高田義裕の人生論

今日の箴言

健康学

よく人間の体は冷えていると健康に良くないと言われる。かと言って冷たい物ばかり飲んだり食べたりしてはいけないという事にはならない。問題は、熱い物を食べた後に冷たい物を食べたりしてしまう事にある。普段冷めてしまった料理を毎日食べていてもそれは問題無い。何故なら人間の体は順応性があり、冷たい物ばかり食べていても、体が冷たい物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。また普段熱い料理を毎日食べていてもそれは問題無い。それは、熱い物ばかり食べていると、体が熱い物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。問題は、普段冷めた(熱い)物ばかり食べている人が突然、熱い物(冷たい物)を食べたりすると、体は冷めた物(熱い物)に順応していたのに予想外の熱い物(冷たい物)が体に入ってくる事で、冷たい物(熱い物)に免疫力があった体の状態がパニックを起こしてしまい、免疫不全を起こしてしまうのである。この時体は突然体の中に入ってきた物に対応する為に、物凄いエネルギーを消費してしまう。これでは体の調子が悪くなってもおかしくは無いのである。そのように体に余計な負担を毎日かける事によって、体の免疫力が弱まり、その弱った所に病原菌やウイルスがすかさず入り込み、癌やその他の病気を誘発する原因となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

天の神は私達に御自身の独り子であるイエスキリストを贖いの犠牲としてその命を投げ打って下さったのである。例えば、あなたは自分の愛する子供を極悪人の犯罪者を牢から出す為にその命を犠牲に出来るか。決して出来ないし、したくもないはずである。なぜならそんな事をする義務など無いからである。しかし、神は極悪人の犯罪者である私達をこの世という牢獄から解放する為に御自身の子供を、そうする義務も無いのに差し出されたのである。これは出来る事の中で最大の事を神は私達の為にしてくれたのである。であるならば、日常の些細な事で思い患っているあなたの悩みなど神が聞いてくれないはずが無いでは無いか。心から神エホバに熱烈に祈り続けるなら、あなたのどんな不可能と思われる悩みをも神はあなたがそれを乗り越えられるように必ず助けてくださるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自分にはどれだけの長所があると思っているであろうか。多分かなりの数があると感じているに違い無い。またあなたは自分にはどれだけの短所があると思っているであろうか。おそらくあなたは自分には短所など無いのでは無いか、今の自分はこれで普通だから、と感じているのではないだろうか。しかし実際にはあなただけではなく、私も含めて、すべての人間は短所だらけなのである。私達は優柔不断であり、怠け者であり、わがままであり、誇り高く、高慢であり、嘘も平気でつくし、短気であり、約束した事に不忠実で、相手の不満ばかり言っているし、ろくなものではないのである。普通この状態では、厳しい人生を渡って行けない。しかし、私達は何とかこうして生きている。それは何故か。それは私達一人一人に、神がただ1つだけ良いところを与えて下さったからである。例えば、あなたには人に何を言われてもほとんど気にならない鈍感な性格の持ち主かもしれない。悪く言えば無神経な人とも言えるが、良く言えば、並大抵の事ではへこたれない図太い精神力を持っているのである。また別の人は、周りの人達の心の状態を機敏に感じ取る神経の細かい持ち主かもしれない。これは人の気持ちがよく分かる分、気を使い過ぎてノイローゼになってしまう可能性もあるが、その人はその方向には行かず、周りの空気をよく読んで、上手な人間関係を保つ能力を持っている。そうである。私達の99%は悪く、1%だけ良いものを持っているという状態なのである。よって私達はその1%の良いところがあるお陰で何とか生きていけるのである。誰も良いものを沢山持って、悪いところはほとんど無く、余裕のある状態では決して無いのである。私達は普段その僅かな1%の良い部分を無意識に巧みに操って、自分が相手の人に嫌われないように自分を防御しているのである。よって、私達のすべき事は、自分が持っていない良い面を持とうと努力しても無駄であるという事である。そんな決して実る事の無い無駄な努力をするのでは決して無く、むしろ、自分の持っている唯一の良いところをとことん鍛えて極限まで高める努力をすべきなのである。そうすれば、その努力は確かに実り、私達は何とか無事に人生を渡って行く事が出来るという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分が人にした事がそれは良いか悪いかの区別無く、また自分が人から同じようにされるのである。すなわち、あなたが人に親切にすれば、いずれ必ず他の人があなたに親切にしてくれるのであり、あなたが人の悪いところを許せば、いずれ必ず他の人もあなたの悪いところを許してくれるのである。逆にあなたが誰かをいじめているならば、いずれ必ず他の人があなたをいじめるのであり、あなたが誰かの事を嫌いになるなら、いずれ必ずあなたは誰かに嫌われているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

