高田義裕の人生論

今日の箴言

人は正しく生きるべきだ、と言われる。ある親は、自分の子供の人生を決して失敗しないように、まるでレールを引いてその上をなぞって行くようなステレオタイプの決まりきった、そして、安定した道を踏み行かせようとする。なぜなら、親自身が若い頃、好き勝手な事をして、散々痛い思いをして失敗して来たからである。それで、せめて自分の子供にはそのような無駄で苦しい思いをさせたく無いという一心でそうするのである。しかし、そのような子供の育て方は果たして子供にとって幸福かと言うと決してそうでは無い。ここで考えて見よう。親自身はなぜ自分のした事が無駄で失敗したという事に気付いたのであろうか。それは、自分が好き勝手に無茶苦茶な事をした結果、初めて気付いたのである。人類の歴史もそうでは無いか。人間は過去からずっと争い合い、殺し合い、血で血を塗る残酷な歴史を持っている。その人類の好き勝手で、無茶苦茶な経験があるからこそ、今の現代では、昔のして来た事の反省があり、戦争はしてはいけないものであるという正しさを認識出来たのである。すなわち失敗しない人生などあり得ないのである。よって、失敗しない正しい人生を歩ませようとする事は全く正しく無い、間違った教育なのである。親は自分の努力して築き上げた人生の知恵なり経験を子供の心に移植する事など出来ない。人は親からお金を相続する事は出来ても、心の財産は相続出来ないのである。1人の人間が誕生したのであれば、それはまた一文無しからのゼロからのスタートなのである。たとえどれだけ、良い事を教え込んでも、子供の心には入って行かないのである。よって、人は誰か別の人が決めたルールに従って生きるのはその人にとって少しも益にならないのである。。たとえ、親の言う通りに生きたとしても、何やら生きているのか、死んでいるのかわからない、煮え切らない思いで、悶々とした気持ちでその子は終生を過ごすであろう。それよりも人はたとえ失敗してでも、自分のしたい事、もしくは、自分自身で決定した事を行うべきなのである。たとえそれで痛い目に遭っても、最後には、それは自分自身が決めた事だからしょうがないと割り切る事が出来るし、納得出来るのである。これこそ大事な事なのであり、失敗しようが成功しようが、そんな事は大事な事では無く、ただ我が人生に一片の悔いなし、と言える事が人間の人生で最も大切な事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

1.私達はクリスチャンとしての行状を、使い古された言葉や、提唱された法律の前に自らを推薦するのでは無く、私達はクリスチャンとしての行状を、すべての人々の良心に推薦するのである。

2.聖書に拠る救いとは、こうあるべきだ、こうに違いない、という自己暗示によるみかけの安心感の事では決して無く、事実によってもたらされる、決して揺るぎない確信から来る心からの安心感の事なのである。

