高田義裕の人生論

神エホバが、アダム以降の人間の子孫達を憐れまれた理由は、現在、不完全である私達人間が、自分達の内に確かにある現実、すなわち、自分にとってそれが明らかに悪いこと、良く無いこと、おかしいこと、である事柄を十分に認識し、かつ、よく自覚し、分かっているのに容易にそれを止める事が出来無い、もしくは、なかなか止められないという、自分達の意志や望みとは別に自分の内に既に宿っている罪があらゆる悲劇を生んでいるというジレンマの苦しみを知っておられるからである。

2.自分に不利になる事を話さない事と、嘘をつく事とは違うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

無価値が無価値を支える事は出来無い。愚かさが愚かさを支える事は出来無い。無知が無知を支える事は出来無い。では、過ちを支えてくれるのは誰か。それは過ちを犯していない者なのである。私達は実に罪深く、いろんな過ちを犯す。それで世の中に罪が蔓延し、悪が満ち溢れているのを見て、人々は悲嘆し、神などいないと言う。しかし、それは逆である。罪深い悲惨な事柄が存在すればするほど、それは神の存在の確かさを証明するものとなるからである。なぜなら、悲惨な事柄を悲惨な事柄としてその存在を許す事が出来るのは、正しい事柄が存在するが故にだからである。すなわち、病気の者を支えてやれるのは、同じ病気の者では無く、あくまでも、健康な者だからである。例えで考えて見ると、今、1人の盲人がいて、自動車が激しく行き交う道路を横断しようとしている。もし、盲人が盲人を手引きするなら、2人とも自動車に跳ねられて死んでしまうであろう。やはり、盲人を案内するのは目が見える健康な人がするのであり、愚かな者が愚かな者を導くのでは無く、賢い者が愚かな者を導くのである。また、私達は自分のした事さえ、昨日の事も忘れてしまっているが、それは逆に言えば、すべての事を忘れる事なく、全部覚えておられる存在がある事を証明している。それは神である。あなたは傷を付けるとき、既に傷が付いているものに傷を付けたからと言って、それは傷を付けた事にはならない。あくまでも、最初から傷が付いていない清くて正しいものに傷を付けてこそ、初めてそれは傷を付けたという事が言えるのである。よって、この世界に悪が存在できているのは、善という正しい方、エホバ神が存在しておられる故になのである。なぜなら、悪という傷が、悪という傷に傷を付けるなら、悪自体が分裂している事になり、悪は悪としてその存在を成立させる事が出来無いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは過去の事は変えられ無いと思っていないか。すなわち、過去に犯してしまった取り返しの付かない言動は、もはや、過ぎ去った過去の事である故に絶対的に覆されないものであると思っていないか。実はそうでは無い。過去は変えられるのである。たとえ、あなたがどんな罪深い過ちを犯していても、あなたがまだ、生きているうちは、あなたの過去は変えられるのである。たとえ、あなたがかつて、犯罪者であろうが、殺人者であろうが、アルコール依存症であろうが、ドラック依存症であろうが、ありとあらゆる罪を犯していたとしても、今後の努力次第で過去に対するあなたの評価と価値観は変化するのである。それは、あなたが、以前の罪を深く悔い、悔い改めて、以前の生き方を捨て、間違っていた道から立ち返り、正しくて健全な行いを続けて行くなら、必ずや、あなたは他の人から敬意を払われるだろう。人々は、あなたの立派な行状や、素晴らしい人格を見て驚嘆するばかりでは無く、以前は犯罪者であった事を知る事により、それほどまでに変化したあなたの成長をむしろ、歓迎するだろう。例えば、以前は麻薬中毒者であった人が、悔い改めて努力し、今では、麻薬中毒者を更生させる事を支援するカウンセラーになっている。その人は自分が麻薬中毒者であったことにより、同じ麻薬中毒者の患者の苦しい胸の内を誰よりもよく分かる立派なカウンセラーと成れるのである。そう、自分の犯した過ちの故に、今や、立派に行動しているのなら、むしろ、過去の過ちがアドバンテージとしてあなたを飾るものとなってくれるのである。まさにこれによって、あなたは過去を変えた事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

