高田義裕の人生論

今日の格言

罪の報いは死である。

あらゆる忌むべき不義に対する至高者であり、聖なる方である神エホバの倫理的事柄に対する公正さは、我らに対して死の宣告だけであり、すなわち、その中には、どうせあなた方は死ぬ立場にあるのだから、それまではお金儲けをしようと、性的快楽に身をゆだねようと、なんにせよ、自分達の望むままに生きよ、というニュアンスが含まれているのである。要するに神は人間がどれだけ不義を行おうとそれ以上咎めたり、とどめたりはされないが、その代わり、もし誰かが災いに陥った時、それ以上助ける事もされないのである。なぜなら最初の人類の方から神に頼る事を捨てたからである。よって今の人間は、自分達が災いに陥った時には自力で解決して行かねばならず、自分にとって神の代わりとなる助けを必死で模索していくしかないのである。これこそが、もし神がおられるのなら、なぜ今苦しんでいる人達を助けないのか、というもっともな疑問の答えとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物事を知れば知るほど、自分がいかに何も知らないかが分かってくるように、人は目標に向かって頑張れば頑張るほど自分の望む十分の1も実現出来ない事がひしひしと感じ取れるようになるのである。

2.この世の中におよそ不可能として固定されているものなど1つとして無いのである。これはこの世の中におよそこれは可能であると固定されているものなど1つとして無い事と同じである。ただある者がある対象に対して、それを不可能であると見なした時、それはその者に対してだけ、不可能なものとなるのであり、また、ある者がある対象に対してそれは可能であると見なした時、初めてそれはその者に対してのみ、可能なものとなるのである。なぜならこれは不可能であると確実に証明出来るものはこの世の中には無いし、また、これは可能であると確実に証明出来るものもこの世の中には無いのだから。すなわち、それがあなたにとって不可能なのは、あなたがそれを可能にする意欲が無いだけであり、それがあなたにとって可能なのは、あなたがそれを可能にする意欲があるからなのである。すなわち、すべては気持ちの問題であり、気持ちの持ち方でこの世の中はどうにでも変わるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

もし私達人類が運よく奇跡的に全面核戦争を回避できたとしたら、私達の将来は明るいであろうか。いや決してそうはならない。なぜならもし、核戦争後の未曾有の無秩序世界が成立したとしたら、それはその方がまだマシかもしれない。なぜならそこには何も無いが、自由はあるのだから。この先、我々の社会はどう変化して行くだろうか。それは秩序という名のがんじがらめの超監視社会になるからである。昔の人は今で言う職場でのパワーハラスメントを常に受けていた。それでもそれは今と違って、上司や師匠から怒られたり、殴られたりする事は当たり前だという認識があった。なぜなら、現在の我々の生活よりも昔の人々の生活が非常に苦しかったからである。