3.私達人間にとっての真理とは、お互いが自分達の神エホバを心を込めて愛する事と、私達人間がお互いがお互いを心から愛する事のたった2つだけなのである。

4.何と言っても、人間一人一人には、その人特有の心の偏り、すなわち、心の傾向という性向があるのである。それをまず本人が気付くという事が、自己認識の基本である。

5.聖書から結論出される人間一人一人の立場というものは、次のように定義できる。まず、すべての人間の根源である最初の人間夫婦アダムとエバの、神エホバに対する故意による反抗的精神によって、彼らから産まれてくるすべての子孫は、その子孫には直接責任が無いのにもかかわらず、無条件に不完全さを受け継ぎ、すべての者は罪の内に産まれてくる。そして、その罪深い傾向が、長い期間、何らかの仕方で処置されなかった為に、あらゆる形の種類の不完全さによる弊害が生じ、人々は悪を悪とは自覚しなくなるほど、悪を行うのに凝り固まってしまったのである。よって、すべての人間の心の性向として、権威という対象に対して何らかの反抗的態度が見受けられるのである。それは自分の親に対してであったり、教師に対してであったり、社会に対してであったりするのである。それで神エホバはアダムとエバ以外のそれらすべての子孫に対して、御自身の救いの道を施す事を決意され、昔には、イスラエルの人々に対して御自身の意志を示されたのである。しかし、イスラエルはまた、堕落の道を自らが選んで、神エホバから離反した。なぜなら、その方の厳密な表現である御子イエス・キリストに信仰という形で近付こうとはしなかったからである。それにより、本来は救われる範疇には決して入って居なかったイスラエル以外の他の諸国民に救いの道が予想外に開かれたのである。聖書にはまさにこう書かれてある。新約聖書、ルカによる書14章16節から24節に、イエス・キリスト御自身が語られた言葉で、[イエスはその人にこう言われた。ある人が盛大な晩餐を設けていました。そして大勢の人を招いたのです。そして彼は晩餐の時刻に自分の奴隷を遣わして、招いておいた人たちに、おいでください。もう用意ができましたから、と言わせました。ところが、彼らは皆一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました。私は畑を買ったので、出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします。お断わりさせてください。また別の者は言いました、五くびきの牛を買ったので、それを調べに行くところなのです。お願いします、お断わりさせてください。さらに別の者は言いました、妻をめとったばかりなのです。そのため、参上できないのですが。それで、奴隷はやって来て、これらのことを主人に伝えました。すると、家あるじは憤って奴隷に言いました。急いで市の大通りや路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、盲人、足なえの人などをここに連れて来なさい。やがて奴隷は言いました、ご主人様、お命じになったとおりに致しました。でも、まだ場所が余っております。すると主人は奴隷に言いました。道路や柵を巡らせた場所に出て行き、無理にでも人々を入って来させて、私の家がいっぱいになるようにしなさい。あなた方に言うが、招かれていたあの者たちには誰にも私の晩餐を味わわせないのだ。]

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は幸せになろうとして幸せになる事は出来ない。あなたは、本当にその物事に集中している時、自分は今集中している、と意識するだろうか。意識してはいない。いやむしろ、意識していては、集中出来ないのである。よって、同様に、自分は幸せになるのだ、と意識した瞬間に、幸せはどこかに飛んで行くのである。すなわち、幸せになろうと意識する事によって、それは欲望の対象に変化してしまうからである。しかし、こうも言える。幸せとは、いつもその人自身の心が決める。なぜなら、あなたが今、私は幸せだ、と実感し、意識する事が幸福感だからである。幸福感こそ幸せに他ならない。この時の意識は欲望では無い。例えば、人に親切にする時、親切にされた側は、あなたの純粋な助けたいという気持ちに親切にされた、と喜びを感じるのであり、もし、自分は親切にしてやろう、そして相手にいい人だと思わせようという動機で親切にするなら、親切にされた側はすぐにその狡猾さを見抜き、この人は自分をいい人だと私に思わせたくてわざと親切そうに見せているだけだ、と嫌悪感を抱くであろう。すなわち、そこに利得を得たいという欲望が入り込んでしまっては、すべては台無しになってしまうのである。よって、物事を行う時は損得抜きで、ただひたむきに純粋な気持ちで行うなら、それはすべて成功するのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あえて意識して正しい事をしていくよりも、自然に正しい事柄をしている状態が最も望ましいのである。なぜなら、あなたは息をしている時、それをわざと力を入れて、意識して息をしているか。そうでは無いであろう。私達は常に無意識に息をしており、自然と無理なく息をしているのである。それと同様に、正しい事も自然と無理なくする事で初めて正しいものとなるのであり、それをわざと意識して、行おうとする事によって、正しさを壊してしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

よく、それは本人の自己責任だから、しょうがないと人は言う。例えば、仕事にありつけないのは、本人の努力が足りないから、本人の自己責任であると言う。また、仕事が続かないのも、本人の意志が甘いから、本人の自己責任であると言う。確かに、ある程度までは、その本人の努力が足りないから仕事に就けなかったり、その本人の意志が弱いから仕事が続かなかったりするかもしれない。これは例えれば、気温が夏になって非常に高温になり、ある程度までは本人の我慢と忍耐力で暑さを乗り切る事が出来るかもしれないが、それが熱帯地域並みの気温になり、暑さも40度を超えるものになってしまえば、熱中症で倒れる者が続出する。それを私達はその人の暑さを我慢する努力が足りないので、本人の自己責任であるからしょうがないとは言わないだろう。また、気温が冬になって非常に低温になり、ある程度までは本人の我慢と忍耐力で寒さをしのげるかもしれないが、それが、北極圏並みの寒さになり、寒さも零下40度まで下がってしまえば、凍死する者が続出する。それを私達はその人の寒さを我慢する努力が足りないので、本人の自己責任であるからしょうがないとは言わないだろう。すなわち、現在、たくさんの浮浪者や失業者や貧しい人達が、増加しているのは、もはや彼らの能力とか、努力の欠如による自己責任であるとは言えないという事である。これはもう明らかに私達を取り巻く社会環境に責任があるという事である。こんな社会環境にしてしまったのは私達一人一人に原因があると考えなければならないのである。辛い思いをしているのは本人の自己責任であり、私は努力しているからそうはならなかったと自負してばかりいては、ますますこの社会環境を現状維持させる為の相対的な力となり、悪化の一途を辿るのに相対的に協力している事になる事に、私達はそろそろ気付かなければならない。そういう苦しい人達がいるのを尻目に自分だけは快適な生活を送っているのであれば、私達は自分達の良心が痛まないのを異常に考えなければならないのである。この世の中には、何もしなかった罪というものも存在するからである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

