高田義裕の人生論

今日の箴言

正しいことが幸福なこととは、限らないが、幸福なことは、正しいことである。

2.自分という存在は、自分のためにあるのではなく、人のためにあるのである。

3.人間にとって、チームワークこそ、すべてであり、ワンマンプレーは、自分を人から孤立させるだけなのである。何事も、お互いに協力して目的を達成していくことこそ、正しいのであり、それによって、人間は、互いに持ちつ持たれつの関係が保たれることによって、上下関係のない、すなわち、誰か一人だけが、目立ったり、誰かが、みんなから低く扱われることも無く、皆、仲良くしていけるのである。

4.我々に展開されている、ごく日常の、当たり前だと思っている営みすべては、合理的には説明出来ないこと。なぜなら、すべては、合理性を超えて成立しており、それは、計算すれば、答えが出るような単純なものでは決してないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

中途半端に行なうくらいなら、むしろ、全くしない方が良いこと。

2.人間とは、自分の誇りや、自尊心を失ってでも、生きなければならないほど、生に、縛られる必要は無いし、生ける屍になってまで、生に対して、執着はしないという、人は、本来、立派で、良い意味で誇り高く、元々道徳規準の高い、気高い生き物なのである。

3.真の情報とは、何事も、他の者に先んじて知り得る極秘のものであり、英語で言えば、インテリジェンスであり、インターネットで検索すれば、誰でも知ることのできる、英語で言えば、インフォメーションという情報は、もはや情報としては、何の値打ちもないものなのである。何事も、他の人より先に、まだ誰も知らない情報をいち早く掴んで、迅速に行動するなら、大きな利潤を独り占めすることができるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中で、人がただ普通に生きていくだけでも、様々な賢い知恵や、ギリギリの駆け引き、そして、驚くほどの労力や、気遣い、知識、資力が必要不可欠なのである。しかし、それらをすべて補って、かつ、余りあるようにしてくれるのが、神からの知恵である。それは、ひとえに、謙遜さという特質なのである。あなたはどこに行っても、また、誰に対してであろうと、自分の頭を低くしなさい。そして、常に謙遜であるよう努めなさい。それはまさに、暴風雨の中の立派な避雨具であり、体全体を守ってくれる丈夫な鎧なのである。謙遜に行動することだけが、我々にとって、欠かすことの出来ない救命道具なのである。この知恵が私達に与えられたことを、全く神に感謝するものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神とは、どのような方なのであろうか。それは、私達から見て、超然とした方なのであろうか。実は全くそうではない。神は、あらゆる人々にとって、肉親であり、兄弟であり、親友のような方なのである。なぜなら、神は悪人であれ、善人であれ、あらゆるすべての人間の幸福を願っておられる方だからである。それに対して、私達人間はどうか。私達は、罪深くも、自分達だけの幸福しか考えておらず、他の人の不幸を、憐れむどころか、他の人の不幸を悦ぶことはしても、他の人が自分より幸福になることを呪っている存在なのである。人は、自分より不幸で、恵まれていない人達に対して、自分はあの人達よりも、優れていると思い、密かに、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。そのような間違った優越感を感じて満足しているのが、罪深い私達人間の本性であるのである。よって、今日から、そのような他の人と競い合い、見栄の張り合いをするような対抗心を捨て、神のような心の状態に、転じなければならないのである。では、私達に対する神の御意志とは何か。それは、互いに思いやりを示し合い、互いに愛し合うことでは決してない。それはただ、一心に、相手の身の立場に立って考え、行動することなのである。なぜ、互いに思いやりを示し、愛し合うことではないのか。それは、各人にとって、思いやりや、愛するということの価値観、またその心の良心という性質や程度には個人によって全く違うからである。例えば、ある人は、悩んでいる人に対して、慰めの言葉をかけてあげれば、それで十分な愛を示した、と思う人もいるし、また別の人は、慰めるだけでは十分で無く、その人の身の世話まで行ってあげることまでが、愛を示すことである思う人もいるからである。このように各人には、一言で愛すると言っても、互いに個人差があるからである。よって、ここで、相手の身の立場になって考えるということは、どういうことであるかと言うと、よく悪いことをした人が、その後、ひどい目にあって、そのことを、それは自業自得で、当然受けるべき、天罰が下ったのだ、と思うことではない。また、最初は、非常に裕福であった人が、何らかのきっかけで、貧困に叩き落とされることを密かに悦ぶべきことでもないのである。それらは、決して神の愛や、御意志なのではないのであり、それらの人達の立場に立った考え方では決してないのである。すなわち、神の見方とは、例え、悪い人が自分の悪い報いを受けたとしても、それを悦んだりせず、その人に対して憐れみを持つことなのであり、かつ、自己中心的で、自分に甘かった人が、その後、厳しい目に合っても、それを悦ぶことなのでは決して無く、その人に対して、優しい同情心を示すことなのである。よって相手の身の立場に立って行動することとは、最後までその人を見捨てず、あきらめず、最後までその人の味方に徹するということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、下心を持って物事をしようとするから決して上手くいかないのである。上手くやっている人に皆、共通して言えることは、それらを、損得抜きで、無心でやっているということだけなのである。

