高田義裕の人生論

今日の格言

悪人の定義

悪人とは誰のことか?それは口では立派なことを言っていても、実際には自分の言った事柄を行っていない人間のことである。すなわち、実行力の伴わない人のことを言う。例えば、私は他の人に親切を行うと言いながら、実際には親切を行っていない人のことである。まさにその人こそ、悪人である。よって、その人から比べれば、何も立派なことを言わない代わりに何も実行しない人の方がより善人である。要するに、自分の言ったことに責任を負わない者は皆、悪いのである。それにより、我々は誰しも、口先では良いことを言っていても、実行力がないから、我々は皆、悪人なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

倫理の絶対条件

1.悪いことほど、魅力的に見える。

2.良いことほど、退屈なものに思える。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって正しいことが必ずしも人間にとって幸福であるとは限らない。例えば、正しさとは、今、現在の不平等で、不公正という偏りという常識と世界観を覆すことと定義すれば、今、現在の世界体制の根幹を揺るがしている新型コロナウイルスは正しいということになるからである。すなわち、大自然の摂理が新型コロナウイルスを生んだかもしれないからである。すなわち、新型コロナウイルスという疫病が来る前の世界体制の常識という知恵と富はもはや通用しなくなったからである。我々人類は、新型コロナウイルスの出現によって、新たな未知の世界をいわば、強制的に改めなければならなくなったからである。我々人類は今までの安楽で慣れきった世界観からの脱却のために今一度、生き残りを賭けての新しい知恵と価値観を身に付ける必要に迫られているのである。よって我々人類は元の生活にもはや二度と戻れないという真剣な覚悟でもって新しい道を切り開かなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

正しさの定義

正しさとは何か?それは単に善行を行うことではない。精密に言うならば、それは悪を行うことを習わしにする者が、善行を行えるようになることであり、善行を習わしにする者が悪行を行えるようになることである。もっと、具体的に言えば、精神的に弱い人が精神的に強くなるよう努力することであり、また、逆に、精神的に強い人が精神的に弱くなるよう努力することである。また、思いやりのない人が親切な人間になれるよう努力することであり、また、逆に、親切な人が不親切で思いやりのない人になれるよう努力することである。また、暴力的な人が、温和な人間になれるよう努力することであり、また逆に、温和な人が暴力的な人になれるよう努力することである。よって、これらすべてに共通する概念とは、その人にとって不足しているところを補うことにある。言い換えれば、自分の常識、世界観を覆すことにある。すなわち、自分という狭い世界からの脱却である。しかし、なぜ、我々人間にとって、正しさとは常に一様に単に善行を行うことを意味するのかというと、我々人間はすべて、神に対して罪を犯し、生まれながらにして罪人であるが故に、粗暴であり、不親切であり、悪行者であるからである。よって、我々にとって、温和で親切で善行を行うことは、現在においては正しい、ということに過ぎない。すなわち、正しさとは、あくまでも絶対的な価値観のことではなく、いつまでも、相対的なものであり、これを普遍的で抽象的に表現すれば、正しさとは、今ある状態の反対のことを行うということであり、また、自分に欠けている、すなわち、自分に無いものを取り入れようと苦心することであり、もしくは、自分にとって苦手なことにあえて挑戦し続けることにあるのである。よって、正しいことを行うことには、常に苦痛が伴う。例えば、暴力的な傾向にある社会には、平和であろうとすることが健全な社会なのであり、逆に、すべての人に健全さを要求する社会は、甚だ不健全で、不健康な社会なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

まず、自分自身が幸せでなければ、他の人を幸せにすることはできない。

他の人々をすべて、自分自身の分身と考えなさい。そうすれば、他のすべての人々に好意を持てるようになるから。たとえ、相手が自分自身にとって苦手な存在であっても。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

木を見て、森を見ず。森を見て、木を見ず。

人間1人1人は正しくなければならない。これは、言い換えれば、人間は欲望を抑えて、質素に生きることが最善である、と世間は言う。しかし、この価値観はまさに木を見て森を見ず、である。森という人間社会全体を見る時、すべての人間が一様に同じ価値観、すなわち、正しい人間であるとしたら、人間社会は上手く回らないだろう。これは、言い換えれば、すべての人間が欲望を抑えて、質素に生活すれば、社会全体はすべては貧しくなり、経済は盛いを失って、経済は立ち行かないのである。森という、マクロな視点で言えば、多様性こそが正しいのであり、贅沢が好きで、無駄遣いをしてくれる欲望の強い富裕層がお金を落としてくれるからこそ、社会経済は成り立ち、人は生きて行けるのである。よって、人間個人というミクロな視点、すなわち、一つの木を見た場合、人間1人1人は正しくなければならないが、今一度、視点を移し、マクロな視点、すなわち、森を見た場合、人間社会全体は、正しい人間もいれば、悪い人もいて、当然なのであり、いろんな価値観を持った人々がいるお陰で成り立っているのである。すなわち、多様性こそ、正しいのである。よって、我々の目は、木を見て、同時に森を見ることはできない。すなわち、言い換えれば、観察する対象を顕微鏡で見ながら、同時に望遠鏡で見ることはできないのである。すなわち、全体と部分を同時に見ることはできないということである。よって、人間にとって、人間は常に正しくなければならないということは、絶対的価値観[真理]ではないのである。すなわち、人間にとって、絶対的価値観、もしくは、絶対的存在[神]を追い求めること自体が悪[間違い]なのである。よって、神を信じる者もいれば、神を信じない者もいるのが当然であり、健全なのである。よって、正しい意見には必ず反対意見が存在しなければ、健全とは言えないということである。