1.自分の知恵や自分の理解力によって自分を形造るのを止め、神エホバから直接に来る知恵によって自分を形造らなければならないのである。

2.自分で自分の事を十分に世話出来るのなら、私達は神という存在に対して、祈る必要性などあったであろうか。要するに、自分は自分を十分に導くことさえ出来ないのである。まして、他の人を導くなど、とんでもない事なのである。

3.救いの手立てを持っていない者は、また同時に裁く能力をも持っていない者である。よって、他の人を裁こうとするあなたは一体何者なのですか。あなたが御子イエスキリストであるはずも無いのにである。裁く事が出来るのはただお一人、救う事も滅ぼす事も出来る方、エホバ神のみである。

4.当然、誇れるような行為をして、なぜ誇ってはいけないのか、と言う者があるかもしれないが、そうでは無く、誇ろうとする気持ち自体が罪なのである。ここで、神エホバは、なぜ禁断の木の実を置いたのか、とか、禁断の木の実とはどの様な性質上のものであったか、などは全く無意味な議論なのであり、要は、禁断の木の実を食べたいと思って食べた、という気持ちと行動そのもの自体が既に罪を産んだのである。

5.  [神]の定義

まず第一に、あらゆるすべてのものを良い、悪いという二極的な二種類のどちらかに決定する事の出来る能力を持つ存在の事である。すなわち、言い換えれば、絶対者という事である。

6.たとえ、どんなに賢く、奇抜で素晴らしい事に気付いたり、考え付いたりしたとしても、それは神エホバに従って生きる為の手段ではあっても、決して目的では無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は規則を守らない生き物である。さて、いつも違反を犯して規則を守らない者がいた。そこで私は彼に聞いた。なぜあなたはいつも規則を守らないのか、と。すると彼は、何でそんな事を聞くのかわからないといった表情をしてこう言った。そこに規則があるからだ、と。

2.人生とは難しい。人から管理されて生きるのは、楽だし、安定しているが、逆に自由が無い。逆に自由でも、それはジャングルの中に入る様なもので、甚だ危険に満ちている。要するに、生きるのが楽で、経済的に安定しており、そして自由気ままで安全な生活など何処にも無いし、かつて誰も経験していないのである。

3.数の多い順から、数の遥かに少ない条件についてまとめて見よう。

数の多い順から。1.精神的に貧しい者 。2.経済的に貧しい者 。3.コンプレックスを持っていていつも不満だらけの者 。4.小金持ち(資産が一億以上ある人) 。5.大金持ち(資産が100億以上ある人) 。6.お金があっても不幸な者 。7.自分のしたい事がわからない人。 8.嫌々仕事をこなしている人。 9.自分のしたい事がある人 。10.成功した人。 11.自分のしたい事で成功した人。大金持ちで幸福な人。12.貧しくても幸福な人。13.1人でいても幸せな人。14.謙遜な人。15.才能があって、その才能で成功して、大金持ちになって、幸せな人。16.精神的に富んだ人。17.全く普通の人。(これは、自分にコンプレックスも無く、何の不満も持っていない、何の不足も感じない、才能も無く、お金も必要無く、全く平常心でいる人の事である。よって、この世の中で一番数が少なく、幸福な者は、全く普通の人の事なのである。

4.お金を持っている人は、その代わりに、お金で買えない貴重なものが不足しており、貧しい人は、その代わりに、お金で買えない貴重なものを持っている。すなわち、すべてには一長一短があるのであり、お金も持っているし、お金で買えない貴重なものも同時に持っているという、すべてが揃った人など、古今東西、世界広しと言えども、誰一人としていないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

