高田義裕の人生論

今日の箴言

新倫理学

万物はどれも皆、倫理によって益を得、倫理によって苦しむ。すべては倫理に従って組織されており、倫理から離れて存続できるものは一つも無い。すなわち、倫理的問題は常に倫理的に解決されなければならないのであり、倫理的問題に代替えは無い。

倫理の公理(大前提)

1.すべて労し、産みの苦しみを経てのみ、利益がもたらされるということ。

2.どんなものも、時間が経つほど、その価値は下がっていくこと。

3.楽することは出来ない。すべて働いた分だけしか得られないこと。(等価交換)

4.もし、楽をするなら、その二倍の苦しみが待っていること。

5.物事を安定した状態に保つためには、常にその二倍の努力を必要とすること。すなわち、現状維持にただ終始していると、最後にはすべて立ち行かなくなること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてが正しけれさえすれば、それで善いと思っていないか。実はそうではない。悪いことも必要なのである。物事が正しいことばかりであったら、物事は悪い方向に向かうのである。正しいとは、正しいことが正しい分だけあるということをいうのである。また、正しいとは、悪いことが悪い分だけあるということをいうのである。あくまでも、あらゆるすべてのことが存在して、初めて、物事は正しい方向へ向かい、初めて、すべてのことはうまく調和し、万事うまくいくのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

旅とは自己回帰の行為である。毎日自分のうちにいると退屈になり、どこか新しいところへ行ってみたくなる。そこで人はいわば、一時的な家出をし、旅に出るのである。しかし、旅が終わりにつく頃、人々は旅の疲れを感じながら家路に着く。すると、必ず人はこう思うのだ。やっぱり自分の家が一番だと。こうして、人は自分に家があることの有り難さを再確認するのである。人生も旅と同じである。若い頃は好奇心に満ち、野心もある。人々はそれぞれの夢への実現を求めて、住み慣れた自分の家族と家を離れる。しかし、年齢と経験を重ねるにつれ、自分の夢はそうそう叶えられないことに気付く。よって、人はここでやっぱり自分の願望を、人との競争を通して無理に押し通そうとするよりも、人と仲良くし、人と人との平和な共存を築いていくことが、一番人間として大事なことだということに気付くのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は外見で判断できない。すなわち、私達の周りには意外な人間が意外なことを考えているのである。極論で言うならば、善人のように見える者は、心の中では悪いことを考えており、悪人のように見える者は、心の中では善いことを考えているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分は義にかなっていると思っている時点で既に義にかなっていない。また、自分は義にかなっていないと思っている時点で既に義にかなっている。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何事にもうまくいっていない者は幸いである。なぜなら、彼は本当の現実とは何かを知ったからである。また、何事もうまくいっている者は災いである。なぜなら、彼は本当の現実とは何かを知らないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世に汚いというものは存在しない。ただ各人が汚れていると見なすものが初めて汚いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

組織と個人

まず個人の長所を見ていこう。そこには本人一人しかいないので比較的物事の用い方を自分好みに自由に設定でき、かなり融通がきくであろう。例えば、彼がクリスチャンならば自分の好きな時に聖書を読んだり、神に祈ったりできる。そこに第三者のしがらみはない。彼のクリスチャンとしての努めをきちんと果たせる責任感や自主性があれば、たとえ聖書では非とされているこの世の政治問題にも関心を持ってテレビを見たり、その手の本を読むことも自由である。それは罪とはならない。しかしここで個人の短所を見ていこう。個人は自由である分、クリスチャンとしての責務をただ自分の意志次第で左右されやすいため、持続意志の弱い人は、つい自分の弱さに負けてクリスチャンとしての責務をおろそかにしてしまいがちである。また、クリスチャン活動を行うにしても、すべて自分が担当し準備し、行わなければならないので、非常に大変なことになって、途中で挫折してしまう危険性が多分にある。次に、組織の長所を見ていこう。組織は一人だけでなく多くの組員がいるので、組織としての責務をみんなで協力して比較的スムーズに運んでいける。また、組織の決まり事を実行する上で、たとえ持続力的意志が弱い人がいても、他の成員が彼をサポートし、一緒に助け合いながら責務を全うすることができる。次に、組織の短所を見ていこう。多くの人を組織として一つにまとめるためには、必ず全員に共通して守らねばならない規範、また規律が必要不可欠である。例えば、それがクリスチャンの組織であるとするなら、聖書を読んだり、神に祈ったりする時に、一人一人が勝手にするならば、それは統率が効かなくなって集団は分裂してしまう。要するに、個人個人の融通が利かなくなるのである。そういう意味においては、はるかに個人にとって不自由なことである。また、個人個人には能力の差があり、責任感の非常に強い人もいれば、非常に弱い人もいる。そうした場合、組織の一員としては能力の強弱に関係なく、すべての成員が一番能力の低いレベルに合わせなければならないのである。すなわち、前半に出てきた、たとえこの世の政治問題に関心を持っても罪とはならない人でも、一切この世の政治に関する資料や情報を閲覧してはならないという全体主義がはびこってしまうということである。すなわち、個人の権利が損なわれてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今日は少し、経済学について考えてみましょう。

