高田義裕の人生論

今日の箴言

左腕で左腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、右腕によって左腕をつかむ事が出来る。また、右腕で右腕をつかむ事は出来ない。あくまでも、左腕によって右腕をつかむ事が出来る。すなわち、それ自身がそれ自身の存在を証明する事が出来ないという事である。例えば、あなたという人間は自分は今確かに存在しているという自覚があるかもしれないが、あなた自身の存在をあなた自身が証明する事は出来ないという事である。あなたという存在が確かに存在する事を証明出来るのは、あなた以外の別の人間があなたを見てあなたは確かに存在していると認めなければならないのである。この理屈をマクロの視野まで広げてみるならば、私達の生きているこの世界全体もそれ自身では自分の存在を証明する事は出来ないのである。すなわち、私達がはっきりとこの世界は確かに存在していると自覚していても、この世界自身は果たして存在するかはわからないのである。もしかすると我々の住むこの世界は実在しておらず、我々の世界は単なるバーチャルワールド、すなわち、仮想現実かもしれないのである。この私達の世界の存在を証明する為には、この私達の世界とはまた別の存在、もしくは別の世界が存在しなければならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人よ、あなたは全人生において成功と幸福を同時に得る事は出来ない。成功を選ぶか、幸福を選ぶかのどちらかにしなさい。上水と下水が共に混ざり合う事は無いように、あなたは神と富とに同時に仕える事は出来ないからである。またあなたは神と悪魔とに同時に仕える事は出来ないのである。幸福は神に属しているのに対して、富と成功とは悪魔に属しているからである。よってあなたは神と共に貧しくても幸福に生きるか、悪魔と共にこの世の栄光と富という成功を得る代わりに不幸に生きるかのどちらかを選ばなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しい事柄は無数にあるかもしれないが、唯一かなめの事柄、すなわち、真理というものは常に1つしか無いのである。これは無数の人間がいても、あなたという存在は1人しかいないのと同様である。

2.聖書=事の結論であって、たとえ現在、どんなに新しく別の素晴らしい道や可能性が私達の前に開かれているかの様な気分になっても、それは結局は朽ち果てて行かざるを得ないものであり、人間の編み出す事柄はすべて、過去であろうと、現在であろうと、将来的にであろうと、決して永続的な性質のものでは無いのである。私達は、聖書を読むことによって、この世界の序論と本論をいわば飛び越えて、結論を知る事が出来るのである。人間にとって刺激的、快楽的な事柄であればあるほど、それはすぐに枯れてしまう美しい花のようであって、結局は神の言葉しか残らないのである。神の口から出る真理の命の言葉こそ、永続性を持つものであって、結論を言えば、人間にとって、唯一真の神エホバを恐れ、その掟を守る事こそ、人の行うべき務めのすべてであるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰でも、有名人に成りたい、周りの人からの注目を浴びたいと思うものであるが、実際今、有名人になっている人達の心情とはいかなるものなのであろうか。彼らは超人気者であるから、毎日がスケジュールで埋め尽くされており、忙し過ぎて寝る暇もない。たとえ寝れたとしても、それは2、3時間程度であり、それもスタジオからスタジオへと移動するバスの中で仮眠するしか無い。毎日がその調子なので、疲労も限界に達し、顔色も悪くなってくる。しかし、それでもテレビの前では、さも元気なように疲れた顔を押し殺して、とびきりの笑顔で視聴者やファン達に手を振るのである。何と地獄の様な日々なのであろう。自分は有名人なのに自分の本音は語れず、ファンの為にいつもニコニコしていなければならない彼らは周りの人々の奴隷の様である。また、有名人である故にその私生活も覗き見され、プライベートな時間などあったものでは無い。うかつに外にも出れないし、大半を自分の家にいるしかない軟禁状態になってしまう。これではまるで犯罪者のような不自由な生活では無いか。彼らはお金はあるかもしれないが、お金の為に自分の人生を犠牲にしている、まるでマリオネットのようである。彼らが切に必要としているのは、一般人の様な普通の生活であり、私生活を覗き見され無い事であり、普通に外に出かけられる事であり、本当は苦しいのに外面は笑顔を見せなければならない虚飾からの脱出である。それでも有名人に成りたいと思うならいっぺん有名人に成ってみれば良い。多くの人の目から注目され、凝視される様はまるで見物客に注視されている動物園の檻の中にいる動物の様であると感じるであろう。それだけ人々の注目を浴びるという事は人間にとって非常に不自然で不健康な事なのである。所詮人間は人間なのであり、神の様に人々から崇められる様には造られていないのである。まさに彼らこそアイドル、すなわち偶像であり、人々から偶像崇拝されている偶像なのである。真の神は自分以外の誰も崇拝の対象としてはいけないと言っておられるのであり、その理由は偶像を崇拝する者も偶像崇拝される側も共に悪影響を受ける事を、彼らが被害を受ける前にそれを警告しておられるからである。要するに有名人になっても幸福感は全く無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は私達自身が私達自身を愛する以上に私達を愛して下さっている神エホバを愛さなければならないのである。

