今日の箴言
今日の栄光は、明日の挫折であること。なぜなら、昼が来た後には、必ず夜が来、収穫の秋が来たなら、その後は、必ず厳しい冬がやって来るからである。よって、順境の時や、春の時期は、自分を富ましたり、贅沢に、面白可笑しく暮らす為にあるのでは決してなく、その後に必ず訪れる厳しい逆境や冬の時期をなんとかしのぐ為の、少しも無駄に出来ない準備期間でしかないということなのである。
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今日の箴言
今日の栄光は、明日の挫折であること。なぜなら、昼が来た後には、必ず夜が来、収穫の秋が来たなら、その後は、必ず厳しい冬がやって来るからである。よって、順境の時や、春の時期は、自分を富ましたり、贅沢に、面白可笑しく暮らす為にあるのでは決してなく、その後に必ず訪れる厳しい逆境や冬の時期をなんとかしのぐ為の、少しも無駄に出来ない準備期間でしかないということなのである。
今日の箴言
健康の定義とは、具体的に言って、物質的にも、精神的にも、何かが欠けている欠落感とか、何かが余計で、負担感を感じる、ということが無い、充実した状態のことを言うこと。
2.見える人を愛せない者が、見た事の無い神など愛せる訳が無い。また、見える人を許せない者が、見ることの出来ない神を許せる訳が無い。また、見える人を褒めることが出来ない者が、見た事の無い神を讃えることができる訳が無い。また、見える人を恐れない者が、見ることの出来ない神を畏れるはずが無い。また、見える人に、辛抱出来ない者が、見ることの出来ない神を辛抱できる訳が無い。また、見える人に対して、謙遜に出来ない者が、見えない神に対して謙遜になれる訳が無い。また、見える人と共に分かち合い、共有することの出来ない者が、見ることの出来ない神と共に、知り合い、親しくなれるはずが無い。
今日の箴言
人は、内面(心)が変わったり、向上したりすると、以前とは全く変わらない同一の物事の様子や景色も、それ以前には、決して知り得ることが出来なかった、別の見方や感じ方ができるようになること。
2.およそ、この世の中にあるすべての意見は、たとえどれだけ義に適っていると思えても、必ず何かに、偏っているものであり、決して、平衡の取れた客観的なものではない、あくまでも、主観的なものであることを、わきまえ知っておくべきこと。
3.貪欲さ、執着とは、精神的な借金を抱えているようなものであること。
4.この世界の営みにおいて、最も価値ある、ただ一つのものは、物事や、相手を信頼し、信じるという信仰心という態度であること。
5.その人が、魅力的に見えるのは、決して、外見の良さではなく、あくまでも、目には見えない、その人の精神性の公平さ、平衡さ、スマートさから来ていること。
今日の箴言
あれこれ、いろいろと、こうすれば、恐らくこうなるだろうと想像して、まるでしたような気分でいることと、その中の一つでも、実際に行ってみることとは、全く別の事柄なのである。
2.この世界にあって、すべての人の立場は、まさに、人を保護する屋根なり、壁なりが取り払われた、全く無防備の中で、風雨や激しい嵐に、為すがままに打ちつけられている状態の構図なのであり、荒れ狂う波の中にいる、全く無力な船のような状態のただ中にいるのである。
3.人を殺すのに、何も大掛かりな殺傷武器など必要ない。ただ、各々、その人にとって、一番悩んでいる、その人の一番弱い所を、ただ、言葉という剣で刺せば、それだけで、人は、たちどころに死んでしまうのである。それだけ、悪意のある言葉による中傷は、殺傷能力が高いのである。
今日の箴言
すべてを得ようとするからこそ、失うということも、生じ得るのであり、初めから、得ようとしなければ、失うということも全くないということである。
2.それをすることができるすべての条件が、全く整ったから、それをするという構図は、それ自体は、何の価値も無い死の状態であること。しかし、それをすることができる条件が全く整っていない状態であっても、あえて、それをできるようにする構図こそ、初めて、それ自体が、全く価値のある機能性100%の命ということであること。すなわち、1から、1を産んでも、それは、当たり前であり、そこに何の付加価値もない。要するに、1しかない所から、2を生み出して初めてそれに、付加価値が付くのである。別の言い方をすれば、有から有を生み出しても、それは何の意味もなく、まさに、無から有を生じさせなければならないのである。そこに初めて意味があるのである。
