高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて新しいものは、古くなる為にあること。

2.すべての定説は、覆される為にあること。

3.たとえ、一つ一つが、単純で簡単な事であっても、それは数が増えると、大変な脅威となるのである。例えば、水は、普段は、私達人間の思う通りに使用出来るし、全く水は、人間に従順で、おとなしい。しかし、いざ、極度の大雨や、地震による津波となった場合、水はまるで巨大な怪物となって人々を襲い、丸呑みにして行くのである。よって普段おとなしく見えるもの程、それが膨大に一気に来る時、それは牙を剥いた恐ろしいものとなる事を私達は、常に肝に銘じておかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人にとって、本当に、誤った道から立ち直らせる唯一の方法は、ショック療法しかないこと。この世の中の教育は、何でも初めから失敗させないように、まるで、決められたレールの上を走る電車のような教育の仕方をする。あなたは、盗んではなりません、あなたは、人を殺してはなりません、などと毎日言い聞かせて、口すっぱく言うが、それを聞いている子供は、将来、何も盗まない、人も殺さない人間になるかと言うと、決してそうではない。人は成人すると昔の面影もすっかり無くなり、別人のようになってしまうのである。すべての人は皆、小さい時から教育を必ず受けているはずなのに、この世の中はいつまでも、盗みや殺人は無くならない。これはどうしてかと言うと、何故人は盗んではいけないのか、何故人は人を殺してはいけないのか、というきちんとした理由と説明をしないで、ただ、そうしてはいけないと言うだけだからである。ただ知識だけでそれを知っているだけでは、罪を犯す抑止効果とはならないからである。そうしてはいけない理由を実際に身をもって背負わなければ、人は、本当に罪の重さを悟る事が出来ないからである。そう、実際に身をもって背負うという事は、いっぺん罪を犯さなければならないという事である。例えば、ある人が、誰かを殺してしまって、何の反省も無いとしても、その仕返しとして、自分の大事な子供を殺されたとする。この時初めて、人を殺したその人は、殺人が如何にいけない事かを、身をもって知るのである。すなわち、人は、取り返しの付かない事をしてしまって手遅れになって初めて、自分の犯した罪の重さを知るのである。これこそ真の教育に他ならない。要するに、人生を失敗させないように育てても、それは無駄な行為なのである。人は失敗して初めて教えられるのである。何故こう言うのかと言うと、神エホバでさえ、御自分の目の玉に入れても痛くない程に、愛している人類という子供に対して、あえて人が神を捨てた事柄の代償を人類に負わせる事を許す事により、人類を間違った道から立ち直らせるショック療法(荒療治)を選ばれたからである。何故なら、神はモーセを通して人に律法をお与えになり、聖書の出エジプト記20章13節からある様に、あなたは殺人をしてはならない、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、と書いてあるのである。しかし、これをもっと正確に言うならば、あなたは殺人をしてはならない、何故なら、あなたは必ず殺人をするからである、あなたは姦淫を犯してはならない、何故なら、あなたは必ず姦淫を犯すからである、あなたは盗んではならない、何故なら、あなたは必ず盗むからである、という事になるのである。すなわち、神は、律法を人類に背負わせる事によって、自分達の罪が必ず明らかになる様にされたからである。罪への自覚、これこそが真の教育なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何が誉れのある事で、偉大な業績であるかと言うと、それは、何か珍しい事や、1万人に1人にしか理解する、もしくは、実現出来ない様な難解で、困難な事を達成する事ではない。それはひとえに、むしろ如何に困難な事を誰にでも簡単に、容易に出来る様にするかであり、また、以前には、何の繋がりも無いと思われていたもの同士の中にある共通する関係を発見する事であり、また、究極的には、以前には、決して繋がる事の出来なかったものをあえて繋げる事にあるのである。これらは何かの関係に似ていないだろうか。そう、それは人間関係である。