高田義裕の人生論

今日の格言

偉大な人とは誰か。

才能があり、頭が良く、仕事が出来るエリートよりも、人の話をよく聞き、誰の事も悪く言わず、人の気持ちをくみ取る事の出来る心の低い者の方がより偉大であること。

2.何ら非とするところが無く、自分に修整すべき悪いものが何も無い善人よりも、自分の非とするところを指摘されてもそれに腹を立てず、その指摘を謙遜に受け入れ、自分の過ちを認め、それを直そうとする悪人の方がより偉大であること。

真の愛とは何か。

真の愛とは、普段は他の人の話をよく聞いてあげて、お節介にも他の人の悪い部分を指摘してそれを直してあげようとする様な尊大な態度は全く無く、ただその人が困った時にだけ行動に移して援助してあげる事だけが、真の愛なのである。真の愛はお節介でもなければ、恩義せがましくも無いのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

理想と現実の格差が大きいほど人は嘆きもすれば、また、奮闘もすること。

2.正常と異常との狭間で人は奮闘し、そこから自分にとっての正しさを確立して行くものであること。

3.[誇る]とは、[一方を重んじて他方をあなどること]であること。しかし真の知恵はすべての方向に目を向けている。すなわち真の知恵とは[謙遜]であるという事である。

4.本来、生きるという事は人格的存在であるであるということ。よって人間関係に勝る権威や力は一つとして無いこと。よってその中で最大のものは人と神との親密な関係であること。よってこれらの関係によって生じ得る力よりも勝るものなど何一つ見つけられないこと。

5.実は神が直接創造されたもの以外は何一つ必要無いこと。すなわち人間の創造したものはすべて害悪を生じさせること。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)    最も遠い場所はどこか。

最も遠い場所はどこか。それは宇宙の果てだろうか。それとも超ミクロの素粒子の世界であろうか。例えで考えて見よう。まず地球を考える。地球は丸い。自分の立っている位置から最も遠い距離数である場所はどこか。例えば、私が日本に住んでいるのなら、一番遠いのは日本の裏側であるアメリカ大陸か。実はそうでは無い。実はあなたから最も遠いのは、あなたの右からの距離で言うと、あなたのすぐ左側なのである。また、あなたの左からの距離で言うと、あなたのすぐ右側なのである。そうなのだ。あなたにとって一番遠い場所は、あなた自身が今立っている場所なのだ。すなわち地球をぐるっと360度回って来た距離数が一番長いのであり、それは今あなたの立っている場所なのである。よって人生においても、あなたにとって一番遠い存在とは何か。片思いの異性か。死んでしまった両親のことか。あなたの思い描いている理想のことか。仕事で成功することか。いずれも違う。あなたにとって一番遠い存在はあなた自身なのである。そう、実現できそうにも無い理想や目標があなたにとって一番遠い存在なのでは決して無く、あなた自身があなたにとって一番遠い理想なのである。すなわち、あなたの人生であなたが目指すべきものはあなた自身であり、あなたの人生の主役はあなた自身なのである。あなたは自分以外のあなたの憧れるスポーツ選手や、アイドルや手の届かない異性や、有名俳優などに成りたいと思って、彼らを理想とし、自分から最も遠いものとして見ていないか。それはあなたは騙されているのである。他の人の儲けようようとする商法にまんまと引っかかっているのである。あなたはせっせと自分とは全く関係の無い赤の他人のために酷い思いをして稼いだお金や自分の貴重な時間をそのスポーツ選手や有名人のポスターやグッズやDVDやいろんな商品を買う事によって狡猾でずる賢い商売の仕掛け人のカモになっているのであり、搾取されているのである。よってそんなくだらない事はもう止めて、あなたはあなた自身のためにあなたの貴重な時間とお金を投資せよ。自分のためにお金と時間を使え。なぜならあなたが存在して初めてあなたはこの全世界にいられるのであり、あなたにとってあなたの存在があればこそ、あなたにとってのこの全世界も存在するからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生とは、異性に対する条件や理想が高過ぎて、高望みしているうちに結婚適齢期を過ぎてしまう女性に似ている。すなわち、人生とは何かを考えているうちに人生は終わってしまう。

2.いい女を欲しかったら、いい男にならなければならない。いい男を欲しかったらいい女にならなければならない。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理法則1