近い将来、人々の日常生活の有り様はどのようになっていくだろう。まず今では当たり前にある、何かを所有するという価値観が無くなっていくだろう。そう、何かを所有するために必死で働いてお金を貯めるという生活様式自体が時代遅れなものとなるのである。すなわち、人々は所有したいという欲求がほとんど無くなり、すべてはレンタルの時代になるのである。要するに欲しい時に欲しい物を欲しいだけ利用して、不要な時はそれを返すという生活スタイルに変わるのである。すなわち、究極の物々交換制度が誕生するのである。例えば、インターネットのライン上で誰でも閲覧できる掲示板の様なものが表示され、そこには個人一人一人の要望の募集が貼り出される。例えば、ある人は非常に学校の勉強が得意で、勉強を他の人に教える事が上手なのであるが、その人はは引っ込み思案な性格で友達がいないというのが悩みである。それで勉強を教える代わりに誰かに友達になってもらいたいと言う募集を掲示板に貼る。そこでまた別の人がいて、その人は学校の勉強が大の苦手で勉強は出来ないが、非常に社交的な性格で誰とでも友達になれるタイプの人である。ここで両者の利害が一致し、勉強の得意な人は勉強が苦手な人に勉強を教える事で契約し、その勉強が苦手の人は勉強を教えてもらう代わりにその人の良き友達になってあげる事で契約し、互いに自分の能力や持ち物を交換することによって、お互いの欲求を満たす様にするのである。これからは誰がどこで何を必要としているのか、また、その代わりに何を提供出来るかと言う細かい正確な情報が世界レベルで開示されて、非常に効率の良い物々交換制度が成り立っていくのである。すなわち、何かを所有したい時に両者の間に媒体となっていたお金という貨幣制度が無くなっていくのである。すなわち、お金は必要無くなり、その代わりに、直接当人同士で互いの能力や持ち物を交換し合う新しい経済社会が到来するのである。これによって、現在よりも遥かに貧富の差の無い、互いにより対等で平等な人間社会が将来の人類の主要な生活スタイルとなるであろう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

単一価値こそ神エホバ御自身であり、人間の単一価値への傾倒こそ偶像崇拝なのである。要するに、人間が神のなさる同じことを自分達もやろうとした、すなわち、神になろうとしたのである。この事は実質的に神エホバに人間が私達はあなたよりも賢いのです、と言ったも同然だったのである。