支配論

この世界の支配層は、一般大衆をどのようにコントロールするかいつも考えている。一般大衆の生活とはどのようなものだろう。それは毎日額に汗して働き続け無ければ、生きていけない、生活していけない状況なのでは無いだろうか。誰もが大金持ちになって、働かなくても楽に生活してゆきたいと思うものである。しかし、現実は、人為的に、一般大衆が永久に金持ちになれ無い様に、意図的に制御され、絶妙にコントロールされている。すなわち、お金がすべての人間に隅々まで広く行き渡らないようにあえて操作してあるのである。なぜなら、すべての人々が金持ちになってしまったら、みんな誰も働こうとはしなくなるからである。支配層にとって自分達の手足となって、奴隷労働する一般大衆がいなくなってしまっては、非常に困るからである。これは宝クジに似ている。一等賞3億円の宝クジを買ったすべての人が一等賞を取ったらどうなるか。もし、3億人の人が宝クジを買ったなら、3億円を3億人で分けなければならない。すると、一人当たり1円の儲けしか無い。これでは一等賞を取った意味は無いのである。これと同様に、一握りの人間だけが世界中にあるお金の90%を独占しているのである。それで、残りの10%のお金だけが一般大衆に出回っている。当然、お金の数が少な過ぎるので、人々は必死で奴隷の様に働いてお金を手に入れようとする。この様に、ひどい思いをして働かなければお金は手に入らない様に支配層が仕組んでいるのである。この様にひどい思いをして、初めてお金は手に入るものだと、支配層は一般大衆に教育し、さもお金に価値があるかのように洗脳しているのである。すなわち、狡猾にも、支配層は、一般大衆に対して、あなたも頑張れば大金持ちになれますよ、と決して実現出来ない理想像を描かせ、労働する事を美化し、その偽りの宣伝で、一般大衆を生かさぬよう殺さぬように、ずっと働き続けさせる為だけの賃金しか与えないのである。よって、一般大衆が自分も裕福に成れると思って、一生懸命働いてお金を稼ごうとしているのは、まんまとこの世界の支配層の思いのままに操られ、餌食としてマインドコントロールされているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界に絶対的なものなど1つも存在しないという意味とは、1つ例えて述べるなら、人間が人生の中でこんな素晴らしい事があるのか、と驚く様な素晴らしさも、また、こんな事があって良いのか、と驚く様な悲劇も、時が経つうちに、いずれは使い古され、人々から飽きられ、次第に廃れて行って、遂には全く忘れさられてしまうという事である。なぜなら、私達よりもずっと昔の時代にも信じられ無いくらい、途方も無い、素晴らしい事柄や悲惨な事実があったに違い無いからである。しかし、今はどうだろう、そんな昔の事を知っている者など1人もいないのである。

2.自分の言う事に、一貫性が無ければ、何も信用されないのである。よって、約束した事は、果たせ。しかし、自分には無理な事を約束するよりは、むしろ初めから約束しない方が良い。人間はともすれば、自分に実現不可能な事柄を約束してそれを果たせずに、人からの信用を失ってしまうからである。そんなくらいなら何も約束しない方がよほど信用される。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世の中の常として、努力している者には、必ず助力者が出て来るという事である。すなわち、逆に言えば、努力をしていなければ、誰も助けてくれないという事である。

2.自分が自分の弱さと戦う努力をしなくて、すなわち、自分の弱さを社会のせいにしたり、それから逃避して、安易に宗教に逃げたりしないこと。

3.個人が不倫をしているか、していないかを詮索する事や、個人が淫行を犯しているか、いないか、を詮索することや、個人的にマスターベーションをしているか、していないか、を問いただしたりする事は、全くのプライベートの侵害であり、たとえ、家族や夫婦であっても、侵害してはならないものなのである。それらは、すべて、個人的に解決すべき問題であり、本人と神の2人だけの関係であり、問題なのである。