正しさとは、一対一対応の事である。すなわち一つの必要に対して必ず一つの対応を与えるのである。

悪とは、一つですべての必要を満たす事である。すなわち一つですべての事を賄おうとする事である。

正しさとは例えば1人の男子に対して必ず1人の女子を与える事であり、一夫一婦制の事である。

悪とは例えば1人の男子に対して、10人でも100人でも女子を与える事であり、一夫多妻制の事である。

(解説)

一つですべての事を賄えればそれに越した事は無い。すなわちオールインワンである。しかし現実はそんなわけにはいかない。例えば家を建てる時、あなたはかなづち一本で家を建てられるだろうか。いや建てられない。なぜなら家を建てるには、木を切るノコギリがいるし、釘を打つかなづちもいるし、木を削るかんなもいるのである。すなわちかなづちで木を切れるわけが無いし、かなづちで木を削る事も出来ないのである。すなわちある必要に対して必ず一つの対応を与えて初めて家は建つのである。すなわち一つの事で多くの事を賄おうとして欲張ると言う事、例えば、歯が痛い患者にもお腹が痛い患者にも目が痛い患者にも全く同じ薬を出す様なものである。やはりここでも一対一対応で、歯が痛い患者には歯の痛みを治す薬を与えねばならないし、お腹が痛い患者にはお腹の痛みを治す薬が必要であるし、目が痛いなら、目薬が必要なのである。すなわち儲けようとする事は悪なのである。なぜなら人は一人一人違うのに、支配者は一種類の知識なり、食事なり、道具しか与えず、それで暴利を貪っているからである。やはりここで正しいのは一対一対応であり、人間一人一人に対して個別のオーダーメイドの知識なり食事なり、道具を与えなければならないのである。この世の中は体の小さい人にも体の大きな人にも同じサイズの服を無理やり着せてそれによって暴利を貪っているからである。すなわち1人の支配者が大勢の人間を支配する事によって自分1人だけが暴利を貪っているゆえに、この世の中は悪や不正や病気やあらゆる問題が生じているのである。あくまでも正しいのは、みんなが1人のために、1人がみんなのためにする事であって、all for one, one for all でなければならないのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

数学などにおいても、ある定理を存在させる為に証明をしてその存在の確かさを確証するわけであるけれども、それが確かに証明出来たからといって、それは正しいと言うわけにはいかない。なぜならこの万物のすべての要素や現象を考慮に入れたわけでは無いからである。例えると、万物の全体像は無限多面体であると言える。わかりやすく言うと、あなた方は昔、ルービックキューブという玩具が流行ったのをご存知無いだろうか。ルービックキューブとは立方体の形をした正6面体のブロックである。6色の色があって、カチャカチャ動かしながら、6面すべての色を揃える遊びである。それは6面全部色を揃わなければ正解にはならない。ここでそのルービックキューブの一面だけを例えば赤色で揃えたとする。確かに一面だけは赤色で揃っているが、後の5つの面は色がばらばらに混ざっていて全く揃っていない。数学の証明でも同じである。この万物という無限にある多面体のたった一つにしか過ぎない部分の色を全部を揃える、すなわちここで言えば、ある一つの定理が存在するという事を証明したとしても、それは無限多面体の一つの面の色を揃えたに過ぎず、その面以外の無数にある多面体は全く色が揃っておらず、ばらばらに混ざっているに過ぎない。すなわち私達はある定理を発見し、証明したとしても、その本質は自分の都合のよい部品だけを寄せ集めてきて、さも何か訳のわからないポンコツの装置をはんだごてで繋いで一応形にしたものに過ぎないのである。要するに万物の一部を不正改造した事に過ぎず、その証明された定理は無理やりねじ曲げて存在させた実際には正しくは無いものなのである。すなわち、この万物には無限多面体のすべての面の色を揃える事をして初めて正しいと言えるものである。逆に言えば、この万物には唯一正しい答え、すなわち真理というものが存在し、正しい唯一の真理とは、無限多面体のすべての面の色がすべて揃っている事を言うのである。すなわちある一つの事を存在させ、証明する為には、万物のあらゆる全体を考慮に入れなければならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

悪い事は行わないというのはもちろんであるが、別にしなくてもよい事も行わない方がよいのである。

2.よく大は小を兼ねると言うが、実際の現実はすべて物事を正確に測り、多すぎず、かつ、少なすぎず、ちょうど良いぴったりのサイズで物事を当てはめねばならない。もし、大は小を兼ねると考えて、ホースを実際の必要分より多めに切って使うとすると、それが余分に長い分、どこかに引っかかってしまい、大きな事故につながる恐れが出てくるのである。この様にすべて物事を扱う際には、実際の寸法なり、状況を正確に測り、調べてから行わなければならないのが鉄則なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世界はすべて仮定でできている。