初めに、全知全能であり、私達の創造主であられるエホバ神、その方の独り子であられる御子イエス・キリストの尊い犠牲において、御前に近づき、お祈り致します。アーメン。

1.神エホバに対する信仰とは、正しすぎる事への追求では決して無く、正しさに関してさえ、平衡の取れた見方なのではないだろうか。

2.神エホバは、人が罪を犯した時、罪を犯した人そのものを憎んだと言うよりも、罪そのものを憎まれたのである。なぜなら、その後の神エホバは、世を深く愛し、御自分の独り子を使わされたからである。

3.実際、どのような義を実践していても、それらが信仰によって食べているもので無いのならば、それは以前として、罪の内にあるのである。

4.自分が、救いという業の一旦を担えないという事で手持ちぶさたであると感じている者達に対して言える事は、1人の人間ではとても手に負えないほどの仕事を自分は少しも負担せずに、神エホバ自ら、また、神エホバ御自身のみで行ってくれる事は、これほど私達にとって救いな事は無いのではないだろうかという事である。

5.私達人間にとって、たとえ、日々失敗してつまづくとしても、あきらめずに努力し続ける事こそが重要なのであり、悔い改め続けること、また、祈り続けること、そして、どんな患難にあっても忍耐し続けていく事が重要なのである。

6.はっきりと言っておく。もともと罪というものが何らかの形で固定して存在していたのでは決して無く、もとは無かったものが、引き起こされた事によって初めて存在するようになったという事実である。

7.罪とはそれ自体で自分を支える事は出来ず、違反を許す存在があって、初めて存在するものである。すなわち、違反を許しておられるのは神であり、罪が存在する事が、それと同時に、神が存在する事の証明となっているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

それぞれの人の限界は他の人が決定するのでは無く、あくまでもその人自身が決定する。あなた方はこれまでの人生の歩みで、決してこの人だけは許せないという憎しみの相手の人間がいることであろう。あなたはその人からひどい目に遭わされて来たから、決してその人を許せない。そう、その様にして自分の限界を自分自身で決めているのである。これは甚だ難しい事ではあるが、あなたがあえてその許せない相手の事を許すなら、あなたは自分の限界をさらに広げた事になるのである。すなわち、許し難い相手を許す事によってあなたの世界は更に広げる事が出来るのも、すべて、あなた次第なのである。

2.人は、それぞれ置かれている立場も事情も全く異なっているのであるから、自分の考えで一律に人を判断することは非常に愚かな事なのである。これは曲線をまっすぐな定規で測ろうとする様なものである。

3.賢いという事は、ある事柄を行った場合に、何を得るかだけに目を留めず、それと同時に、その代わりとして、何を失うかをも、ちゃんとわきまえ知っている事を初めて指すのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は物事を考えることにおいては自由である。例えば、鳥は、人間になりたいなどとは思わないが、人間は自分が鳥になってみたいと考えることは出来るのである。しかし、この考える自由というものにも1つの弊害がある。それは考える事だけは自由だから、自分の身分相応の遥か上の事柄まで連想し、想像出来るため、そのギャップに失望する事にもなるからである。例えば、自分は単なるビジネスパーソンの1人で、ひと月に15万円しか稼ぐ能力しか持っていないのに、理想だけは、自分は100億円欲しいし、高級車10台とヨットクルーザー2台と豪邸100軒欲しいと思ってしまえるのである。すなわち、10の能力しかないのに、100の能力を望む事も出来るのである。よって、10の能力しか無いのであれば、同時に10の能力の範囲内の事柄しか想像出来ないのであれば、10-10=0で過不足無く問題は無いが、10の者が100望んでしまえば、100-10=90で、90というギャップが生じてしまい、そのギャップを意識する事で不満が生じてしまうのである。言い換えれば、自分は15万円しか貰えないレベルだから、1000万円もする家はいらないから別に平気だ。とは思え無いのである。人は借金を抱えてまで、1000万円もする家を購入したいと考える者であり、自分は能力が無いから、何もいらないとは思え無いのである。すなわち、それを得る能力が無いのに、それでも、それを欲しいと思ってしまうのが人間という生き物なのである。幸福とはもう何もいらないという充足感から初めて得られるものであるから、人間は、常に理想を追い求め続けている限り、人間は永久に不幸な生き物なのである。