4.良い事を行う事に、無数の機会が与えられているわけでは無く、良い事を行うことさえ、期限が定められているという事である。よって、その間に行わなければ、期限を過ぎて良い事を行ったとしても、それ自体は何の意味も成さ無くなってしまうのである。よって、善は急いで行うべき事である。

5.分かりやすく、滑らかに、流暢に話しの出来る者達に対して言える事は、本来、上手に話すべきなのはすべて、相手の人間に容易に理解してもらうのがその目的なのであり、自分が上手に話す事が出来る事を誇る為にあるのでは決して無いという事である。よく、素人や一般人には全く難解で理解出来ない専門的知識をそれが難しいほどそれを自分が知っている事を誇っている者達がいるけれども、本来、学問とは、全域に行き渡らされる為の手段にしか過ぎ無いのであり、万人の為の目的で行われるべきものなのであり、その様な学問の為に学問をする様な血迷った事をしてはいけないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神がすべての人に与えた賜物とは、その人の要求をすべて叶える万能の力では無く、慣れる、という能力である。人間は、たとえどんなに過酷な状況に立たされても、その状況から逃げるという能力は与えられていないが、たとえどんなに過酷な状況に立たされても、それに慣れて順応する能力を持っているのである。これこそ最強の力であり、それは、どんな姿にでも形を変える水の様である。水ほど力強くて恐ろしいものは無い。水はどんな兵器よりも恐ろしい武器である。津波を思い出して見ると良い。津波はその巨大な力ですべてを飲み込み、洗い流す。どんなに入り組んだ所にも侵入して物を破壊する。しかし、普段は、おとなしくて、すべての生き物に水分としての潤いを与える。まさにこれこそ、万能の力なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある人にとって、それが悩みと感じる場合にのみ、それは、その人にとって悩みなのです。ただ、悩みを乗り越える努力と他の人に援助を求めないで、それをずっと悩みとしてとどめておく事が、初めてその本人にとって有害なものとして作用するのです。何故なら、悩みが解消されずに、それが蓄積されると、人は病気になるからです。

2.神に拠る裁きの日には、この世の中では、当然の事として受け入れられ、神の代わりをしていたあらゆる上位の者達、もしくは、人々がそれが消滅するとは夢にも思っていないほどの礎石の様に不動な権威がすべて、神御自身によって覆されてしまうという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

日頃、仕事などを通じて分かって来た事は、何事においても、それをしたり、しなかったりという中途半端な精神態度は自分自身にとっても、また、周りの人々にも非常に迷惑をもたらすという事である。むしろ、するか、しないのかのどちらかにはっきりした方が精神的、肉体的な健康には良いのである。

神とは、目に見え無いという事が他と違うだけで、後は人が人に対する振る舞いの仕方と、人の神に対する振る舞いの仕方は同様なものなのである。すなわち、神は人格神であり、同じ人格的存在である人間に対する様に話しかけたり、祈ったりして神とコミュニケーションを取れば良いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生の処世訓として、必要不可欠な事は、とにかくどんな人間に対しても、相手の話を真剣によく聞いてあげる事に尽きる。人はともすれば、自分の事ばかり話しがちであるが、その衝動を是非とも抑えて、相手の人間に関心を払って、とにかく、相手の言いたい事を全部聞いてあげる事である。そうすれば、あなたが第一印象で判断していた相手の人が、自分が思っていた人物とは全く違う事に気付くであろう。思いがけない相手の尊敬出来る所や、自分には全く真似の出来ない程の苦労をして来た事にも気付かされるであろう。そればかりでは無く、相手の話や意見を聞く事によって、今まで自分が当然と思っていた常識的見解が覆されるであろう。それによって、自分自身の考え方の範囲が広がり、また別の視点で物事を見れる様になり、自分にとって有益な情報が得られるである。すなわち、大事な事は、じっくり相手と話もしていないのに、見た目の第一印象で他の人を判断しては決してならないという事である。第一印象ほど、身勝手で、すべての人間関係を破壊するものなど無いのである。