2.何事も富もうと思って富む事が貧しい事柄なのであり、賢くなろうと思って賢くなる事が愚かな事柄なのである。すなわち、自らそれを意識してそうなろうとする事が聖書の言う罪(Sin)なのである。よって罪とは自意識過剰の事なのであり、自分で自分を好ましく思う事、すなわち、ナルシズムこそ罪の本性なのである。私達は息をする時、無意識のうちに息をしているのであり、同様に、何事も無意識(無自覚)のうちに自然に富んでおり、無意識(無自覚)のうちに自然に賢い状態が人間にとっての健全で正しい罪のない状態なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人はその人生の途上において、非常な努力と苦労を強いられる事がある。極貧の生活をして、何とか飢えをしのぐほかない苦しみを経験しながら、苦学し、大学を卒業して今ではエリート社員として年収1000万円以上を稼ぐようになった人もいる。中学校時代にひどいイジメをうけ、不登校になり、引きこもりになったが、その苦しみを乗り越え、今では一流企業の社長にまで昇りつめた人もいる。この様に事情は様々だが、そういう立派に生きてきた人達は大勢いるのである。ここまでは良いとしよう。しかしである。その自分がいかに苦労して今の輝かしい現在があるかという事を誇りにしている人達がいるのである。はっきり言って、自分が苦労して成功した事を誇りにする時点で、その人はまだまだ苦労が足りないと言える。本当に極限まで自分を試し、本当に苦しみを受けた人間は、決して誇らないし、誇る事が出来ないのである。なぜなら、苦労した事で自分の限界と自分の力の至らなさを思い知らされたからである。よって、人は自分の限界と自分の力の至らなさを思い知るべきなのである。人間の健全な精神状態は、自分の限界をはっきりとわきまえ知ることによって、常に謙虚な者にならざるを得ないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんな主張も嘘か本当かのどちらかにしか分けられない。例えば、[太郎は怠け者である。]という主張は、太郎は本当に怠け者なのか、そうでないのかのどちらかに決まる。すなわち、太郎は怠け者であり、かつ怠け者なのでは無いという事は言えないのであり、白か黒かのどちらかなのである。同様にどんな人間も神に従うか従わないかのどちらかにしか分けられないのである。すなわち、私は神に従うわけでもなければ、かつ従わないわけでもない、などと言う事は言えないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨今のニュースを見て感じるのは、インターネットというものは計り知れない力を持っているという事だ。特にヤフーのニュースの記事の後に、一般の人達が書いた感想や意見の記事が載せられているのだが、それは第三者の役割を果たしており、非常に有益で参考になるものだ。また誰かの投稿した映像が瞬く間に世界中に拡散し、その内容に問題があるなら、それは[炎上]という形をとって全世界の人々に影響を及ぼす。すなわち、インターネットの個人的な書き込みが、一流企業やある国の政府の行く末をも左右するほどの権威を持つようになったのだ。人類歴史史上、個人の意見がこれほどまでに広範囲に世の中に対して、影響力を持つようになった事はかつてない。これは一種の革命であり、全く新しい文化の出現である。これは政府やマスコミに次いで第三の権威と成り得る。一般大衆が物申す時代になったのだ。これはある意味喜ばしい事だと言えるだろう。しかし、悪い側面もある。それは問題を起こした1人の個人に対してインターネットの投稿を通して多数の人から誹謗や中傷の書き込みが相次ぎ、周りから袋叩きにされるという間違った力の行使の仕方も生じてくるという事である。すなわち、現在インターネットは誰の権威の元にも置かれていない野放し状態になっているという事だ。これは良い意味で言えば自由とも言えるし、悪い意味で言えば無法地帯とも言えるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

経済論

この人類社会の経済情勢は、経済学者アダムスミスの言う、放っておけば自然と自動的に上手く成り立つ、神の見えざる手が存在するのであろうか。例えば、ある製品を作る工場があって、ある部品がベルトコンベアによって自動で運搬されているとする。真っ直ぐ進んでいる時は全く順調に進んでいたが、それがカーブのコーナーにさしかかるとする。大半の部品は順調にベルトコンベアの動く方向に進んでくれるが、1000回に1度の割合で何らかの原因で歪みが生じ、部品がベルトコンベアの流れから外れて角に引っかかってしまう事がある。この場合それをずっと放っておいても決して元には戻ってくれないので、作業員である人が手でその部品を取って、ベルトコンベアの正しい位置まで戻してやらなければならない。これと同様に世界の経済情勢も最初のうちは、放っておいても自動的に上手くいくかもしれないが、次第に何らかの原因で歪みが生じ、経済活動が上手くいかなくなるのである。この時はやはり、人為的に人が介入して上手く調整しなければ経済も上手く流れて行かないのである。単純な仕組みのベルトコンベアでさえ歪みを生じさせるのだから、それよりももっと複雑なネットワークで動いている世界経済は上手くいかなくなって当然なのである。要するに、初期の段階の経済の流れまでなら、市場経済の自動調節機構、すなわち、神の見えざる手は存在するが、ある程度にまで経済情勢が発達し、熟年期、高年期にさしかかると神の見えざる手はまるで効果が無くなってしまうのである。現在の私達の世界の経済情勢はまさにカーブのコーナー(高年期)にさしかかっており、誰か飛び抜けて頭の良い、信頼出来るリーダーが神業で操作しない限り、世界経済全体は正しい方向に決して戻ってはくれないのである。