当然、物心ついたときから、自分の親からきつい体罰を受けて育ったし、何しろ貧しくて食べるのにも困ったから、それに耐えるのに、ものすごく根性が自然と鍛えられていたのだ。よって少々の事ではめげないサバイバル力(生きる力)が今の我々よりも何十倍も強かったのだ。我々の世代はどうか。我々は物心ついたときから、比較的、何不自由無く、貧しくも無く、恵まれて育ったのでは無いだろうか。私自身、食べる物が無い、という経験はまだしたことがなかった。普通に暮らしていけたのだ。当然そのように恵まれた環境にいたのだから、根性が鍛えられるという事も無く、甘ちゃん(suger)に育った。しかし我々は社会人になって仕事をするようになると、事態は一変した。職場が無茶苦茶厳しかったのである。今まで楽して生きていた分、それが余計にこたえたのである。私達は日々、上司や師匠から、罵声を浴びせられ、時にはかなづちや包丁が飛んできた事もあった。私達はそれに憔悴しきって精神を病んだ。今は昔とは全く事情が違うのである。昨今はパワーハラスメントで鬱病になり、自殺した者も多くいる。私達は昔の人達より根性が無いのだ、と言われてしまえば、それまでなのであるが、そうもいかない。やっぱり既に時代は変化し、親は子供に体罰すると逮捕されるし、部下を怒鳴りつけて仕事を覚えさせる事はもはや悪なのである。この様に人間は徐々に肉体的にも精神的にも弱くなっていくのであり、昔は問題視されなかった事が今では大きな社会問題になってきているのである。例えば、あるスーパーマーケットに客が買い物に来て、店員の接客態度が気に食わず、大声で罵倒した。いわゆるクレーマーである。昔はお客様は神様であり、何を言われても店員は謝るしかなかったが、今はもう違う。あまりにも客のモンスター化に店員達はキレて逆に客を怒鳴りつけた。それが社会問題化し、国はクレーマー法というものを作って、あまりにもひどい事を言う客には懲役刑を与える事にした。そしてこの難しいストレス時代、みんなストレスを溜め込んで、それを発散させるために、人と人とが激しく怒鳴り合うケースがどんどん増えた。それで政府は事細かに規制を作り、人の事を何でも悪く言う事はもはや犯罪であるとみなし、それをする者には懲役刑を課すようになった。すると人類社会は皆怯えて、何も言えなくなった。そう、憲法に言論の自由が保障されているにもかかわらず、人々は自分の考えや感情を表に出す事自体が悪とみなされ、普通の会話さえ出来なくなったのである。当然、隣の家に怒鳴り声でも聞こえようものなら、隣人が警察に密告する事も珍しく無くなった。これにより、すべての人間関係はギクシャクし、人々はお金を払って、日頃のストレスをぶちまけられるストレスルームが大繁盛した。どうであろう。この先、我々には自由に生きる事も出来ないような事細かな法律という規制の犠牲者となっていくのである。すなわち超監視社会の誕生である。要するにどっちに転んでも、ろくな社会にしかならないのである。この事を今から予想し、それを避けるための知恵を私達は振り絞らなければならない。