例えば、以前は、敵同士であった者が、仲良くなる事であり、職場で、何かと意見の食い違う部下と上司が、実は、過去に、同じ苦しい経験をしており、それを知って、互いが仲良くなる事であり、国民の窮乏を見るのに耐えかねて、普段は、決して会うことの出来ない貧民の指導者とその国王が、互いに対話し合う事柄が実現する等の事なのである。そうだ、偉大な事とは、何かの分野で、誰も真似が出来ない程、飛び抜けて優れているという事ではないのだ。私達は、そこばかりに目を向けがちだが、実際には、以前には知らない者同士が、知り合う事とか、それまでは、互いに反目しあっていた者同士が仲直りしたりする事の方が本当に偉大な事なのである。よって、あなた方も、もっと自分の心を広くして、気の合う仲間達同士ばかりで付き合わず、もっといろんな人とコミュニケーションをしてみてはどうか。そうすれば、もっと人生は、豊かで幅の広いものになるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人は、その親を敬い、それを愛さねばならない。なぜなら、目に見えるその存在無くしては自分が存在する事の出来なかった肉の両親を愛し、敬えない様であっては、ましてや、目には見えない神を愛し、敬うことなど出来ないからである。よって、自分は神を愛していると言いながら、目に見える仲間の人間を憎んだり、見下したり、殴ったり、殺したりしている者は、全くの偽り者であり、神の御名を冒涜しているのである。もし、神の名によって人殺しを正当化する事があるならば、神は彼を最も厳しく罰し、神の命の書からその名を拭い去られるからである。

2.この全世界の中で、最も偉大な事柄とは何か。それは、善行を行うこと、他の人を親切にすること、謙遜であること、他の人を敬うこと、などいろいろあるが、それに比べものにならない程、偉大なものがある。それは、諦めることである。鳥や動物達は、食物を得る為に、実に見事な能力と本能とを持って生きている。チーターは、最高時速100キロで走り、獲物を捕まえる。鳥は、何千キロもの距離を飛んで、移動し、渡りをする。それに対し、人間は、時速100キロで走ることも出来ないし、鳥のように飛ぶ事も出来ない。人間は他のあらゆる生き物から比べれば、遥かに劣った存在である。しかし、彼らには唯一、他のどの生き物にも持っていない素晴らしい特質がある。それは、我慢して諦める能力である。たとえ欲しい物があっても、お金が無いから、それを我慢して諦める。理想的な状態を思い描いて、精一杯努力したものの、遥か理想には届かなかった。それで人は、納得してそれを得ることを諦めるのである。他の生き物は、諦めるという事を知らない。彼らは食物を得られるまで諦めないし、生きる事に死ぬまで諦めない。しかし、人間は、たとえ空腹であっても、それを我慢して諦めるし、自分にとって掛け替えのない人間の為なら、自分の命を犠牲にして生きる事を諦めるのである。この一見無力の様に思える精神態度こそが、実は、一番人間を人間たらしめている偉大な特質なのであり、たとえ満ち足りていなくても、それで満足し、今ある物で生活し、生きようとする態度こそが、この全宇宙の中で最も全能な力なのである。まさに人間はこの物質世界にあって、他の生き物に対して神の様に偉大な存在なのである。なぜなら、聖書の創世記1章27節にあるように、[そうして神は人を御自分の像に創造してゆき、神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。]と書かれているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人とは、非常に恵まれた、愛情たっぷりの環境で育てられてこそ、初めて全うに、当たり前の普通の人間になれること。よって、普通になるという事が実は最も難しいのである。なぜなら、大半の人は、親や周りの人達からたっぷりの愛情を受けて育てられて来なかったからである。人によっては、過度に厳しく育てられていたり、ほとんど親にかまって貰えなかった者もいる。それどころか、最近では、親から虐待を受けて死んでしまう子供達もいる。この様に私達は、完全に正しく、全うに、愛情を受けて育っていない為、何かしらの欲求不満を持っている。それを子供時代に、ずっと心に貯め続け、遂には、大人になって、その弊害が爆発するのである。ある人は、離婚という実を刈り取り、またある人は、殺人という犯罪を犯してしまうのである。