高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人から自分に対してよく言われる事、また、自分に正に今必要な事、また自分に不足している事とは、自分はもっと他の人と交わって、良い意味でもっと互いに刺激し合う事であり、自分だけで満足している、狭い世界の殻を破って、自分の小さなプライドを脱ぎ捨て、より広い世界を獲得しなければならない事であり、もっと、自分をさらけ出し、素直になる事だと言う事である。人とは、傾向的に言って、出来れば、他の人に全く頼らないで、全部自分一人の力で解決したいという、ある意味で強がっている高慢な所があるのであり、その為に友達が居なくて孤独であるのである。そう言う人は、自分の感情をありのままに出す事を、恥ずかしい事だと思うタイプなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近、私達はAI、すなわち人工知能の事をよく話題にする様になった。特に議論されているのは、今まで人間の行って来た仕事が人工知能によって取って代わられるという危機感である。例えば、専門職の弁護士や税理士などといったインテリ型の職種が、人工知能でまかなえる様になるという意見である。しかし、私はその事に関して余り心配していない。なぜなら、人工知能は、ただ、事務的に仕事をこなし、何が一番効率がよいかという事を導き出す能力においては、人間はそれに遥かに及ばないが、効率性とか、最適化とかという理論ではない、より人間臭い、効率性とは程遠い分野においては、人工知能は人間には敵わないからである。例えば、思いやりの気持ちとか、同情心とか、情状酌量の余地などと言う数字では表せない観念の世界は、人工知能には理解出来ないからである。すなわち、仕事をする際、どうしても人間対人間の関係上、最終的には人間的な判断というものが必要不可欠になるからである。その様な泥臭い人間関係を潔癖で完璧な人工知能に分かる訳が無いのである。よって、近い将来、人工知能が仕事を肩代わりする様になっても、それは、複雑な計算上の処理だけに用いられて、本当の要の部分は、あくまでも、感情を持った人間が決定権を持つ事になるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

論理学(公理の定義)

私達にとって、論証を成立させる場合、まず最初に公理という私達の生活と直接に影響の無い、無害で、かつ、確実に私達の生活の延長線上にある証明を必要としない定義、すなわち、無定義要素が必要不可欠であり、それらには以上の2つの性質が必要不可欠であること。

公理の性質 1. 私達の生活している世界の現象範囲と比べて、遥かに規模が少な過ぎて、ほとんど微々たる影響しか与えないほど小さいものであること。

公理の性質 2. 私達の生活している世界の現象範囲と比べて、遥かに規模が大き過ぎて、直接に影響を及ぼさないほど大きいものであること。

公理とは何か。

公理とは、私達の生活の現象範囲にとって、影響力は無いが、無関係でも無いものである事を意味する。よって、くだいて言えば、[互いに影響力の無い関係]であること。すなわち、影響力と無関係とは、必ずしも同一のものでは無いのである。要するに、影響力を受ける関係と影響力を受けない関係の2種類あるという事である。

 

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリスト教神学序説

この世界を成り立たせているのは、何かの絶対的法則の様な、何か無機質なルールとかでは無く、すべてを成り立たせているのは、ただ、神の御意志だけであるという事である。すべて、規則では無く、気持ちによってすべてが形作られているという事である。よって、その気持ちが変化すれば、すべてのものも、皆、初めからやり直しになってしまうという事である。よって、神の御意志次第で、今あるこの世界のさまと全く別のものを神は新たに造る事がお出来になるのである。例えば、人類の人口が、増え過ぎるのならば、神はそれに応じて、地球を2つ造る事もお出来になるのである。