高田義裕の人生論

今日の格言

(問題 )  現実とはどう定義できるかを述べなさい。

(答え)   まず、現実でもなければ、非現実でもないQを仮定する。また、現実でもあり、非現実でもあるPを仮定する。また、現実であるRを仮定する。また、現実では無いSを仮定する。これらを全部足して、Q+P+R+S=Uと定義する。またUで無い-Uを定義する。そしてUでもあり、-UでもあるXを定義する。また、Uでも無く、-Uでも無い-Xを定義する。そしてXでもあり、-XでもあるΩを仮定する。また、Xでも無く、-Xでも無い-Ωを定義する。これが無限に続く。ここで、すべての要素をΨとする。すなわち全集合Ψである。ここでΨからRだけを取り出したいわけだから、Ψ-S=Rとなる。よってR=Ψ-Sであり、Sは現実では無い要素だから、アンチRと置ける。よって現実であるとは、R=Ψ-アンチRである。これを移行して、全集合Ψ=R+-アンチRとなり、-アンチR=Rであるから、すべてΨ=2Rである。よって、R=2/Ψとなる。よって結論として、現実とは全部を2で割ったものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界中の愛する読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。高田義裕です。皆さんは新年をどのようにお過ごしされていますか。私は独り者なので、ただただ、孤独に私の愛するペットの犬や鳥たちと一緒に過ごしております。さて2020年となった今年、果たしてどのような年になりますでしょうか。私はクリスチャンなので、早速、唯一の神エホバにお祈りを捧げました。去年はアメリカと中国の経済戦争がありましたし、日本も台風や豪雨で散々なひどい目にあいました。世界各地で自然災害が起きています。新年そうそう申し訳ないですが、今年の行方を占ってみますと、今年は去年以上に大変な年となります。この世界秩序は激しく揺り動かされ、ますます混迷を深めていきます。そうです、私達人類は今年を境に未曾有の恐ろしい未知の世界に足を踏み入れるのです。人類は皆、平和を望んでいるものの、ますます人類社会は分裂し、争い、人々は互いに憎み合い、殺しあうでしょう。そうです、今は対処できない危機の時代であり、我々はこれから起こる事柄の苦しみを予想して気を失うほどになります。なぜならこの世界の終末は近いからです。よってこの現時点で喜んでいる者は悲しむ事になります。また、この現時点で悲しんでいる者は喜ぶこととなるでしょう。よって今喜んでいる者は悲しむふりをしましょう。富を持っている者は富を持っていない者のように振る舞いましょう。それは私達が突然罠にかかり、苦しみうめかないようにするためです。人々の格差はますます広がり、勝ち組と負け組に分けられていきます。負け組にならないためにも今の厳しい現実に逃げ切れるようになりましょう。そうです、今は逃げ切れた者だけが生き残れるのです。まさにすべての人に試練が臨み、生きるか死ぬかという極限状態となるでしょう。常に神に祈りましょう。なぜ人間社会はこのようにますます荒れ廃れ、荒廃していくのでしょうか。それはこの世界の支配者、悪魔サタンがもうすぐ神によって自分が滅ぼされるのを知っていますから、激しい憤りを抱いて、できればすべての人類を自分と道連れにしようと躍起になっているからです。そうです、今の私達は皆、隣人に対して愛するという気持ちよりも憎しみの気持ちを抱いているからです。私達は毎日イライラしています。腹がたつ事も多くなりました。ちょっとしたことで短気になり、粗暴な性格になっています。これが問題を生むのです。これこそ、悪魔サタンが私達に怒りをぶちまけている事の証拠です。私達の人間社会は今非常に暴力的になっているのです。ぜひ、ここで温和さを示し、問題を生じさせることなく、逃げ切りましょう。そうです、粗暴な性格を捨てましょう。そうすれば、生き残れます。まさに聖書にこう書かれています。パウロによるテモテへの第二の手紙3章1節から5節、[このことを知っておきなさい。終わりの時代には困難で危機的な時代となります。人々は自分を愛し、お金を愛し、自慢ばかりし、傲慢で、神や人を冒涜し、親に従わず、感謝せず、不忠実になります。自然な愛情を持たず、全く人に同意しようとせず、中傷し、自制心がなく、乱暴で、善いことを愛しません。人を裏切り、強情で、思い上がり、神ではなく快楽を愛し、信心深く見えても実際には神を敬ってはいません。こういう人たちから逃げ去りなさい。]どうでしょう、まさに今現時点の我々の状況を言い当ててはいないでしょうか。ぜひ私達は日々忍耐し、自分の心の奥底からムラムラと生じてくる憎しみの感情を消し去りましょう。そうすれば私達はなんとか生き残れます。それでは皆さんと共に神に祈りましょう。天におられます、私達の父なる神エホバよ。私達は日々問題に直面しております。毎日、生きるのが精一杯で何の余裕もありません。私達は苦しんでおります。世界中には今この時も試練と患難に遭って苦しんでいる者達が大勢おります。どうか、この私達に力をお与え下さい。そうしてどうかこの試練から私達を救い出して下さい。私達人類がどうか一致しますように。あなたは全能者であられますから、すべての苦しむ人々を救うことがお出来になります。今こそあなたの御力を現し示して下さい。どうかすべての者があなたを崇拝しますように。そして人類を滅びに至らせないでどうか救い出して下さい。これらの言葉すべてをあなたの愛する独り子、御子イエスキリストの尊い御名を通してあなた、唯一まことの神であるエホバに私達はお祈り申し上げます。アーメン。

