高田義裕の人生論

今日の格言

ある大魔神がいた。どんなに勇敢で強い戦士が戦っても誰も大魔神にかなう者はいなかった。大魔神は、それをいい事に全世界を荒らし回り、人々を殺し、奴隷にしてひどい扱いをして人類を支配していた。しかし、人々の唯一の希望は、昔からの聖なる書物に悪が蔓延するとき、1人の君が立ち上がり、悪を根絶する事が預言されていた事であった。人々は苦しみ、恐怖に怯えながらも、その聖なる書物を信じ、救世主を待ちわびていた。するとある時、1人の天使が現れ、大魔神の前に立った。そして天使は言った。大魔神よ。私の力を持ってしてもあなたにはかなわない。それでどうか私があなたと戦って私が死ぬ前にあなたがどうしてそれほどまでに強いのか教えてくれぬか。すると大魔神はニヤリと笑って、よかろう、冥途のみやげに教えてやろう。私の食物は誇りだ。この人類の世界はあっちでもこっちでも、いろんなレベルのいろんな人間が成功し、支配しては民衆に自分の栄光を誇示し、誇りの精神を産んでいる。おかげで私の食料は尽きる事が無いのだ、と。それを聞くと天使は全人類の方を向いてこう言った。全人類よ、今こそあなた方の終わりが到来した。なぜなら悪は満ち、地は破壊の限りを尽くしているからである。私は神である。私はこの地を滅ぼすために到来した。すべての者はその小なる者から大なる者まで悔い改めよ。すると全人々は今までのおごりと誇りで満ちた行いと精神を改め、その方、神の前にへりくだり、悔い改めた。すると大魔神の食料としていた誇りが地上にたちどころに無くなった。すると大魔神は自分の食料が無くなってみるみる小さくなり、ついにはそれは消滅した。すると人々は喜び、神を賞賛し、神に栄光を帰した。それで全人類は滅亡を免れ、救われた。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)   みんな普通を演じてる。

みんな普通を演じてる。無理をして。実は普通を演じるのは一番大変なんだ。私達は皆、病んでいる。みんな気付いてる。私も含めて。自分が本当は異常だって事を。しかしその病んでいる本当の姿を人にさらす事は出来無い。なぜなら本当の自分を出せば、みんなに嫌われるから。だから無理をして毎日頑張って普通を演じてる。本当の自分を、自分のありのままを人に出せたらどんなに楽だろう。みんながありのままの自分を笑いながら、受け入れてくれたらどんなに楽だろう。ある人は自分という存在をみんなに受け入れて欲しいばっかりにスキーの選手や、フィギアスケートの4回転ジャンプや危険な事を注目を浴びたいばっかりに命がけでやる。なぜなら、そこまでしなければ人々は自分に振り向いてくれないから。本当はそんな無茶で危険な事はしたくない。普通でいたい。しかしそれを理解してくれる人がそばにいない。でもあなたばかりでは無い。まわりのみんなも無理をして、背伸びして普通を演じているのだ。あなたと同じように職場でさも平気なように仕事をして、家に帰ったら、ガーっと溜まった膿を全部吐き出す。ある人は本当はアルコール中毒である事を隠している。セックス依存症である事を隠している。でもやめられない。アルコールを浴びるほど飲まなければ、セックスを死ぬほどしなければ普通を演じきれない。自分でもわかっているのにそれをやめられない。しかし他の人はそれを理解してくれない。あいつはアルコール中毒だ、と言って非難する。あいつはセックス依存症だ、と言ってあざけられる。だから異常な本当の生活を隠してる。親も理解してくれないし、友達にも本当の事は話していない。毎日、いい子を演じて、毎日、さも楽しそうに友達としゃべっているけど、本当は心の中で悲鳴をあげている。誰か助けて欲しい。神様、どうかあなたがいるなら私を助けてください。私は孤独なのです。まわりの友達はみんな仮面で付き合っているのです。この世はなんて生き地獄なんだろう。分かる。分かるよ、あなたの苦しさを死ぬほど分かる。この世で生きる事の生きづらさをよく理解できる。若者よ、お年寄りよ、皆、心を1つにして、神に熱烈に祈りなさい。神はあなたの心をよくご存知である。あなたが毎日死ぬほど苦しい生活を続けている辛さをよくご存知である。人はただ祈るしか無いのだ。神は必ずあなたがそれを耐えられるよう助けてくださる。神エホバだけが本当のあなたを理解している。神エホバに自分のありのままをすべてさらけ出しなさい。神はあなたを優しく包んでくれるだろう。あなたのありのままを愛を持って優しく受け入れてくださる。エホバよ、どうかお願いです。この苦しんでいる全創造物、そして人類を助けてください。全創造物は共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)    欲望は悪か。