5.偶像崇拝とは、1して、1しか得られないことを、強引に、1して、2を得ようとする態度のことを初めて言うのである。

3.人は、野心を抱くこともよいが、その分、それは、大きな負担を背負うことでもあるのである。すなわち、他の人より、2倍の栄光と富を手に入れる為には、必ず、他の人よりも、2倍の労苦と浪費を味わわねばならないのである。結局のところ、それはプラスマイナスゼロであり、それは、栄光でも、富でもないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、それぞれ、自分の良いところが、また、自分のマイナス面でもあるということである。すなわち、相手の人間に、よく気がきく人は、その反面、相手に気を使い過ぎて参ってしまうことがあり、その場の空気をよく読める人は、逆に空気を読み過ぎて、神経質になって心を病んでしまいがちになるのである。

2.もはや、どうしようもない時は、そこから物理的に離れるしかない、すなわち、逃げるしかないのである。

3.たとえ、健康で、すべてに申し分無くても、心が悪ければ、すべて台無しになってしまうのであり、逆に、健康で無くて、すべてが駄目であっても、心が善ければ、何とか補えるものなのであり、人間にとって、一番大事で肝心なのは、心なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、多くを所有したがるが、それは、都合のいい良いところだけを見て、よく考えずに、軽率に反応しているだけであり、実際には、多くを持っている者は、より多くの責任を求められるという厳しい現実を知らないのである。

2.端から見て、非常に魅力的で、素晴らしく見える人は、本人自身は、全くそう考えておらず、むしろ、毎日が苦しくて、常に満たされていない飢餓状態であり、毎日を、必死にもがき、模索しているなかで、その副産物として、魅力も生じてくるのに過ぎないのである。要するに、毎日を悩みも無く、楽に生きている者には、魅力は付かないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は、平和に慣れると、生ぬるくなって、真剣さ、必死さという人間が生きていくうえで、一番大事な機動力というサバイバル精神が、知らないうちに、徐々に失われていくこと。

2.一人の人にとって、その子供時代こそが、自分にとっての、可能性に富んだ二度とない短い黄金時代であったことを、子供時代には全く気付かず、子供時代を十分に活用せずに、無為に過ごしてしまいがちなこと。

3.人は、人と交わり合わない限り、ただ一人では、何の意味もなく、また、何の価値も生まれないものであること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰であっても、相対的に言って、皆、立場は同じである。なぜなら、あなたはAさんより立場は下であっても、また、Aさんには、Bさんという自分より上の立場の人がいるからである。そして面白いことに、Bさんは、あなたの弟の親友であったりする場合があるからである。このように人間関係とは、複雑で一筋縄では説明出来ないほど、多様性に富んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人は、私も含めて、自分にとって、都合の良いことしか考えず、また、他の人の羨ましい部分だけしか見ていないのである。よって、物事の裏側や、影にある、本当の姿や、その人の真の事情、すなわち、苦しい思いや、大変な努力によって、初めてそうなっているということの全体を、捉え損なっているのである。要するに、およそ、この世の中で、ただで喜べたり、ただで、楽して楽しめたりできることなど誰一人としていないということである。すなわち、すべて、今、楽しんでいるように見えている人は、過去に、非常な悲しみを必ず経験しており、すべて、今、上の立場にいる人は、過去に、ひどい差別を受けて、ひどい扱いを受けてきた人達であり、今、富んでいるように見える人は、過去に、飢え、渇き、ひどい貧困生活を味わってきた人達であるのである。これこそがまさに、廉直で当たり前の事実なのである。