高田義裕の人生論

今日の格言

不正を行い続ける者達の末路

2019年12月27日、世界のすべてを支配する、すべての国々の上層部達は皆、ほとんどが不正を働いていた。彼らは自分達の都合の良い支配をしており、公共事業と称しては勝手気ままに国の予算を組み、その税金の上前をピンハネし、自分達がさも仕事をして報酬を得ているように偽装し、実際は自分達の下請けに割りの合わない低賃金で仕事を丸投げしてボロ儲けしていた。実際に仕事を請け負った会社や従業員達はひどい苦労を強いられ、毎日ギリギリの生活で死ぬまで働かされていた。ある時、ふとした事がきっかけで上層部の不正が明るみに出て、国民に知れ渡る事となった。それでも上層部達は本当に不正を働いた偉い連中はこれを明るみに出さず、上辺の形だけの改革と称して、自分達よりはるかに身分の下の部下達に責任者と偽って辞任させ、国民を欺いていた。それでも上層部達は国民にそれがバレている事も重々承知していたから、次の責任者に一般市民から応募して選ばれた人を代表取締役として置いた。そして上層部はその選ばれた人を観察したのであるが、その人はとても人の良さそうな温厚なおじいさんであった。しめしめ、こんな弱々しいジジイなら、いくらでも騙し通せると思って、一応そのおじいさんに仕事を発注させる権限を与えた。するとそのじい様は、世界各地からいろんな仕事を発注してきた。しかし、一応そのじい様に報酬を与える権限も与えたので、今回はピンハネする事は出来なかったが、上層部達はそのじい様に言った。代表取締役様、私達はあなたの発注してきた仕事を私達自らの手で一生懸命行います。そう言って、じい様に偽りの返事をして、いつもの通り、自分達は何もせずに、自分達の下の奴隷達である会社や従業員に仕事を丸投げした。さてさてそれから何年かが過ぎ、下の奴隷達が上層部に仕事が完了した事を告げた。すると官僚達は喜んで、早速その代表取締役であるジイさんに仕事が完了した事を報告した。それでまだ彼らはじい様から報酬を得ていなかったので、仕事が完了した暁にその報酬をじい様に要求した。すると、そのじい様は何と意外な答えを言い出したのだ。あれあれおかしいのう、私はちょうど今日から一ヶ月前にその報酬を仕事をした者に与えたはずじゃ。もう報酬は払い終えてしまったので、もうあなた方に与える報酬は無いのじゃが。それを聞くと上層部達はえっと、慌てふためいて、いやいや私達は確かにこの手で仕事を全部行いました。しかし私達はまだあなたから報酬は受け取っておりませんと。するとじい様は言った。あなた方は確かにその仕事を自分達で行ったのだな。すると上層部は、はい、確かに行いました、と言った。するとそのじい様は言った。私は確かにその仕事を完了した場所に報酬を置いてきた。本当に仕事をしたのなら、とっくにその報酬がある事に気付いているはずじゃ。それを聞くと上層部達は早速ジャングル奥地の仕事が完了した場所まで出向いた。するとそこには光輝く金の延べ棒が幾十にも重ねて積み上げて置かれているのであった。そしてそこには何といつの間にやら、自分達の下の奴隷達である会社の従業員とじい様が先にいるのであった。そしてそのじい様は後からきたその上層部の者達を見ると、何とその温厚な表情は消え去り、阿修羅の如く、怒る鬼の形相になって彼らに言った。この偽り者どもよ、あなた方自身の口から私は確かにあなた方の偽りを証明した。本当に仕事をした者達はこのおまえ達の奴隷の従業員達ではないか。私は一ヶ月も前から、その奴隷達から、仕事を終えた現場に金塊がある事を聞かされていたのだ。それで実際に仕事を終えた者はこの金塊にすぐに気付いたはずじゃ。しかしあなた方は2度も私に報酬はまだ受け取っておりませんと私に言った。あなた方は確かに不正を働いた事を自らが証したのだ。それを聞くと上層部達は震え上がり、何の言い訳もできず、そこに突っ立ったままになった。するとじい様はそこでカメラに向かって国民に直接語りかけた。見なさい、国民の皆さん、今まで彼らは自分達がさも働いたように見せかけて、実際はその奴隷達をこき使い、報酬だけをピンハネしていたのだ。私はまさに今ここで国民の皆さんに証する。すると国民は皆、どよめいて、彼らを杭につけろ、杭につけろと呼ばわった。それを聞くとじい様は微笑んで、国民の皆さんの言う通り、私は彼らを杭につけるか、全財産を没収させるかを選ばせます、と。それで遂に今まで美味い汁を吸って来た上層部達は杭につけられるか、全財産を没収させるかの選択を余儀なくされたのであった。そうして上層部のある者達は杭につけられ、またある者達は全財産を没収されたのであった。そうである。このじい様こそ、実は人類を最後の審判にかける唯一まことの神エホバなのであった。そうして最後には神はすべての者に真実を明らかにし、公正で義なる裁きを人類にお与えになるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