2.以外な事にも、人は正しい事柄を聞かされて自分の誤りを指摘されるよりも、人は自分の話を聞いてくれ、理解してくれる方が遥かに自分の誤りを認め易いのである。

3.人の内から生じる誇る気持ちが、次第にその人自身から外部へ向けての表情の豊かさと表現力とを奪って行くのである。すなわち傲慢な者ほど仏頂面になり、何の表情も表現出来なくなってしまうのである。

4.[生きる]という事は、[永遠の期待]と同一の事である。すなわち、人は永遠に渡って希望を持ち続けるのである。しかし、希望とは約束された事柄がまだ果たされていない状態を示すから、人は永遠に渡ってこれでもう何も要らない、と思う事は無いという事である。

5.何物にも勝って動かないものは人の心なのでは無いだろうか。人は幼い時は、どんな事柄にも驚きと喜びを素直に顔の表情に出していたものだが、いざ成人するといつの間にか、どんな事柄にも驚きと感動と感謝の心が鈍くなってしまって、心を揺さぶられるという事が出来なくなってくる。すなわち、心の柔軟性の無い、心の重い人間になってしまうのである。よってあなた方は常にどんなに些細な事柄でも感動と感謝の念を培い、ぜひ、心の重量の軽い、そして心の柔軟性が水のように変幻自在であり、どんな事に出逢っても機敏に反応する心の良い状態を保つようにしなければならないのである。それが人の老化の進行を鈍くしてくれるものなのである。すなわち、感謝出来る人間と感謝出来ない人間とでは命の寿命が遥かに違ってくるのである。よって、どんな些細な事にも感動出来る心はその人の日常を幸福にし、長生き出来るのに対して、どんな素晴らしい親切を示されても、それに感動も感謝も感じ無い心の重い、心の鈍い者はいつまで経っても不平不満を持ち続ける事で、その人の人生は不幸になり、その命も短命なものとなるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世界中で私のブログを読んで下さっている読者の皆様、いつも本当に有り難うございます。皆様から送って下さる数々のコメントを毎日読まさせていただきまして、私自身大変感謝しており、日々励まされております。しかし2、3日前からその読者様のコメントを載せてくれているウェブサイトが突然表示されなくなり、私としても非常に寂しい限りでございます。それでもこれからも読んで楽しいと思われるような記事を書いて行こうと努力して行こうと思いますので、これからも読者の皆様のお力添えをお願いし、末長くお付き合い下されば幸いと存じます。

私の愛する読者の皆様へ。 高田義裕(タカダヨシヤス)より。in japan.

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達人間は完璧では無い故に、人の前に良いものを備えたい場合は、日頃から怠りなく、用意周到でなければならないのである。すなわち、常日頃からコツコツと良い準備をし、いつでも人の前に良いものを出せるように毎日自分の心を清く保たなければならないのである。よって、普段は悪い事を影でしている人は、いざという時に常日頃の悪い行いの癖がつい出てしまうのである。そこでその人はみんなの前で恥を掻く事になる。すなわち一夜漬けや、やっつけ半分ではいざという時、決して良いものは出せないのである。

2.人は何を口にすべきで無い自分だけの賜物であるか、また何を公表すべき自分の権利であるかを見極めて、自分の口を思慮深く用いる者は幸いな者であり、その者に災厄は臨まないのである。