2.聖書の言う肉的であるとは、思いつくままに行動する、すなわち、欲求のままに身を任せること、いわゆる損得の価値観で行動する事を言うのである。しかし、それに対して、聖書の言う霊的であるとは、損得もしくは、善悪の価値観を一切超えた、まるで全く存在しないかの様な、自己主張というものの全く無い、もはや、生や死という区分を超えた計り知れない存在の事を言うのである。その様な意味で、霊であられる神は、肉的である私達人間にとって、見る事も感じる事も出来ない存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に謙遜な者は、本来、疲れるという事が無いこと。この様に疲れるという事は、肉体のごく当然の生理的欲求の様に思われがちであるけれども、実際には、あくまでも、心の有り様と深い関係があるという事である。よって、疲れるという定義は、その体の使用される頻度や数値の限界を超えた時に生じる生理的現象の事を言うのでは無く、まだ、幾らでも余力があるのに、自分という意識が、すなわち、心であるが、これだけやれば、もう自分としては十分であると勝手に決め込んでいる自分が居て、その自己満足的な誇りの精神が、私は疲れた、と判断しているに過ぎないのである。すなわち、自分で勝手に限界を決めてしまい、その限度を超えると、もう自分には限界だ、と思い込んでいる心理的状態が、肉体にこれ以上働くな、という命令を出しているのである。これが疲れる原因であり、疲れるとは、あくまでも、肉体的なものでは無く、精神的なものであるという事である。よって、謙遜な者は、どれだけ人の為に働いても、これで十分だ、という自己満足的な誇りの精神が無いので、どれだけでも働けてしまうのである。すなわち、疲れを感じ無いのである。よって人間の本質とは、元々疲れ無い様に出来ているという事である。

2.人間にとって、永続的な喜びこそが、最大の、かつ、唯一の喜びである。よって、一時的な喜びは、確かにあるが、それは決して続かない偽りの喜びなのである。例えば、永続的な喜びとは、相手の人間に親切にしてあげて得られるさわやかな気持ちであり、清い良心を保つ事によって得られる満足感の事であり、一時的な喜びとは、アルコールを飲んで、浮かれ騒ぎをする事であり、麻薬を使用して堕落した肉の欲望に耽る事であり、それに類する事柄なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この現在の社会は本当に大変な事になった。日本では、勝ち組と負け組に分かれる現象が起きて来たが、もはやそれを通り越して、生きるか、死ぬかの差になって来ている。人々は、物凄く短気に成って、暴力事件は絶えないし、仕事も人間関係の悪化で、辞める者が続出している。みんなパワーハラスメントを嫌がって働こうとしなくなったし、そのせいで不景気にもかかわらず、すべての職種で人手不足になっている。今働いている人は、職場の人間関係とパワーハラスメントに耐えながら、一人で何人分もの仕事を抱え、過労死したり、それが元で鬱病が増えている。病院の精神科は、患者で溢れかえっている。物凄く恐ろしい世の中になったものだと思う。もはや日本人は食べていくだけでやっとなのである。いや、食べていけるだけマシである。就職も出来ずに住む所も無く、食べる事さえ出来ずにいる者達は、いっぱいいる。国から年金を貰っても生活出来なくて、70歳,80歳を超えても仕事をしなければならない。それも正社員にはなれない。皆、アルバイトかパートである。日本の銀行も存続が怪しくなっている。お金は預金者のお金でじゃぶじゃぶに余っているが、それを貸し付ける所が無くて、銀行は経営難に陥っている。もはや日本には希望が見えないのである。というか、日本だけでは無く、これはもう世界規模でそうなっているのだと思う。まさに世界の危機であり、人類社会の終焉が間近に迫っている。そこら中で地震が多発し、自然災害も物凄い。一体世の中はどうなってしまうのだろう。神よ、どうか私達を救い給え。苦しんでいる者達を助けて下さい。全創造物は皆、共に呻き、共に苦痛を抱いているからです。