神と悪魔の対話

(神)   人よ、あらゆる形の欲望を捨て去りなさい。

(悪魔)    神よ、あなたは二言目には欲望を捨てなさいとか、肉の欲望や目の欲望を避けなさいとか言っておられるが、欲望を持つ事はそんなに悪い事なのですか。むしろ欲望を持てる事自体が、人間が健康である事を証しするものではありませんか。人は病気になってしまったら欲望さえ失われてしまうのです。よって人は欲望がある事をむしろ喜ぶべきなのです。

(解説)    西暦2058年、人類は絶滅の危機に瀕していた。欲望を持つ事を悪とする宗教すべては、すなわちキリスト教や仏教やイスラム教は禁止されていた。人間社会は野望とか欲望とかを持って、活発に仕事をする人が全くいなくなっていた。すべての人間は生命力が無くなり、健康を害しており、全く欲望を持つ元気も無かった。そのため人間社会は全く機能せず、無活動になっていた。諸政府は一丸となって、西暦1970年代の人類が夢を持ち、豊かになりたいという欲望で一生懸命働いていた時代に立ち返ろうと1970年運動というスローガンを掲げて、人々のやる気を引き出そうと必死であった。欲望を禁止するような神の存在は全くのタブーとされ、神を崇拝しようとする者は皆、弾圧され、逮捕され、政治犯として強制収容所に入れられた。もはや人類にとって神の存在は必要なく、むしろ敵であった。ポルノ雑誌やビデオも政府によって大いに推奨され広く頒布されたが、人々は性欲自体が無くなっており、子供も産まず、人類の人口は急激に減少していた。これは1つのシミュレーションにしか過ぎないが、なぜ大昔の宗教は欲望を悪い事と見なしたかと言うと、それは昔の人々は皆、寿命は短かったけれども、健康であった事だ。健康であれば、食欲も性欲も所有欲も旺盛である。それは昔の人々には空気のように当たり前の事であった。よって野心や欲望を持って世界を支配しようとする人間が後を絶たず、人類社会は戦いの繰り返しであり、乱世の時代であった。よって戦争という暴力によって多くの人が殺され、奴隷となって苦しみを受けた。このような時代情勢では野心や欲望は悪の根源であった。それで昔の偉人達はこぞって欲望を捨てよ、欲望は悪であると唱えたのだ。しかし人類は西暦2000年代になると一生懸命働いて稼いだおかげで物質的に豊かになった。そして豊かになって生まれてきた子供達は豊かさが当たり前の世界で生活していたため、食欲や性欲や所有欲が次第に失われていったのである。いわゆる贅沢病、豊かさの病理である。いじめや職場でのパワーハラスメントが原因で仕事を辞め、そのまま閉じこもりになって、社会から孤立した子供達が増え始め、仕事をする気力が無い若者達が増加し始めた。そう、人類は豊かさと平和を手に入れたとたん、生きる活力を失ってしまったのである。人類がこんな事になるとは昔の偉人達は夢にも思わなかっただろう。そして欲望を持たない人間の事を無能な人間だと罵られ、もっと野心と欲望を持って生きる事が正しい事として奨励される時代になってきているのである。要するに昔の宗教観念が通用しない時代になったのである。ではもう神という存在は必要で無いのか。いや決してそうではない。人間はやはり神の指導のもとに従わなければ、このように貧しいときでも苦しく、豊かになっても苦しいというまさにやり場の無い両極端な方向しか向かわない事が明らかになったという事である。神の支配は人間にとって貧しさでも豊かさでも無い絶妙にバランスのとれた幸福を与えるものとなるのである。要するに人間の人間による人間の為の自治は失敗したのであって、今こそ神による神権政治が急務とされている緊急事態なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

名誉と地位を求め、また偉大な業績を求めている者たちに対して言うことは、私達人間にとって、お互いに許し合い、認め合い、助け合い、愛し合っていく事こそが、私達人間にとっての名誉であり、地位であり、偉大な業績なのである。

