意志を働かせて、神御自身を見いだすことに目ざとくある、霊的に、洞察力のある者を楽しみにしておられるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の罪とは、人間による絶対化への渇望、すなわち、自分が神のようになりたいというナルシズムにあったのである。

2.善悪を超えて存在され、損得を超えてすべての生き物を生かしておられる方、エホバ神だけに、栄光と誉れと賛美と力とが、過去も、今も、そしてこれからも、永久にありますように、アーメン。

3.たとえ、神を全く必要としない者がいるとしても、その人にとって神という存在は全く無関係なのでは決してない。その場合、その人にとって、自分自身が神なのである。