高田義裕の人生論

今日の格言

数学などにおいても、ある定理を存在させる為に証明をしてその存在の確かさを確証するわけであるけれども、それが確かに証明出来たからといって、それは正しいと言うわけにはいかない。なぜならこの万物のすべての要素や現象を考慮に入れたわけでは無いからである。例えると、万物の全体像は無限多面体であると言える。わかりやすく言うと、あなた方は昔、ルービックキューブという玩具が流行ったのをご存知無いだろうか。ルービックキューブとは立方体の形をした正6面体のブロックである。6色の色があって、カチャカチャ動かしながら、6面すべての色を揃える遊びである。それは6面全部色を揃わなければ正解にはならない。ここでそのルービックキューブの一面だけを例えば赤色で揃えたとする。確かに一面だけは赤色で揃っているが、後の5つの面は色がばらばらに混ざっていて全く揃っていない。数学の証明でも同じである。この万物という無限にある多面体のたった一つにしか過ぎない部分の色を全部を揃える、すなわちここで言えば、ある一つの定理が存在するという事を証明したとしても、それは無限多面体の一つの面の色を揃えたに過ぎず、その面以外の無数にある多面体は全く色が揃っておらず、ばらばらに混ざっているに過ぎない。すなわち私達はある定理を発見し、証明したとしても、その本質は自分の都合のよい部品だけを寄せ集めてきて、さも何か訳のわからないポンコツの装置をはんだごてで繋いで一応形にしたものに過ぎないのである。要するに万物の一部を不正改造した事に過ぎず、その証明された定理は無理やりねじ曲げて存在させた実際には正しくは無いものなのである。すなわち、この万物には無限多面体のすべての面の色を揃える事をして初めて正しいと言えるものである。逆に言えば、この万物には唯一正しい答え、すなわち真理というものが存在し、正しい唯一の真理とは、無限多面体のすべての面の色がすべて揃っている事を言うのである。すなわちある一つの事を存在させ、証明する為には、万物のあらゆる全体を考慮に入れなければならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

悪い事は行わないというのはもちろんであるが、別にしなくてもよい事も行わない方がよいのである。

2.よく大は小を兼ねると言うが、実際の現実はすべて物事を正確に測り、多すぎず、かつ、少なすぎず、ちょうど良いぴったりのサイズで物事を当てはめねばならない。もし、大は小を兼ねると考えて、ホースを実際の必要分より多めに切って使うとすると、それが余分に長い分、どこかに引っかかってしまい、大きな事故につながる恐れが出てくるのである。この様にすべて物事を扱う際には、実際の寸法なり、状況を正確に測り、調べてから行わなければならないのが鉄則なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世界はすべて仮定でできている。

この世界はすべて仮定でできている。すなわち確定出来るものが一つも無いのである。例えば、すべての物質は原子でできているというのも、それはあくまでも仮定であり、確定では無い。また、宇宙はビッグバンによって誕生したというのも事実ではない。それはあくまでも仮定である。要するにこの世界にはこれは確実にこうである、と証明されているものは決してないのだ。すなわち科学者が自然の原理なり、仕組みを研究していくと、いろんな考え方が出てくる。その中で一番その様に考えた方が世の中の仕組みを説明し易いという便宜的理由でそれを一応真実と仮定しようというわけである。よって、その後にもっと世の中を上手く説明出来る理論なり、考え方が出てくれば、それが今までの古いものに取って変わって新しい事実として仮定されるわけである。すなわちその様に仮定した場合、物事を扱うのに都合が良いという便宜的理由でそれはその存在を与えられているのである。これを一般化して言うと、Aというものは、BとCというものに明確に分けられる、ゆえにAはBとCの和で表される、と断言出来るのでは決して無く、便宜的にAというものをBとCの和と見なした方が上手く説明も付くし、より便利であるという判断の元にそれを一応真実として仮定してそれを採用しようという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