最大の利得

あなたはあるホテルの一室に案内される。そして中に入ると、シャワールームは綺麗に掃除されており、シャンプーや石鹸も所定の場所にきちんと置いてある。トイレには香水が漂い、バスタオルや歯磨き粉や歯ブラシも洗面台の綺麗にされた鏡の横の戸棚にきちんと整理されている。またあなたはリビングを見ると、ソファーが綺麗に並べられていて、そこからちょうどいい距離で見やすいようにテレビが置いてある。あなたはこれを見て非常に居心地よく感じ、リラックスした気分になった。ところであなたはこのホテルの部屋の中が放っておいても勝手に椅子や机が自動的に動いてきちんとした場所に設置されたものだと思うだろうか。そうは思わないだろう。このホテルの部屋の隅々がきちんと清掃され、整えられているのは、あなたがこのホテルの部屋に来る前に清掃員が汗を流して一生懸命に掃除し、椅子を移動させ、机を並べたに違い無いのである。そう、そこには時間と手間ヒマとお金がかかっているのである。これと同様に、あなたはこの私達の生きる世界が、初めから整えられていて、自分の使い勝手の良い状態に既に整理されていると思っていないだろうか。その証拠に私達はいつもの日常生活で常にイライラし、ストレスを感じ、怒りをぶちまけているのではないだろうか。この精神状態がなぜ生じているのかと言うと、それはこの世界の諸事情がすべて初めから整えられていると思っているからなのである。すなわち、私達は知らず知らずのうちに物事は常にうまくいって当たり前だと思っている証拠なのである。それは先ほどのホテルの部屋が最初から整えられているのは当たり前である、と思っている事と同じである。そうではないのだ。物事がすべて初めから整えられているためには、誰かが、汗を流して一生懸命に清掃し、手間ヒマをかけてお金をかけて、苦しい労働をして働いた結果として物事は初めて整えられ、うまくいくのである。すなわち私達のストレスの原因、苦しいと感じる心の原因は世の中とはうまくいかなくて当たり前なのに、勝手に自分でうまくいって当然だという前提で物事を考えているためである。そのうまくいって当たり前という前提とうまくいかないという現実のギャップが私達の心に苦しいと感じさせるのである。例えば、あなたは車を運転していて自分がスムーズに進める事は当たり前だと思っているから、突然横から車がはみ出してきたり、前の車が急に減速したりすると、無性に腹が立ってイライラしてクラクションを鳴らすのである。そこで私達はこの態度をぜひ改めよう。最初からすべて整えられているはずはないのである。むしろ世の中はいろんな人々が好き勝手に考えたり動いたりしているのであり、そこには整理されているなどとは程遠い、無茶苦茶な状態、ごちゃまぜの状態と言えよう。すなわち心のあり方を全面的に改めるのである。それはうまくいかなくて当たり前だと常に思う事である。そう、世の中うまくいかなくて当たり前だと認めれば、たとえ車が急に飛び出してきてもそれはしょうがない事だと割り切れるのであり、そこに精神的ストレスは起こらない。もしうまくいっても、本来ならうまくいかなくて当然なのに、うまくいった事を当たり前だと思わず、むしろラッキーだと思って感謝の念さえ生じるのである。すなわち物事は常に自分に都合よくできている自分中心的価値観を捨てるのである。すなわち古代の地球を中心に太陽や惑星は回っているという天動説ではなく、地球が太陽の周りを回っているという地動説に頭を切り替えるのである。このように自分達が中心であるという中世のキリスト教の思考を捨てて、むしろ世の中の事情に自分の方から動かねばならないというコペルニクス転回に発送を変えるのである。この生き方の姿勢こそが最大の利得なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