高田義裕の人生論

今日の格言

新貨幣論

世界中にある様々な国々の貨幣の中で、どれが一番安心できる通貨だろうか?例えば、現在、人類は78億人いるとしよう。そして、その中にあなたという1人の人間がいる。仮にあなたの名前をジョンとしよう。あなたはそれだけでジョンという立派な通貨である。しかし、世界中にたくさんいる人々の中であなたというジョンは1人しかいない。すなわち、ジョン貨幣を使えるのはあなたしかいないということだ。これではあまりにも個人的でローカルな通貨に過ぎない。しかしあなたは日頃からまじめに働いて、次第に周りの人々から信頼を得るようになった。それで、周りの人々はあなたを信用してジョン貨幣を買ってくれるようになった。しかし、ある時、ライバルであるあなたより影響力のあるスミス氏が現れた。あなたのジョン貨幣は10人の人に買われていたいたのに対し、スミス貨幣は100人の人に買われていた。すると、どちらの方がよりメジャーであり、信用できるかというと、残念ながら、スミス氏の方になる。なぜなら、単純にスミス貨幣の方がジョン貨幣よりも数が多いからである。しかし、さらに、スミス氏よりトップインフルエンサーであるマイケルが現れた。なんと、マイケル貨幣を持っている人の数は10000人もいたのである。これでお分かりだろう。貨幣の価値、すなわち、信用度の高さは、その通貨を利用している人間の数の多さで決まるということである。この世界で一番多くの人が利用している通貨はドルである。よって、通貨の信用度は、通貨の使用量の多さに比例する。よって、結論として、今もまたこの先も一番安心できる通貨はドルということになる。よって、すべての国々の人はいつ襲うか分からない大恐慌に備えて、一番、世界中で流通しているドル貨幣をいざという時のために保有しておくと良いだろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

善人と悪人のジレンマ

善人になればなるほど、悪人になりやすく、悪人であればあるほど、善人になりやすい。これはどういうことか。例えば、人が善人であるという評判が高ければ高いほど、正直に振る舞うことは難しくなり、悪人であるという評判が高ければ高いほど、正直に振る舞うことはたやすい。例を挙げよう。ある人は日頃から親切な人で知られ、悪から離れ、まじめであり、日々、清い生活を送っていた。それで人々からは称賛を受け、評判もすこぶる良く、絶大な信頼を得ていた。しかし、ある時、その人が常日頃、仕事をまじめに行っている故に、日頃の疲れが溜まり、つい、仕事上でミスを犯してしまった。幸い、誰もそれを見ていなかった。そして、本来なら、自分がミスを犯したことを自分の上司に正直に報告しなければならなかった。しかし彼は、日頃の自分が人々から称賛されている評判が傷つくことを恐れ、正直に上司に報告することをしなかった。しかし、ある日、上司がたまたま彼の作業場に来ると、そのミスに気付いた。それで、善人にそのことを問いただすと、彼はしぶしぶ自分のミスを認め、謝罪した。そして、そのことが多くの人に知られるようになり、そのことを知った人々は彼に対して幻滅し、多くの人の信頼を失った。さて、変わって、ある人は日頃から悪人であることで知られ、常日頃から不誠実で不真面目であり、日々、悪行を犯していたので、人々から忌み嫌われ、評判も悪かった。しかし、ある時、その人が不真面目に仕事を行っている故に、それが原因で怪我をした。それで、悪人はその怪我に懲りて、自分の悪行を悔い改めた。すると、そのことが多くの人に知られるようになり、人々は彼が悪行を悔い改めたことで非常に驚き、彼に対して称賛の声が多く挙がった。このように、善人はちょっとしたミスで悪人扱いされるし、このように、悪人はちょっとした善行で善人扱いされてしまうのである。すなわち、この意味で、善人は悪人になりやすく、悪人は善人になりやすいのである。