自分の変革の仕方

人は常に迷い、時には歓喜し、そして人間は常に変化する。よって、自分の変革の仕方も優先順位がある。まず自分にとってやり易い方から自分を変革しよう。まず、自分の良いところを探そう。そしてそれを見い出したならば、少し頑張って自分の長所をまず引き伸ばす努力をしよう。そしてそれが楽しくなって来たなら、もう一歩踏み出して、次は自分の苦手な事をやって見よう。苦手な事をずっとやっていくうちにそれがだんだん苦痛でなくなる段階にまで達したら、またさらに進んで、次は自分の欠点を徐々に直していく事に専念して見よう。そのように徐々に無理せず段階的に進んで行けば、自分を変革する事の喜びと楽しみを感じられる様になる。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべての万物は、その最初から死という方向へ向かおうとする性質があること。では死とは何か。それは淫らな性的欲情である。すべての人間はこの淫らな性的欲情と対峙せざるを得無い。そこで人は淫らな性的欲情に組するか、組しないかの選択に迫られる。どちらにも組しないという中立的立場は存在しない。人は生きるか、それとも死ぬかのどちらかを選ばなければならないのである。そう、人間は男女の区別無く、堕すか、堕さないかのどちらかに組しなければならないのである。残念な事に大半の人間は淫らな性的欲情の元に屈した。すなわち大半の人々は死ぬ方を選んだのである。人間にとって生きるとは、決して淫らな性的欲情との戦いと切り離せない。神は人間を神御自身の像に似せて造られた。そして人の前に生と死を置き、人間がどちらか一方を選ぶ様にされたのである。それは貞潔に生きるか、性的欲情のままに身を任せるかのどちらかしか無いのである。最初の人間アダムはこの倒錯的性的欲情に負けた人の最初の人である。なぜなら善悪の知識の木の実を食べてはならない、と告げてあったのに、最初の女であるエバは悪魔サタンという蛇にそそのかされて、いとも簡単にその禁断の木の実を食べてしまったからである。アダムはそのことを知り、悪魔サタンがエバを騙したことを知っていた。すなわちアダムは悪魔サタンという蛇がエバに嘘をついている事を認識していたのである。では、なぜ、アダムはエバと同じ様に禁断の木の実を食べてしまったのか。それはエバという女性を神との関係よりも優先したからである。そう、性的欲情の為にエバを失う事を恐れたのだ。アダムは神との親密な関係よりもエバとの親密な関係の方を選んだのだ。これによりアダムとエバの子孫である私達人間は死ぬようになったのである。よって我々も人間として生まれた以上、この倒錯的性的欲情に反旗をひるがえして、それと抵抗し続けるか、それとも、その倒錯的性的欲情の赴くままに生きるかのどちらか一方を選ばなければならないのである。よって、性的欲情に身を任せて生きる者は、神の命の書からその名前を拭い去られ、いずれは永遠の死に至る。またその性的欲情に反旗をひるがえしてそれと抵抗し続け、淫らな性的欲情を制する者は神の命の書からその名前を書き記され、いずれは永遠の命を得るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

傲慢さ、誇りは頭がボケる事に対して前座を据える役目をすること。よって真に頭が良い人は驕ったり、誇ったりすること無く、常に頭を回転させているから、むしろ驕る暇など無いこと。