この様に悪い方向に向かわざるを得なかった人達もいれば、世間からは著名で有名な立派な人になる者もいる。その人はなぜそれほどまで、立派になったのか。これもまた、幼少の頃から、恵まれずに育った事が原因であり、その苦痛とコンプレックスから逃れたい一心でそこまでに至ったのである。やはり、これらの人達も、普通の人から見れば、なんでそこまでしなければならなかったのか、よく理解出来ない所なのである。要するに、悪行に走った人も、普通以上に努力して立派になった人も、精神的には、決して健康な状態ではなく、むしろ、精神的奇形児なのである。なぜなら、ごく普通の人なら、犯罪など毛頭犯す気も無いし、苦しみを忍んでまで、余計な努力をする必要性も感じないからである。よって、自分は他の人よりも、立派で有名になった、と自分の事を誇っている者よ、あなたは心の病気なのである。嘆き悲しみなさい。また、自分には何の取り柄もなく、凡人であると、嘆き悲しんでいる者よ、あなたは全く健康なのである。喜び踊りなさい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、臆病な者程、自分を恐ろしく見せたがること。なぜなら、実際の弱さがばれない様にする為である。しかし、本当に強い者とは、自分を弱く見せたがること。なぜなら、実際の強さがばれて、他の人が自分に恐れを抱く事を嫌うからである。また、人は頭が悪い者程、自分を賢く見せたがること。なぜなら、実際の頭の悪さがばれない様にする為である。しかし、本当に賢い者とは、自分を頭が悪い様に振る舞うこと。なぜなら、実際の頭の良さがばれて、他の人が自分に警戒心を持つことを避ける為である。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、自分一人が、突出して立派に成ろうとするから、孤独で不安になるのである。人は、自分一人の力だけで生きているのではない。多くの人の助力を得て、初めて生きていけるのである。例えば、あなたが会社に行けるのも、他の人が道路を整備してくれたお陰で、難なく車を使えば会社に無事着けるのである。仕事の帰り、今日は、残業が多くて疲れたので、自分で食事を作ることをやめて、近くのレストランで食事を済まそうと決めたとしても、そのレストランはあなたではない、全く別の人が経営してくれているお陰で、あなたは、初めてそこで、食事を済ませることができるのである。この様に、人が毎日の生活を円滑に過ごせるのも、自分の力だけでなく、他の人もあなたとは別の分野で働いていてくれるから、初めて可能な事なのである。この様に、自分が突出して立派になるという命題も明らかに間違った命題である事が分かる。人はみんながいてくれて、ようやく一人前なのである。しかし、人は、それをあまり考慮に入れずに、何か自分だけが偉くて立派な人物である事を期待したり、望んだりしているのである。この、人が人に対する対抗意識というものはどこから来るのであろう。そんな事は、どだい無理でナンセンスな事柄なのに、人は他の人に負けたく無いし、人の上に立とうとするのである。この原因は、やはり、人が生まれながらに誰もが持っている、劣等感というコンプレックスにあると考えられる。劣等感があるから、それを当然、人は克服したいと願う。よって、何かの分野で突出して有名に成ろうと努力するのである。そうすれば、自分にあるこの劣等感を解消することができると考えるのである。しかし、本質的に言って、自分が他の人より劣っているという癒しがたい心のキズを、他の人よりも優れた者に成る事によって解消しようとすることは、問題のすり替えに過ぎない。なぜ、あなたは、他の人に自分の心の心情を吐露して、互いに支え合わないのか。それこそ本当の問題解決の方法なのに、人はそうしようとはしないのである。自分の心の問題を癒す唯一の方法は、互いに対抗することでは決して無く、あくまでも、互いに協力しあって、支え合い、慰め合うことでしか、解消されないのである。これはやはり、人の心の傾向が、野心に満ちているということを示すものである。人は、他の人に対して神の様に権力を振るいたいという利己的願望を持っていることの証拠である。そう、私達には、元来その様な罪の意識を持っているのである。これは、悪魔サタンが、神の主権に対抗し、自分が神の様になりたいと野心を持ったことに起因するのである。その同じ様な野心を、悪魔サタンの言われるままに、神の禁じた木の実を食べた最初の人間達、アダムとエバも持っていたのである。