2.よこしまな誇りや見栄がその人が生きる事の活力源、行動の源であるとしたら、それはまるで海の上に漂う海藻の様に不安定で危険な人生である。しかし、私達人間にとって、純粋な愛が生きる事の活力源、行動の源であるとしたら、これは大岩の上に建てた建物の様に安定していて安全な人生である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人は何事も順調に行っている時は皆、善人に見える。しかしひとたび逆境やトラブルに遭った時、その人の本性が現れるのである。よって自分自身や他の人の本性を知りたければ、何か些細なトラブルを引き起こしてあげるとよい。そうすると自分自身も他の人も普段からは想像も出来ないほど凶暴で邪悪な本性を暴露するであろう。

2.人が人の目を見て話せないのは、その心にやましいところがあるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

悪とは何か。それは利己的である事である。利己的とは何か。それは自分にとってだけ都合の良い事である。自分に都合が良いという事はその人だけには義である事である。逆に善とは何か。それは利他的である事である。利他的とは何か。それはより多くの人にとって都合の良い事である。すなわち、利己的とはより小さな義の事であり、利他的とはより大きな義の事であると言える。よって小さな義とは小さな悪の事であり、より大きな義とはより大きな悪の事である。例えれば、小さな悪とは純度100%の毒のようであり、大きな悪とは純度100%の毒を大量の水で薄めた純度1%の毒のようである。すなわち、小さな悪、例えば盗みや暴力や殺人は誰の目から見ても悪いとすぐに判断出来るが、大きな悪、例えば、資本主義や民主主義、社会主義や独裁主義などの社会全体を覆っている空気は純度が薄すぎて一見悪いと判断出来ない。すなわち社会全体の歪みという巨悪は悪いとは認知されにくいのである。そして認知されにくいという事は、その社会的歪みはすぐに正される事なく、長い間放置されてしまう傾向がある。これは病気に例えれば、手の施しようが無くなるまで痛みを感じない、すい臓ガンのようである。すなわち痛みのすぐに分かる切り傷や腹痛はすぐに処置されて問題は極大化しないが、痛みの自覚の無いすなわち、悪いとは認知されにくいより大きな義とは取り返しのつかないところまで進行してようやくその悪さが分かるという点では、小さな悪よりもより広範囲に渡って悪影響を及ぼす点でより大きな悪であると言えるのである。

2.私達よりはるかに小さい極微な世界とは、原子や電子や素粒子の事であると考えられている。それに比べて私達の生活レベルは、それよりもはるかに極大であり、私達の極大世界では物質の運動はニュートン力学で説明される。すなわち、距離÷時間=速度などである。しかし超ミクロの世界では、物質の運動はニュートン力学では説明出来ない。すなわちそれには量子力学が適用される事になる。量子力学によれば、電子の位置は確率論的にしか判断出来ないと言う。すなわち、ニュートン力学のような単純で分かりやすいものでは無くなってしまうのだ。実際電子の速度を計ろうとするとその位置が定まらず、電子の位置を計ろうとするとその速度が定まらないと言うのである。要するに電子は確かにここに存在すると言うよりは電子は確率論的にしか存在していないという曖昧なものになってしまうのである。しかしここで視野を広く取って全宇宙という大きさを基準にすれば、私達人間の大きさは原子や電子や素粒子よりもはるかに小さいのではないだろうか。それでは私達人間は量子力学的に私達の位置を知ろうとすると速度が分からなくなるだろうか。また、私達の動く速度を知ろうとすると私達の位置は定まらなくなるだろうか。そんな事は無い。私達の位置は確実に定まっているし、私達の速度も確実に定まっている。そう、私達は全宇宙から見れば量子力学的に確率論的にしか存在しないはずなのに、私達は確かに存在しており、私達の世界は単純で分かりやすいニュートン力学によって説明出来るのである。すなわち量子力学とはあくまでも、人間の大きさを絶対的基準にして考えた場合の推論なのであって、この全宇宙から言えば、人間の視点が絶対的尺度などでは決して無いのである。私達の世界は大きな全宇宙から見れば、あくまでも相対的な価値基準に過ぎず、基準にする対象物を変えるとそれに対する推論や法則も変化してしまう事を示している。要するに私達が考えた定理なり法則はあくまでも人間という価値基準を土台にして展開されたものに過ぎず、それが全宇宙に適用出来る絶対的基準では決して無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべて物は言いよう、気持ちは思いようで人生は決まるのである。

2.人は人のために生きてこそ、初めて人と言える。

3.自然な事に反抗する無理な圧迫が悪なのである。ここで義の前に悪は必ず倒れる事は自然な事である。

4.余分な心配は悪である。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

人とは、自分にとって常に理想とする具体的な手本と見本が無ければ自分を律する事など不可能な存在なのである。私達人間にとって、理想像であり、立派な手本とは御子イエスキリストの事なのである。