2.人は皆、他の人を計るその計りで自分をも計っているのである。要するに誰にも不公平は無く、私達は自分達の行う業の報いを既に全部受けているのである。

3.神を知らない人々の様に、自分の働きと行いに対する報いを自分で求め、かつ自分の力で得ようとしてはならない。すべて自分に対する称賛や報いは私達自身のものでは無く、エホバ神のものであり、各自の報いはすべてエホバ神から与えられるという事を認識しておかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々は自分達の労働力をいわば商品として売る。すなわち自分の頭や体を提供する事によって会社や雇い主から賃金を得るのである。しかし芸能人や俳優という部類の人達は自分自身という人間自体を商品として売り、ファンや支持者を獲得している。これは相当に大変な仕事である。常に服装も身なりも洗練さが要求されるし、自分の生き方も常にファンや支持者達の模範となる様に日々研鑽努力しなければならない。これはいわゆる聖書で言えば、アイドルであり、偶像である。すなわち彼らは皆神々の1人であり、ファンや支持者達は彼らを崇め尊敬する事によって彼らを偶像崇拝しているのである。だから偶像の対象であるスター達は自分自身というブランドの価値を高め、それを常に魅力的なものとして維持する為に並みの人間よりはるかに厳しい生活を強いられる。彼らは自分のする事の一挙一動をすべての人から注目されているのだから、その大多数からの視線という物凄いプレッシャーを1人で背負わなければならない。そう、言い訳や逃げなど一切許されないのだ。また彼らに一様として見られるのは全員ナルシスト(自己愛主義者)である事である。かと言って、昔ながらの悪い意味でのナルシストでは無く、努力するナルシストなのである。彼らは自分の理想とする人物像に出来るだけ近づくため、常に自分を追い込み、怠惰さを許さず、自分自身というブランドを維持し向上するために必死に戦っているのである。日本人にも今私が注目している気骨でたくましい2人のアーティストがいる。それはGACKTさんとローランドさんである。彼らは今の世代にあって自分という存在にプライドを持ち、いわゆるカッコいい路線を貫いている、今では貴重な存在となった人である。今の芸能界はお笑いタレントばかりで溢れており、たとえ失敗してもジョークで笑いを取ればいいという楽な生き方をしている。それに対してGACKTさんやローランドさんは一度失敗しようものなら自分に恥をさらしてしまい、それをジョークで笑い跳ばせは良いという楽な立ち位置にいない。彼らに失敗や醜態は許されないのだ。なぜなら彼らはお笑い芸人では無く、かっこいいキャラクターで自分を売り出しているからだ。この様な最近としては珍しくなってしまったこのお二人に敬意を表したい。彼らの人生哲学は現在本となって出版されている。GACKTさんは[GACKTの勝ち方]サンクチュアリ出版、ローランドさんは[俺か、俺以外か、ローランドの生き方]株式会社KADOKAWAである。ぜひ一読をお勧めする。今の時代には珍しい自分に対して厳しく生きている彼らをぜひ応援してやって欲しい。

高田義裕の人生論

今日の格言

自分を相手と比べて自慢しないなら、相手もまた自分と比べて自慢したりしないのである。

2.神の目から見て、これは必要無いと言える者は何一つ存在しないこと。あなたがたとえ親から望まれずに生まれてきた人間であっても、神にとってあなたは既に知られており、貴重な存在なのである。

3.自分自身が実際にはいかなる者なのか絶えず吟味する事を心がける事に集中しているなら、あなたは自分の考えや行いが誤った方向に進む事は決して無いのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

誰からも嫌われない人生なんてあり得ない。人からまだ1人も嫌われていない人は、まだ人生すら始まっていない人だ。人間、何か1つの事に真剣に取り組めば、必ず敵が現れる。嫌われて当然なのだ。誰からも嫌われていない人は、誰かを真剣に愛したり、憎んだりした事がないのである。そう、誰からも嫌われていない人は、半分眠って生きているのか、死んでいるのかわからない人生を過ごしている存在感の無い人なのである。

