高田義裕の人生論

今日の箴言

結局、すべての事は、その各々の心の状態がどうであるかによって決定され得るのであって、その各々の外見の良さや悪さによって決まるのでは決して無いのである。

2.人は、それぞれ互いの立場を尊重し合い、気遣い合い、大事にし合う事をしていかねばならないのである。

3.たとえ、それが正しい事であったとしても、急にそれに変化させる事は、害悪を生み出すのである。すなわち、車は急に止まれない様に、この世の中はなおさらの事、急に変われないのである。

4.後は何も要らないから、ただ一つ必ず行わなければならない事で、かつ、ただ一つ持っているべき事は、他の人の立場を全く尊重した、自分自身に対する様に相手に対して気遣う全く無私の愛の気持ちなのである。それも、相手から自分に愛を示されるのを待つのでは無く、まず、自分自身の方から積極的に声掛けをして、相手の方に近付いて行く行動力が必要なのである。

5.人間にとって、仲間がいない、誰からも相手にされなくなるという事は、死よりも悲惨な事なのである。

6.人は皆、人生に関して、得る事では無く、失う事だけを想定した対処をしていけば良いのである。なぜなら得ようとすると、必ず失望が来るからであり、捨てようとすると、希望が付いてくるのである。

7.それを守り通して、角が立ち、周りに弊害を与える程にまで正しいと思われる事を固辞する必要は無いのであり、すなわち、周りに迷惑をかけてまで守り通す程の正しいものなど、この世の中には初めから存在しないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、妥協すべき事と妥協すべきで無い事柄をきちんとわきまえ知る事が必要なのである。

2.たとえそれが、正しかろうが、正しく無かろうが、その内容に一切関係無く、その人の心や行動や人格に偏りが見られる事自体が問題なのであり、それが悪なのである。

3.何事もすべての事に対して、真面目過ぎて、深刻に考え過ぎてはならないのである。

4.知識とは、人の知らない事を知る為のものでは決して無く、むしろ、人と互いに共有する事を深める為のものなのである。

5.常に思いに留めておくべき事は、世の中一般で起きている事柄すべてを、自分が何か評論家の様になり、ひとまとめで一般論で判断したりしてはならないという事である。世の中は一般論で説明出来る程、単純で甘いものでは決して無いからである。要するに、一般論を聞いただけですべて分かったつもりにならない事である。はっきり言って、自分自身の身に生じている事柄以外の事は皆、自分の世界とは全くの別世界の出来事であると日々認識するべきである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の根源は何であるかと必死に模索している人は多いが、それは探さなくても既に私達は持っているのである。それは宇宙におけるビッグバンはどのようなものであったかを調べ、詳細に説明する事などでは決して無く、もっと私達の日常にとって、ごく身近な事であり、それは、互いが互いを自分自身の様に愛するという事なのである。これこそがすべての根源であり、すべてが始まる為の力そのものなのである。何故なら、あなたの存在の根源はどこから来たのか。それはあなたの母ではないか。要するに、あなたの生まれた根源はあなたにとって、日常的で身近にいる、親しい関係の母であり、父なのである。しかし、科学者達は万物の根源とは何か、といかにもそれらしく仰々しい、遥かに過去で起きたビッグバンなるものを詳しく調べている。これはあなたに関して言えば、あなたの母の母のそのまた母のずっと昔の母の系図を辿っていく様なものであり、そんな存在はあなたにとってほとんど関係の無いどうでもいい意味の無い事なのである。それらはもうあなたにとっては赤の他人であり、あなたの存在を誕生させた根源であるとは言い難いのである。要するに、人間にとって今この瞬間だけが大事なのであり、すべてなのである。遠い過去や、遠い未来など我々にとってほとんど意味を成さ無いのである。よって、今この瞬間を必死に生きなさい。そして、今出会っている他の人達を心から熱烈に愛しなさい。あなたの人生とは今なのであり、間違ってもビッグバンでは無いからである。いや言い換えれば、あなたにとって今という時間がビッグバンなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に必要不可欠で、大事な事柄には議論などその初めから全く必要無いのであり、常に激しい議論や争いは、些細な事柄に関して付随しているものなのである。