この世界はすべて仮定でできている。すなわち確定出来るものが一つも無いのである。例えば、すべての物質は原子でできているというのも、それはあくまでも仮定であり、確定では無い。また、宇宙はビッグバンによって誕生したというのも事実ではない。それはあくまでも仮定である。要するにこの世界にはこれは確実にこうである、と証明されているものは決してないのだ。すなわち科学者が自然の原理なり、仕組みを研究していくと、いろんな考え方が出てくる。その中で一番その様に考えた方が世の中の仕組みを説明し易いという便宜的理由でそれを一応真実と仮定しようというわけである。よって、その後にもっと世の中を上手く説明出来る理論なり、考え方が出てくれば、それが今までの古いものに取って変わって新しい事実として仮定されるわけである。すなわちその様に仮定した場合、物事を扱うのに都合が良いという便宜的理由でそれはその存在を与えられているのである。これを一般化して言うと、Aというものは、BとCというものに明確に分けられる、ゆえにAはBとCの和で表される、と断言出来るのでは決して無く、便宜的にAというものをBとCの和と見なした方が上手く説明も付くし、より便利であるという判断の元にそれを一応真実として仮定してそれを採用しようという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

自分の変革の仕方

人は常に迷い、時には歓喜し、そして人間は常に変化する。よって、自分の変革の仕方も優先順位がある。まず自分にとってやり易い方から自分を変革しよう。まず、自分の良いところを探そう。そしてそれを見い出したならば、少し頑張って自分の長所をまず引き伸ばす努力をしよう。そしてそれが楽しくなって来たなら、もう一歩踏み出して、次は自分の苦手な事をやって見よう。苦手な事をずっとやっていくうちにそれがだんだん苦痛でなくなる段階にまで達したら、またさらに進んで、次は自分の欠点を徐々に直していく事に専念して見よう。そのように徐々に無理せず段階的に進んで行けば、自分を変革する事の喜びと楽しみを感じられる様になる。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべての万物は、その最初から死という方向へ向かおうとする性質があること。では死とは何か。それは淫らな性的欲情である。すべての人間はこの淫らな性的欲情と対峙せざるを得無い。そこで人は淫らな性的欲情に組するか、組しないかの選択に迫られる。どちらにも組しないという中立的立場は存在しない。人は生きるか、それとも死ぬかのどちらかを選ばなければならないのである。そう、人間は男女の区別無く、堕すか、堕さないかのどちらかに組しなければならないのである。残念な事に大半の人間は淫らな性的欲情の元に屈した。すなわち大半の人々は死ぬ方を選んだのである。人間にとって生きるとは、決して淫らな性的欲情との戦いと切り離せない。神は人間を神御自身の像に似せて造られた。そして人の前に生と死を置き、人間がどちらか一方を選ぶ様にされたのである。それは貞潔に生きるか、性的欲情のままに身を任せるかのどちらかしか無いのである。最初の人間アダムはこの倒錯的性的欲情に負けた人の最初の人である。なぜなら善悪の知識の木の実を食べてはならない、と告げてあったのに、最初の女であるエバは悪魔サタンという蛇にそそのかされて、いとも簡単にその禁断の木の実を食べてしまったからである。アダムはそのことを知り、悪魔サタンがエバを騙したことを知っていた。すなわちアダムは悪魔サタンという蛇がエバに嘘をついている事を認識していたのである。では、なぜ、アダムはエバと同じ様に禁断の木の実を食べてしまったのか。それはエバという女性を神との関係よりも優先したからである。そう、性的欲情の為にエバを失う事を恐れたのだ。アダムは神との親密な関係よりもエバとの親密な関係の方を選んだのだ。これによりアダムとエバの子孫である私達人間は死ぬようになったのである。よって我々も人間として生まれた以上、この倒錯的性的欲情に反旗をひるがえして、それと抵抗し続けるか、それとも、その倒錯的性的欲情の赴くままに生きるかのどちらか一方を選ばなければならないのである。よって、性的欲情に身を任せて生きる者は、神の命の書からその名前を拭い去られ、いずれは永遠の死に至る。またその性的欲情に反旗をひるがえしてそれと抵抗し続け、淫らな性的欲情を制する者は神の命の書からその名前を書き記され、いずれは永遠の命を得るのである。