2.    階級社会

ある人が犯罪を犯した。するとネット上では誹謗中傷の嵐が起こって、みんなでその犯罪者を口汚く罵った。確かに彼は悪い事をした。それは裁かれて当然である。しかし世の中の大多数の人間が1人の人をいくら悪いからといって、さも自分達は上であるかの様に、口で袋叩きにするのも一種異常な気がするのである。これは人間社会がもはや階級社会になっている事の証しである。彼は幼少の頃から貧しく育った。そのため心の中に闇が鬱積し、反社会的な人物に成らざるを得なかったのである。誹謗中傷する側も日頃の奴隷的労働によるストレス解消のために口汚く罵ったに過ぎない。要するに犯罪者も傍観者も階級社会の底辺にいる人達ばかりである。弱い者が弱い者いじめをし、強者も弱い者をいじめる。すなわち誰もがこのヒエラルキー社会の犠牲者なのだ。上層部に位置する人間はそれを見て冷ややかに冷笑している事であろう。言っておくが、犯罪者をいじめても何の解決にもならない。犯罪者はますます世の中を憎み、社会を憎み、その行動はエスカレートするであろう。正すべきはこの階級社会という巨悪なのだ。決して個人にでは無い。しかしこのヒエラルキー社会を生み出している根源は人間の誇りである。自分は人より上になりたい、人より有利な立場でいたい、という欲望がある限り、階級社会は無くならない。階級社会を唯一壊す事が出来るのは、上下関係や身分などを度外視した互いに分け隔て無く接する愛しかない。よって愛は何かの業績を自分1人の手柄とはしない。愛はすべて互いに協力し、チームワークによりみんなで力を合わせて物事を成し遂げる。そして成し遂げた暁には個人を賞賛するのでは決して無く、みんなの少しずつ出し合ったみんなの力のおかげだね、とみんなで賞賛を分かち合うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

周りには自分の価値観と違う嫌いな人ばかりいる、と悩んでいる者よ。あなたは努力して自分のなりたい自分になれ。そうすれば同じ価値観の者達が集まって来るのである。常に類は友を呼ぶ、のである。

2.     (題名)     自分のしたい事をして稼ぐというのは本当か。

自分のしたい事をして稼ぐというのは本当の事か。社会に出て、まだ何も経験していない若者が自分のしたい事なんかわかるだろうか。私は分からなかった。おそらくみんな自分の向いてる事とかやりたいことなんてわからないと思う。自分のしたい事を幼い時から分かっている人間なんてほんの一部だと思う。ある人がいた。彼は学生の頃から親から何でもいいから勉強して有名な難関大学を卒業すれば一流企業に就職出来ると喝破され、とことん勉強して念願叶って一流会社に就職出来た。そして入社してからも熱心に仕事をして昇格し部長にもなった。しかし彼の仕事は非常に大変な仕事で毎日が残業の繰り返しで過労になり、倒れた。そのせいで病気になり、会社を退職せざるを得なくなった。彼は2年間療養して体の健康も回復した。それでまた仕事探しを始めた。しかしもう40代後半の彼にとって雇おうとしてくれる一流企業はどこにもなかった。彼はプライドを傷付けられながらも、ようやく誰でも出来る汚くてきつい清掃の仕事に就いた。彼は汚くてきつい清掃の仕事を毎日しながら自分が知らぬ間に社会の底辺にいる事に気付き涙した。しかし気持ちを取り直して清掃の仕事に取り組むうちに、どうすればもっと便所を短時間で綺麗にできるかとか、普通の洗剤では落ちない汚れをどのような薬品を使えば落ちるかとか、日々研究し、実践し、知恵を絞っていった。そのうち清掃業というものの奥の深さを感じる事が出来るようになり、最初はやりたくなかったこの仕事が面白くなっていった。そうなればしめたもので、彼にやる気スイッチが入り、他の誰にも真似出来ない清掃業のプロとなっていた。それで彼は人を雇って小さいながらも清掃業の会社を設立して社長になっている。どうだろう。実際の人生というものはこのように紆余曲折があって、わからないものなのだ。人はとりあえず好き嫌いは別にして何か仕事を始めるべきなのだ。そして働きながら考え続け、自分に今与えられた仕事をとことん工夫を凝らして極められるまで努力するべきだ。そうすれば本当に自分に向いている自分のしたい仕事を自分自身が気付くだろう。要は自分が何に向いているかを考える時間があったら、とにかく何かを実際にやってみる事が大事なのである。