この利己的な罪を犯した事を土台として、人間社会は連綿と形成され構築されていったのである。よって、私達の住むこの世の中は愛の無い弱肉強食の世界なのであり、それが人々を利己的に成らせ、互いに協力するという事を難しくしているのである。ここから、悪い意味での、人間間の競争が始まっているのであり、その故に、本当の解決方法を知らない人々は、餓え、渇き、孤独に悩まされ、不安と恐れを抱いて生きていかざるを得ない様に、自分達でそうしているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、他の人の行う悪行を見て、ただ単純に激しく憤る必要は、全く無いこと。本人は、ズルをして、さも上手くやり通せた、と得した気分になっているかもしれないが、実際には、それに対する悪い報いを既に全部受けているからである。例えば、彼は、人からお金を借りて、後でちゃんと返すと言っておきながら、ずっとそれを返さずにいて、返すのをうやむやにしようとしたとする。しかし、お金を貸した側は、彼が一向にお金を返さないのをずっと覚えており、二度と彼にはお金を貸したくないと決意する。彼はそれを決意するだけでなく、本人には知らせずに、周りの友達に彼は借りたお金も返さない優柔不断な男だと吹聴する。それを聞いたある友が、たまたまお金を返さない男の親友だったとする。彼はそれを聞いて、密かに彼と仲良くするのを止めようと決意した。そこで、お金を返さない男が、その親友に親しげに話しても、もうその親友は、心の中では、彼を避けていて、表面的には親しい様に見せかける。実は、彼がお金を返さない事を聞く以前には、彼はその男にガールフレンドを紹介してあげようと思っていたのだが、それも止める事にした。これによって、その男は以前からガールフレンドを持ちたいと思っていた願望が、自分のそのお金を返さないと言う悪行の故に、叶わなくなったのである。この様に、人は巡り巡って自分の知らないところで自分の過ちの故に、損失を被ることになるのである。よって、すべての人は、自分の行いの当然の報いを既に全部受けているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、日々楽しそうにしている人達の姿を見て、単純に羨ましいと思うかもしれない。しかし、人間は、楽しむという事においてすら、自発的努力が必死不可欠なのである。例えば、楽しそうにお喋りしている人は、日頃から、新聞や雑誌などに毎日目を通して、何か話題になる様な内容のものが無いか努力して探しているのである。また、絵を描いて楽しむというレベルに行くまでには、相当の努力が必要である事は言うまでもない。要するに、ただ何事も受け身で何か楽しい事は無いかと待っていても何も来ないのである。あくまでも、自分から努力して始めなければ、ただ、寝るだけか、ぼーっとしているだけか、テレビを見たりという退屈さしかないのである。結局、人間は、どれだけ怠け者であっても、自助努力をしなければ、暇すぎて、気が狂ってしまうのである。すなわち、人間は、決して、怠けられない様に出来ているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、死であっても、それが死ぬべき時に死ぬ事、死に値するものが死ぬ事、もしくは、本来死ぬべきものが死ぬ事は、秩序ある正しい事柄なのである。それが、もし、成立しないとすれば、それは正しくない、すなわち、悪という事になるのである。例えば、生き物の体の新陳代謝として、細胞とは、生まれて来ては、それが古くなると、死んで、また新たな細胞が生まれて来るという事が、細胞としての正しい性質であり、もし細胞が古くなっても死なないとしたら、それは正しくない、異常な事なのである。よって、人間が死を忌み嫌っているのは、人間という存在が、死ぬべき様な存在として造られていないという事の感情的な証なのである。もし、人間が最初から、死ぬべき存在としてあるのなら、人間にとって死ぬ事は当たり前のことであり、それは正しいことであり、死を忌み嫌うはずも無く、むしろ、死ぬ事を喜ぶはずなのである。しかし、人間は人の死を喜ばないのである。これは、本来人間は死ぬ存在では無かったという事を示しているのである。ここで、聖書の言う永遠の命というものも、ただの絵空事ではなくなって来るのであり、にわかに現実実を帯びて来るのである。