2.    倫理、(倒れる事)の定義

1.義の前に悪は必ず倒れる。

2.聖なるものの前に俗悪は必ず倒れる。

3.相対の前に絶対は必ず倒れる。

4.複雑さの前に単純は必ず倒れる。

5.純粋さの前に狡猾さは必ず倒れる。

6.明瞭の前に深刻は必ず倒れる。

7.愛の前に邪悪は必ず倒れる。

8.神の前に人は必ず倒れる。

私達人間にとって、神エホバとは無知な存在でも無ければ、いざという時の為だけの存在なのでも無く、私達人間にとって常にパーソナル(日常的)な存在で無ければならないのである。よく人は神に祈っても全然益が無く、無意味であると言うが、その主張は常に神を日常的な存在として意識して行動していない人達の言い分なのである。常日頃から神との親密で個人的な関係を築く努力をせずに、いざ困ったという時、神に頼んでも神はそれを聞いてくださるはずが無いのである。人間関係でもそうではないか。常日頃から親しく付き合っている人ならあなたがいざという時はその人はあなたを助けてくれるのでは無いだろうか。しかし、常日頃から親しく付き合ってもいない見知らぬ他人がいざという時、あなたの事を救ってくれるはずが無いのである。よって常日頃から神との良い関係を築いて、良い行状と立派な精神態度とを日常的に積み上げていくなら、いざ困ったという時、神はあなたの祈りを聞き、あなたの事を必ず助けてくださるのである。

 

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)     ポルノは必要悪か。

どこかしこにもポルノの雑誌やビデオが販売されている。もしポルノを法律的に全面禁止してしまったらどうなるだろう。確かにポルノは彼女のいない男性にとって性的欲求のはけ口になっている事は確かである。もしポルノを禁止したら、男性はその強い性衝動に屈して女性をレイプする事が多発するかもしれない。しかし、ポルノにはまた別の悪弊がある。それはポルノとは、あくまでも虚構の世界であり、意図的に製作者によって作られたものだ。しかしポルノばかり見ている男性は次第にそのポルノの虚構世界と現実世界の違いを区別出来なくなり、女性を性の対象というモノでしか見れなくなってくる。実際、ポルノだけを見て満足出来無くなり、実際に女性をレイプする事件は後を絶たない。要するにポルノを禁止しようが、許容しようが性犯罪自体は無くならないのである。しかし男性でポルノを見て満足している人数の割合と、ポルノだけで満足できず実際に性犯罪を犯してしまう男性の人数の比率は圧倒的に前者の方が多いと思う。すなわち全男性の中のごく一部の人間が実際に性犯罪を犯していると考えられる。逆に言えば、大半の男性はポルノを見るが、性犯罪までには至らないケースの方が割合が高いのである。私はクリスチャンなので、ポルノも見ないし、淫行も姦淫もマスターベーションもしないのであるが、(実際、彼女もいない。)男性の自分ではコントロール出来ないほどの強い性衝動の感覚は痛いほど分かる。神はポルノを非としているのはもちろんだが、現実世界はそう単純で簡単なわけにはいかない。すなわち綺麗事では済まされない深刻な問題なのだ。しかしイスラム社会にはポルノは無い。それでも性犯罪が起きないのは、イスラム教の信仰に男性が固くついているからだと思う。そう思うと信仰という力は恐ろしいものだ。人間にとって神に対する信仰ほどの強いものをもってしても、男性は自分にある獣の様な性的欲求を飼いならす事は至難の技なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生きるという事は、使用されるソフトの立派さによって決まるのでは決して無く、生きるという事は使用するハードの立派さによって決まるのである。ここで言うハードとは、例えれば、ゲーム機器の本体の事を言うのであり、ソフトとはそのゲーム機器で遊べるゲームソフトの事である。ゲームソフトの内容の良さはすべてそのゲーム機器の本体というハードの性能の良さにかかっているのであり、これは私達人間にも当てはまるのである。すなわち、どんなソフト、すなわち、パソコンや冷蔵庫やテレビがどんなに立派に作られていても、ハード、すなわちそれを使う人間自身の性能、すなわち人間性や人格、才能が優れていなければ、すべては宝の持ち腐れになり、そのソフトの性能を十分に発揮する事が出来無いのである。