大学の入学試験で、マークシート式のテストがあるとしよう。問題の答えとしてABCDの4つの選択肢の中から正しい答えを1つ選ばなければならない。ここで、あなたは全く今まで勉強してこなかったので、何をどう答えたらよいか、さっぱりわからない。この時、一番試験で点数を稼ぐためにはどうしたらよいか。試験というものは、答えの選択肢が偏らないように、選択肢のABCDの4つの正解率も均等になるようバランスを取ってある。すなわち全体を100%とすれば、ABCDの4つの正解率は、100%÷4=25%になっているのである。それではあなたはそのABCDの中から好きな文字、1つを選んで解答欄にすべて同じ文字を書けばよいのである。例えば、選択肢のABCDの中からAを選んで、すべての問題の解答欄にAと書けばよいのである。そうすればもし問題が100問あれば、あなたは確実に100問あるうちの25問は正解を取れるのである。これが答えが分からなくても一番試験の点数を稼ぐ方法なのである。人生も同様である。私達は人生という試験において、いろんな問題に直面するが、その解決方法を全く知らない。それでは人生という試験において一番正しい決定を下してより人生を成功へと出来るだけ近づけるにはどうしたらよいか。人生というものも面白いもので、成功する為の条件はすべての人に公平になるように、やはり選択肢に偏りが生じないようほぼ同じ確率で正解率が分布している。よって私達は今後生きていく上で数ある選択肢の中から自分の好きな選択肢をただ1つ決めるのである。すなわち、どんな問題に直面したとしても、自分が選択した1つの行動姿勢というものを貫き通すのである。例えば、4つの選択肢があるとして、1つは[褒める]という態度、また1つは[許す]という態度、また1つは[謝る]という態度、そしてもう1つは[感謝する]態度である。すなわちどういう問題に直面しようとも、それに対処する自分の気持ちを1つに絞ってそれを貫き通すのである。よってもし自分の好きな選択肢を[感謝する]という態度に決定したならば、上手くいった時は感謝する事はもちろんのこと、たとえ物事がうまくいかなくても常に感謝し、苦しみや悩みがあっても常に感謝し、被害にあっても常に感謝するのである。すると次第に生きていく上での軸がぶれずに何事が起きても常に感謝するという人格が形成され、1つの型が出来上がる。こうなればしめたものである。あなたは周りの人達からこの人はどんな事があっても常に感謝する素晴らしい人だ、と認知されるようになり、あなたのそのぶれない態度に誰もが惹きつけられ、信頼を得て、徐々に人生を安定して歩めるようになるからである。これによって、人生の試験という問題に正解する確率が高くなっていくのである。すなわち人生を渡って行く故で一番大切な事は、自分の人格特性を1つに絞ってそれを常に継続させる事によって、他の人からの信頼を得る事が人生を成功へと導く一番近い方法なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神を信じるという事はどういうことか。

一神教である神エホバを信じる、ある小さなキリスト教の一派があった。その組織では戒律が厳しく設けられており、クリスチャンとして認められるにはその厳しい掟を順守していなければならなかった。その具体的内容は、淫行してはならないこと、姦淫してはならないこと、盗んではならないこと、キリストの平和の精神に基づき、アクション映画などの暴力的映画や戦いやバトルを楽しむテレビゲームはもちろんのこと、ポルノも見てはならなかった。喫煙もできなかったし、自分達仲間以外の異教徒と親しくする事も禁止されていた。しかしある1人の成員が、この戒律の厳しいことにうんざりし、もともと自分が好きだったアクション映画を仲間達に内緒で見るようになった。しかし彼は一神教の神エホバのことは好きで熱心に信じていた。ただ、彼は自分の愛する善良で優しい父である神が、このようながんじがらめの厳しい戒律を信者にお求めになる事は父の御意志ではないと信じ、次第に自分の宗教組織の運営の仕方に疑問を感じるようになったのである。しかしある時、彼はいつものように映画館に行き、映画を見終わった際に外に出た時、あろうことか、自分の宗教組織の成員である1人の友人にでくわし、自分が暴力的映画を見た事がばれてしまったのである。当然それは宗教組織としては重要問題なので、それは審理にかけられ、彼の行動をどう処罰するか、幹部達の間で話し合いが持たれた。その結果、彼はその暴力的なアクション映画を見た事は組織にとって、甚だ由々しい事ではあるけれども、彼自体は熱心に神を信じている事も考慮に入れ、今回だけは処罰する事はせず、厳重注意で済む事になった。この結果を聞くと、組織の厳しい戒律を常に従順に守ってきたクリスチャン成員達は何で彼だけは特別扱いされて何事も処罰なく済んだのか、という事で文句を言い始めた。彼が組織で禁止されている事をしても許されたのであれば、私達が一生懸命に組織の決まり事を守ってきた事は本当に無駄な事であり、そんなくらいなら、私達にも映画を自由に楽しんでも良いのではないかという不満の声が挙がったのである。