2.神からの音信の意味とは、決して他の人よりも裕福になるとか、珍しい事をやり遂げる人間になるとか、または、聖人の様に、人の模範的人物になる事を意味しているのでは決して無く、人間として誰もが当然持っている、当たり前の事柄を当たり前に行える人間にならなければなら無いと言っているのである。よって、神の主張には、私達人間に対して何の無理難題であり、特別な過度の要求などされてい無いという事である。

3.宿命として、常に革命が、たとえそれがどんなに正しいものであろうとも、決して避けて通る事が出来無い事は、その革命を実現させる上で必ず、相対する既存の既成事実との摩擦であり、衝突なのである。すなわち、変革には必ず犠牲と争いとが付いて廻るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書に書かれているように、罪に対して直ちに処罰が執行されなかった為、人は罪に凝り固まってしまったのであり、これは、麻薬中毒、アルコール依存性や、タバコ癖などと同様に、人は罪を行わずには生きていかれない程にまで、末期的症状になってしまっているという事である。終わりの日の現在、神に逆らう人間の諸体制が全地を覆い尽くしており、すべてが誠の神に敵して配置され、身も心も罪の上に築き上げられて成り立ってしまっている為、この様な時期に、誠の神の御意志を守り通す事は、人智を超えた神が助けて下さらない限り、人の努力だけでは決して不可能なものなのである。結局は、すべての事を成し遂げ、あらゆる事柄を裁かれるのは、神エホバのみであって、これはたとえ、救われる側にしてもかつ、救われない側にしても、皆それはエホバ神のものであるという事である。何故なら、神はすべてのものに対してすべてであられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

安い物でも、それを上質な物の様に着こなし、使いこなす事が真のファッションセンスなのである。

2.救いがある事に何の意味も無く、救いを受けるかどうかが、初めて問題なのである。あなたは今現代のタイタニック号に乗っている。あなたはこの世の中と言う船が間も無く沈没する事を知らない。それであなたは船の中で、毎日音楽を聴いて楽しみ、美味しい食事をして、この世を謳歌している。ある者は、お金を稼ぐのに必死で、毎日忙しく働いている。またある人は異性との交友を楽しみ、恋愛に夢中になっている。しかし、この船の船長、すなわちイエスキリストが間も無くこの世の中と言う船が、氷山の一角に衝突して沈没する事を知っている。それで彼はすぐに彼らを救う為に、救命ボートを用意した。そしてあらゆる所で緊急避難を呼びかけ、この船から脱出するように警告を発し続けた。しかし、この世の中と言う船の中にいる者達はその警告を聞いてもそれを無視し、あくまでも、船の中での生活を楽しむことを止める事をせず、せっかく既に用意されている救命ボートという救いがあるのにもかかわらず、それに乗ろうとしなかった。すなわち、救いはあるのに、誰もその救いに気付かず、気付いても言い訳をしてその救いを断った。そしてある日突然、船は氷山に激突し、船は傾き、沈み始めた。その時になって初めて事態の深刻さに気付いた人々は、驚き、慌てふためいて回りはパニックになった。彼らは我先に救命ボートのある所に行こうとしたが、その衝突の衝撃で救命ボートは船から海へ放り出され、粉々になった。それで人々は次々と真冬の凍る様に冷たい海の中へ投げ出され、溺れて死んでいった。どうだろう、今、この世界は、終末を迎えており、世界では、貧困、自然災害、大きな地震、あらゆる社会問題が起こっており、人類に対してこの後どうなるのか、警告を発しているのである。あなたは現代のノアの箱船である神の音信に注意を傾けているだろうか。それとも、いずれ滅びゆくこの世界の中で生活を営む事にあくまでも、夢中になるのであろうか。この世界は、神の大いなる日の戦争、すなわち、ハルマゲドンに向かって息を弾ませているからである。その時、人々のどんなに貴重な財産も、金や銀も何の役にも立たない。彼らはそれらを嘆息のあまり、ちまたに捨てる。よって人々よ、その神による最後の裁きが到来する前に、義を求め、柔和を求め、神を追い求めよ。この世界は天からの火によって滅ぼし尽くされるからである。なぜなら、この世の中の悲惨な有様が自らに滅びを要求しているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてのほとんどの人間達は、神エホバの心を喜ばせる事をせずに、ただ自分達の心を喜ばせる事だけに終始したのである。それは義と公正と愛ある親切によって、貧しい者、社会的弱者、取るに足りない者、見下げられた者、やもめ、問題を抱えている者に対して深い関心を示し、深い同情心を持って、彼らを援助する事も無く、ただ、自分自身の関心事だけに熱中し、彼らの事を放置しておいた事によって神を無視したのであり、彼らを助ける事によって、神を喜ばせる事をして来なかったのである。