3.どんな時でも、またどんな状態であっても、寛容さからすべては始まり、また解決されるのであり、決して非難や批判からは何も始まらないし、また解決されないのである。

4.どんな人からの評価であっても、その人そのものに向かっているのでは決して無く、その人の努力に対して向かっているものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

生きている事柄という事は定めていないという事柄と同一である。

2.期待とは、見えない事に対する希望であり、愛とは、予想外に対して常に良い準備が整っている事である。

3.過度の自信は、悲嘆をもって終わりとなり、過度の期待は心を病ませる。

4.はっきり言って、神エホバ以外の対象に重きを置く事が偶像崇拝なのである。例えば、神エホバよりも仕事が大事ならば、その人にとって仕事が偶像崇拝であり、神エホバよりも結婚相手が大事ならば、その人にとって結婚相手が偶像崇拝であり、神エホバよりも家族が大事ならば、その人にとって家族が偶像崇拝なのである。このように一見すると人間にとって当たり前の事であり、むしろ正しい事と思われる事が、あなたの神エホバよりも優先される場合、それらはすべて間違いとなってしまうという事である。ここが真の神エホバを何よりもまず優先して崇拝することの難しさとなっているのである。この観点で言えば、ほとんどの人は神エホバを崇拝しておらず、神エホバ以外の何らかの事柄に重きを置いて偶像崇拝を行っているという事である。

5.聖書の神エホバは、人が仕える神であって、人に仕える神なのでは決して無く、真のキリスト教は、他の宗教群のような、神に対する人間の側からの考察と観察の研究に基づいている種類のものでは決して無く、あくまでも神の側から一方的に啓示された宗教なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

大昔に人は神エホバの義なる支配圏から故意に反逆したのであるから、神エホバは今日、人が悪魔サタンの邪悪なる支配圏からの故意による放棄によって救われる事を意図されたのである。よって、神エホバの義を守る故に受ける迫害をも、神エホバに従う者達にとっては、必ず通らねばならぬ一種の必須条件であると言える。なぜなら、迫害をも恐れぬほどの覚悟の行動による従順で無ければ、最初の人間アダムとエバの取った神エホバを恐れぬほどの覚悟の反逆と対等に釣り合わないからである。

2.私達の内にある自己満足の神、自己暗示の神、自己愛の神はすべて、最終的には真実の神エホバにひざまずかなければならないのである。

3.私達は誰が救われるのだろうかと言って、キリストは天には昇らなかったと言ってはならない。また、私達は誰が滅びるのだろうかと言って、キリストは死ななかったと言ってはならない。私達は皆、キリストは確かに死なれて、その後三日後に神エホバ御自身によって蘇らされ、確かに天へ昇られたと言わなければならない。

4.人間自身が定めたどんな立派な動機も、いずれ後には、必ずマンネリというものに化学変化してしまうのである。

5.聖書の聖句にある[ただ自分の目から見て思慮深い者となってはならない。]というたった1つの言葉によって、どれだけ多くの人がそれによって身をかがまなければならないだろうか。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神エホバと人間との関係は、人と人との関係と同じである。人は他の人に何かをしてもらいたいのならば、まず自らが先にしてあげなければならないのである。それが人間関係の公理とも言えるものである。もし、自分は自分の方から何もしなくても先に他の人から受けるに値する人間である、と考えている人がいるなら、それは非常に図々しくて、虫がよすぎる利己的な精神の持ち主であると言える。何事も要求する前に自ら努力せよ、なのであって、もし、自分が人から好かれたいと思うのならば、何もせずにただ、自分を好きになってくれる人を待つのでは無く、まず自らが他の人を好きになる事が必要なのである。あなたが相手を好きになれば、相手も必ずあなたの事を好きになってくれるし、あなたが相手を嫌えば、相手もあなたの事が嫌いになるのである。同様に、神エホバに自分の請願を聞いてもらいたいのなら、まず自らが先に神エホバに働きかけ、常日頃、神エホバの御意志に適う事柄を熱心に行い続け、それを習慣づける事によって自らエホバに近づくのである。あなたが一歩エホバに近づけば、神は99歩あなたに近づいて下さるのである。そのように長い時間をかけて徐々に神と親しくなる事によって、神はあなたの思いもかけない時にあなたの請願を叶えて下さるのである。