(解説)

一神教は多神教と違って、確かに守るべき戒律は厳しい傾向にある。神を熱心に信じる信者達は神を愛するゆえにその厳しい戒律を守ろうとする。すなわち、その神の御意志である神の掟に従順に従う者が、神に喜ばれる熱心で模範的な立派なクリスチャンとして認められるのであると理解するわけである。そして先ほどの例にもあるように、その神の御意志である戒律を守らなくてもそれほど咎めを受けなかった同じ信者が出た場合、その厳しい戒律をきちんと守ってきたクリスチャン信者にとって確かに不満の声が挙がるのはよく理解できる。しかし、ここで問題なのは、神を愛する事が、厳しい戒律を守ることと同一視されている点である。すなわち神を愛する事の本質は、神を愛する本人と神との間の親しい個人的関係にあるのであり、他の人がどう行動したかという事に影響しないのである。すなわち私の言いたい事は、神を信じるという事は自分達の定めた厳しい戒律を守る事という事とは全く関係性がないという事である。すなわち知らず知らずのうちにその厳しい掟を順守する事が神を愛する事よりも優先され、厳しい戒律を守れる者は正しいクリスチャンであり、それを守れない者は悪いクリスチャンであるという考え方にすり替わっているという事である。それこそ他の人を裁いてはならない、という神の最も重要で愛ある御意志に反する考え方である事を彼らは気付いていないのである。もし、自分は従順に神の掟を守ってきたのに、その掟を破った仲間のクリスチャンを妬むとするなら、その人は本当に神を愛しているのでは無く、その厳しい掟を守る事が目的となってしまっており、真のクリスチャンではない事を自ら証しているのである。すなわち、本当のクリスチャンとは、他のクリスチャンがどう行動するかに関係無く、また、神の掟を守る事が立派なクリスチャンであるという差別意識も持たない自立したクリスチャンでなければならないという事である。すなわち神を愛しているゆえに仕方なくその厳しい戒律を守っているとするならば、それはもはやクリスチャンではなく、むしろ自分で自分を欺いている偽のクリスチャンなのである。真のクリスチャンは神の掟をしぶしぶ守っている人なのでは無く、自ら神の掟を愛して、それを率先して守っている良心によって、それを固く守る人でなければならないのである。よって真のクリスチャンは自分達の掟を破った仲間のクリスチャンを妬むどころか、むしろその仲間のクリスチャンを深く同情し、快く許す人でなければならないのである。それこそ本当に神を信じるという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

不完全性定理

我々のこの現実世界は本当はバーチャル(仮想現実)なのか、本当のリアル(現実)なのかを証明する事は出来ない。なぜなら、もし、我々のこの世界がバーチャル(仮想現実)ならば、本当のリアル(現実)が我々の空間の外側に必ずあるはずであり、それを確認する術を我々は持たないのである。例えば、ある部屋があって、私達はその中にいるのであり、外側に通じる扉があるのであるが、この扉は外側にしか鍵穴がなく、内側からは開けられないようになっているのと同じ事である。また、もし、我々のこの世界がリアル(現実)であるならば、私達は偽物のバーチャル(仮想現実)が確かに存在する事を証明しなければならない。しかし、我々のこの世界以外のバーチャル(仮想現実)が存在する事を証明できる術を我々は知らないのである。よってどっちにしろ、ゲーデルの不完全性定理のように、数学全体が無矛盾である事を数学自体が証明出来ないように、我々はこの自分達の生きているこの世界が、無矛盾である事を我々自体は証明出来ないのである。その意味において、私達のこの世界は本当はバーチャル(仮想現実)なのか、リアル(現実)なのかは分からないのである。すなわち逆に言えば、我々の住むこの世界はバーチャル(仮想現実)であるとも言えるし、リアル(現実)であるとも言えるのである。