高田義裕の人生論

今日の箴言

心、すなわち、精神や霊というものは、実際には物質の様に明確な存在や重さや形が無いものであり、その意味においては、実在しないもの、もしくは、実体の無いものと言える。それは神が物質的存在では無い故に、神という存在も、物質世界から見れば、実在しないもの、もしくは、実体の無いものという事が出来る。しかし、およそ、この万物の中で、一番存在が希薄であり、全く柔弱なものである私達人間という霊長類が、存在している事が、霊が存在する確かな証拠なのである。さらに、その霊、すなわち、実態の無い、心というものがすべてを決定し、支配する権利を有している現実も我々は知っている。よって、神に対する信仰とは、ほとんどあり得ないほどに、可能性の低いものに対して確かな希望を持つという事であると言える。なぜなら、人間とは、ある意味で、常に危険なところと、安全なところの境目で駆け引きをして、そのリスクの代価として、命を勝ち得ているからである。すなわち、生きるという事自体が実体の無い、実在しないものなのである。そういう意味においては、命そのものが実在と虚無の間で揺れ動く、実体の不確かな性質のものなのであり、ほとんどあり得ないほどに可能性の低いものに確信を抱くという意味においては、人が生きるとは、信仰そのものなのである。よって人間という存在自体が、肉体という実世界と、霊という実体の無い世界という本来なら決して両立せず、共存する事の出来ないもの同士が一つになって存在しているという、全く奇跡の産物なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

毎日、新聞やインターネットのニュースを見て、想像を絶するほど凄惨で、奇怪きわまり無い殺人事件を知る時、私が思うのは、この理解し難い殺人事件が、我々がむしろ、見た事も無い奇怪な宇宙人によって引き起こされたと言われた方が、ある意味で、よほどスッキリとして理解し易いのである。しかし、現実は、私達と全く同一の人間がそれを起こしたという事実を知る時、私達は、当惑し、混乱させられ、その事実を認めたく無いのである。この様に、常識では、考えられ無い事柄が頻繁に起きているのなら、私は、たとえ、どんなに理解出来ない奇跡が起きてもそれを少しも不思議には思わないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

実際には、物事をある事において、はっきりと断言したり、きっぱりと決定するという事は、それだけで、一種のエネルギーや良いものを減らしたり、スポイルしたりするマイナス行為の事なのである。要するに、人間は常にはっきりとした結論や答えを探し求めている者だが、およそこの世界に答えのはっきりした解決方法など、天地創造の初めから、決して無いのである。それは、量子力学においても、電子の位置を正確に知ろうとすると、その電子の速度が曖昧になり、逆に電子の速度を正確に知ろうとすると、その電子の位置が曖昧になる事と同じなのである。すなわち、物事の性質を正確に知ろうとすると、その物事の存在性は曖昧になり、逆に物事の存在性を明らかにしようとすると、その物事の意味が不明瞭なものになるのである。

2.キリスト教神学序説

神が、最初の人間アダムとエバに善悪の知識の実を食するな、と言われた神の命令と、神が最後の人間アダムであるイエスキリストの血を飲み、その肉を食せよ、言われた神の命令は意味上の点で一致すること。

3.イエスキリストが杭の元での死から復活された際、使徒ペテロに3度ご自身を愛しているかを尋ねられたのは、決してペテロを信頼していなかった訳では無い。あくまでも、それ以前に、ペテロが敵に対して3度イエスの事を否認させられた事に対する帳消しの言葉であり、ペテロに対する愛故に、ペテロ自身にそれを確認させ、弁明させる行為だったのである。

4.善も悪も、本来、神の公正で全き規準というバランスの取れた真理というものからすれば、元々は存在しなかった、真理から遠く離れたバランスの取れていない両極端な偏りでしか無いこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何が最も洗練されていて、カッコいいとか、もしくは、何が最もカッコいい服装なのだろうかと必死に考えている者達に対して言える事は、本当に洗練されていて、カッコいい事、もしくは、センスのいい人とか言う者は、この世界で最もカッコ悪いと思われる服装や身なりをしていても、むしろ、それがカッコ良く見える様な雰囲気と価値観に変えてしまえる人の事を言うのである。要は、その人の精神性や生き方が洗練されていれば、何を着てもカッコ良く見えてしまうのである。よって、大事なのは、外見では無く、あくまでも、心なのである。

2.一人一人の人生はあくまでも、各々その人だけのものなのだ。よって、その人にしか分からない苦しみもあれば、また、その人にしか分からない喜びもあるという事である。