高田義裕の人生論

今日の箴言

神に対する信仰とは、人格的存在である人間にとって、人間を生かしているすべてであり、根幹であること。それは、他のすべての行為よりも、遥かに勝る、一番大事で、必要不可欠な要素である。よって、信仰とマインドコントロールとは、全く逆のものということができる。なぜなら、信仰とは、あくまでも、人の自発的、積極的な気持ちの究極形であり、それは、まだ見ぬ、まだ成されていない事柄に対して、相手を全く信用することであり、それゆえに、あたかも、既に見たかの様に、確信を持って行動するという、人間関係や精神の最も価値ある要素だからである。それに対して、マインドコントロールとは、全く強制的、かつ消極的で受け身的な、決まりきった動作の繰り返しに過ぎないのであり、それは、既に与えられている主従の関係であり、それ自体には、何のリスクも責任も伴わない無活動なものなのである。これは価値の最も無いものの一つであるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人の人生とは、その母の胎から生まれ出た時から始まるのでは決して無く、その人が挫折し、失敗した時から、初めてその人の人生が始まるということである。

2.親が、自分を律することが出来なくて、自分の子供など、律することなど出来ないこと。ましてや、他の人を律するなどもってのほかなのである。

3.言うだけで、実行しないよりは、言わないで、実行しないことの方がましである。

4.ライオンは、たとえ、うさぎを捕まえるにしても、全力を尽くす様に、人も、常にどんな些細な事に対しても、本音で、本気で、全力で対処していかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、何がカルト(狂信的)なことなのかでは決して無く、あらゆるすべてのものがカルト(狂信的)になる可能性を持っているのである。すなわち、それ自体は他の人から見て、カルト的なものではなくても、ある人に対して、それがカルト(狂信的)の様に作用した場合、それがその人にとって、初めて、カルトなことになるということである。例えば、ある有名人には、多くのファンがいるが、そのファンのなかでも、あくまでも、適度な距離を置いてそれを楽しんでいる人達にとって、その有名人は、カルトとしての存在ではないが、もしファンの中で、その有名人の私生活やプライベートなことにまで、熱烈に関心を持ち、その有名人の自宅を探してまで彼を独占したいと思う様になり、思い煩うほど、頭の中がいっぱいになっているとしたら、それは、もはや、ファンの域を超えて、その人に対してその有名人はカルト的に作用していると言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、きちんとすることさえも、そればかりでは、疲れきってしまうのである。大事なことは、きちんとすべきことはきちんとして、そうする必要のない時は、いい加減でもいいということである。すなわち、いつもきちんとしていなければならないという考え方は、間違いであり、手を抜いても良い時は手を抜いて、楽をすれば良いのである。よって正しいのは、きちんとすべきことはきちんとし、いい加減にすべき時は、いい加減にすれば良いということである。いつもきちんとしていては、息が詰まって耐えられなくなるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誇れる理由の多さは、災いの多さに比例すること。

2.見栄、打算などと言った、余分なもの、すなわち、偽りは、所詮、いざという時には、飛び去ってしまうものなのであり、結局は、真実さだけが残るのである。この世の中を渡っていく上で、真実さしか通用しないように、初めからそうなっているのである。

3.本来、役立てる為に、情報を集めていたものが、知らず知らずのうちに、情報を集めることだけが、目的になってしまうことを、マンネリ化すると言い、同様に、人生の自分の目的の為に、お金を稼いでいたのが、知らず知らずのうちに、お金を貯めることだけが目的になってしまっては、それは、全く無駄な行為であり、意味を成さないこと。

4.相手を信用して、心を開くとは、相手に対して自分の弱みと急所を見せる、もしくは、無防備な自分を晒すということを意味するのである。果たしてあなたには、そうできるだけの、信頼出来る友がいるだろうか。ただ、暇つぶしのための友人しかいないのが誰もの本音ではないだろうか。それだけ、私たちは、普段、浅い人間関係しか築いていないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、各々、自分の弱点によって、滅びるのではなく、人は皆、自分が得意とすることによって、滅びること。

2.人は、全き悪にも耐えられないが、また、人は全き義にも耐えられないこと。

3.この世界で、自分が初めから決して出来ないことに、必死に行おうとし、また、行えると信じていることほど、無駄なことはないこと。

4.悪を行うこととは、義を行う必要がないのに、義を行うことに等しい。

5.何もしたことの無い人間ほど、自分は何でも出来ると思いがちであり、逆に、何でもやっている人間ほど、自分は何も出来ないと思っていること。

6.より強い者ほど、恐ろしさを知っており、真に強い者ほど、真の弱さを知っていること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の聖句にあるように、人が、各々の災いに見舞われる原因のすべては、その当人の、欲望の咎によってのみ、引き起こされるのであって、いかなる他の人や、外部からの力や影響力によって、引き起こされるものでは決してないこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の言動を、常に、口によってではなく、行いによって語るようにせよ。

2.損得でしか動けない者は、もはや、人ではあり得ないこと。

3.真の賢さは、本人が、知識や知恵を多く所有していることではなく、本人がいかに全く何も持っていない状態から、多くを生み出せるか、ということ。

4.誇りは、無知により、生じる。よって、全知全能なる神は、誇るということに関してのみ、唯一、無知であること。よって神は誇ることを知らないのである。

5.余分なことは、無駄なことであり、無駄なことは、負担であることであり、負担であるということは、損失であるということである。

6.人は、賢くなることは出来るが、ただ、人は、自らが、賢くなろうと意図して、賢くなることは決して出来ないこと。

7.すべて、賢いことは、どういうことなのか、なのでは決して無く、あくまで、何であろうと、物事を、どう扱うか、ということが問題なのであり、物事の扱い方の優れた者が初めて真に賢い者なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昔の厳しい乱世の時代には、女性はおしとやかで、慎ましかったのでは決してない。ただ、戦争に対して、女は男にはどうしてもかなわないから、自分の身を守るために、男の好みにわざと合わせて、本姓の気ままさを出すことをせず、保身の為に、必要にせまられて、男のために、物分かりの良い人間を演じていただけに過ぎないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中が豊かになって、高度な文明的社会になって行けば行くほど、男は女性的になり、女性が男性的になって行くのである。本来、男らしさとは、道なき道をゆくという、道が無いなら、自らがそれを創造していく雄々しい能動的精神のことをいうのであり、女は、あくまでも、既に整えられた道を後から付いて来る受動的で保守的な面では、優れているということであったはずなのである。よって歴史が証明するように、必ず文明社会は、消極的ヒステリーの典型である、デフレーション社会に陥り、生命的活力とも言えるイノベーションを失って、ゆくゆくは、滅びてゆく運命にあるのである。要するに、社会全体が、他力本願になって、自分でどうにかしようという生きていく力が衰え、他に依存しようとする気持ちが全体を占めるようになり、社会全体が女性的になり、活力と活気が失われていくのである。これがデフレーションという社会現象なのである。