2.救いの仕方には必ず優先順位というものがあって、まず、自分自身を救わなければ他の人を救う事は出来ないのであり、まず、自分の立場を安定させてからでなければ、他の人の立場を顧みる事は出来ないのである。もし、それが逆で、自分自身の立場が危ういのに、他の人を救おうとしてもそれは不可能であり、本末転倒な事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の思い通りの、望むままに行える事が優れている事では決して無く、それよりも、慣れるという能力こそがそれに勝って遥かに優れているのである。すなわち、優れている最大のものは愛する能力であるという事である。よって、偉大な順序として上から、愛、無(霊)、慣れ(心)、義、有(力)の順となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、能力においては何の差も無いのに等しいのであり、例え、ある人がある1つの方面に他の人よりも長けていたとしても、それがその人のレベルを他の人よりも高い事を証明するものでは決して無く、それはその人の長所の一つでしかないと判断すべきであって、その人全体が良いとは言えないのである。他の人は、その方面には長けていなくても、その人には無い別の面でその人よりも遥かに長けている場合が多いのであり、結局は同じ立場なのである。また、実際的には、ある事に非常に優れている場合、その代わりに別のある事に対しては普通の人よりも劣っている場合がほとんどなのである。すなわち、古今東西、天才と呼ばれて来た人達は、一種の人格障害を抱えており、例えば、数学に秀でている人は、精神的な病を抱えていたり、優秀な頭を持っている女性は短命であったりするのである。また、対人恐怖症の人は絵を描く事に優れていたり、ノイローゼ気味の人は優れた芸術作品を作ったりするのである。よって、心身共に健康な人は何の才能も無い普通の人だったりするのである。すなわち、何かの事で他の人よりずば抜けて優れている者は、自分の事を誇るべきでは無いし、逆に何の才能も無い普通の人は自分の事を嘆く必要も無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、経験豊かで思慮深くなる程度に応じて、人は慎重になり、口数は少なくなること。よって、経験不足な者ほど口数が多く、目立とうとしたり、自分の事を自慢したりして人の失笑を買うこと。

2.たとえ、神に従う、神に従わないのどちらかであっても、それに関係無く、神の事柄に関連して、人が知りたい事柄、もしくは、人が知るべき事柄はすべて、神によって、すべてのあらゆる立場の人々に対して明らかに明示されていること。それは、すべての人が生まれながらに既に持っている[良心]の働きなのである。

3.[お互いに愛し合うこと]こそが[正常]も[狂気]もまだ生み出されていなかった時分から、すべてのものの最初から存在しているものであり、それこそがすべてに対しての基であったのである。

4.良い事にしても、悪い事にしても、すなわち、何を行うにせよ、それが行われる為には、理由(正当な主張、義、大義名分)が必要不可欠なこと。よって、理由の無いものはその最初から成立し得ないこと。これは[証明すること]が生み出される以前の、物事の大前提であること。すなわち、どんな悪事もそれなりの正当性を主張をして行われていること。