資本主義の限界

現在、西暦2018年1月6日において経済社会は大きな曲がり角に来ている。ゼロ成長、マイナス金利、デフレ型不景気において、経済は大きく低迷している。ここで気をつけたいのは、これは、どの時代にでも訪れる単なる不景気ではないということである。現在の景気低迷は資本主義という原理そのものに限界が来ていることを示す非常に深刻な問題提示なのである。資本主義の原理とは、利潤追求の飽くなき欲望ということもできよう。すなわち、多額の金を持った投資家が成長の見込める企業に資本を提供し、その代償として利益を得ることである。簡単に言えば、自分の手元に、出来るだけ多くの金を貯め込むことにあるのである。すなわち、より多くの富を得ようという意思が現在の資本主義経済を動かしている原動力である。しかし今日、この原動力そのものが働かなくなってきているのである。これは何かというと、もはや利潤を追求できる分野が無くなって来ていることを示している。要するに時代の趨勢が幼年期から熟年期、そうして老年期に来ているということである。いわゆる開拓地が無くなり、人が草を食い尽くし、どんどん砂漠地帯が増えてきているということである。しかしこれはあくまでも、表面的原因でしかない。もっと深くて原理的原因がある。それは儲けようとしている態度にこそあるのである。本来、富を得ることそれ自体が罪なのである、と聖書は述べている。どんな食物でも放っておけば、必ず腐って食べられなくなることが自然な物事の摂理ではなかろうか。しかし貨幣はどれだけ放っておいても腐ることが無く、幾らでも貯めておける。これは本来の自然の姿からは、かけ離れている。すなわち非常に不合理なものなのである。本当なら貨幣もある程度貯まったり時間が過ぎれば、価値が無くなるものでなければならないのである。よって資本主義の成れの果ては、一握りの人々が天文学的な額の金を持ち、大半の民衆は、明日の食事も事欠くほどの貧民となる。貨幣という紙切れは有り余るほどにあふれるが、決して全体には行き渡らない。要するに、誰も汗を流さないで食物を得ようとする状態のようになるのである。要するに近い将来、金を払っても誰も働いてくれなくなるのである。要するに、金は全くの価値が無くなり、貨幣という紙切れは元通りに紙切れに帰るということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

新貨幣論

お金持ちは1対1対応ではないことを以前に示した。すなわち、一人の人間が何十億、何百億とお金を持つのがその状態であるから、これを数字で表すと、1対1000000000であったり、1対10000000000であったりするということである。ここで一人の人が一万円しか持っていないのであれば、これは1対1対応であるということができる。ここで1から1を割り算すると、1÷1=1であり一万円は一万円の価値を持つ。しかしここで一人の人が百万円持っているとすると、1対100となり、これを同じく1を100で割ると、1÷100=0.01となり、百万円が100円の価値しかないことになる。そう、一人の人間が多額のお金を持てば持つほど、そのお金の価値は低くなっていくのである。