今日の箴言
公理とは、あくまでも、物事すべての基本となる、証明を必要としないことを言うから、その場合、次の3種類が考えられる。
1.それ自体、証明することが全く必要のない程、すべてに対して自明の理である事柄のこと。
2.それ自体、証明することが全く不可能な程、すべてに対して絶対的である事柄のこと。
3.それ自体、証明することが全く無関係である程、すべてに対して影響力がない事柄であること。
これらを公理の条件としよう。
今日の箴言
誰であっても、自分のしたいことだけしていたい。しかし、長い人生、時には、必要の為に、全く苦手なことも、あえてしなければならない場合があるということである。
2.何が正しくて、何が間違いかを議論することは、まるで、ウサギとタヌキは、どちらが優れていて、どちらが劣っているかということを論ずるような、的外れな事を言っているのに等しいのである。あくまでも、ウサギとタヌキは、共に、それぞれ別の種類の生き物であり、それぞれに、独立しての存在理由を持ち、初めから比べられるものではないからである。
3.はっきりと言っておく。誰かが何の宗教に入っているかとか、あなたはマスタベーションをしているか、していないかとかは、極めて個人的な事柄であるということである。よって、本人以外の誰であろうとも、それに対してとやかく言って、個人の行使権を侵害する権利は決してないということである。すなわち、その宗教に入っているから、もしくは、あなたはマスタベーションをしているからと言って、第三者が、それを良い、悪いと言い得る資格のある者は、一人としていないということである。よって、一人の人権は、一人が一単位であって、親すら別であるということである。
今日の箴言
健康とは、あくまでも、神からの人に対する無償の賜物なのである。ここで、無償の賜物とは、その人が立派だから与えられ、その人が愚かだから与えられないというレベルを遥かに超越した力によるものであることを意味しているのである。
2.ただ、単に、駄目な者が本当に駄目な者では決してないこと。ただ、人のことを駄目だと言う者が、初めて本当に駄目な者であること。
3.人は、自分自身のことを、他の人のように扱うことにより、自分で自分のことを無責任に、軽率に、酷く扱うのではなく、あくまでも、人は、自分自身のことを自分のことのように扱うことにより、自分で自分のことを、責任を持って、真剣に、大切に扱うようにしなければならないのである。人は皆、誰でも、男であっても、女であっても、良いことも、厭うべきことも、自分の好きなように自分でできる代わりに、また、得することも、損することも、自分自身についてのことは、全く自分だけが責任を負わねばならないということなのである。しかし、逆に言えば、自分自身が、責任さえちゃんと全うさえしていれば、良いことも、厭うべきことも、その人にとって、好きなように行っても、誰も、ましてや、神さえも、何も言えないということなのである。よって、神のクリスチャンに要求される従順さも、ただ、何も知らない子供心の様な、盲目的従順さなのでは決して無く、あくまでも、自分達の意志で決定した自発的従順さが求められているのである。
今日の箴言
他の人に対して、過度に、批判的、厳しい規律を強いる傾向のある人達に言えることは、人間、誰でも、ある程度の規準に達していて、常識をわきまえているなら、たとえ、その人が何をしていようとも、別の同じ人間が、それについて、あれこれ、とやかく言うことは、あくまでも、出来無いということである。
2.人にとって、たとえ、どんな些細な事でも、どんなことがきっかけで自分自身を変える機会があるかは、わからないのである。
3.一口に言って、神の愛、もしくは男らしさ、大人らしさとは、相手の醜い部分をありのままに受け入れてあげる包容力の事であるのである。
4.はっきりと言っておく。利他的精神に富んだ者こそ、初めて、人間的にも魅力のある人間であると言えるのであり、それは、俗に言うとモテる人と言うのである。よって、それが自分に欠けているのに、どれだけ外見を良く見せても、駄目だということである。すなわち、心のスマートな人間こそ、初めて、魅力的だということであり、相手に対してしつこかったり、貪欲だったりしては駄目なのである。本音では、もっと本当は聞き出したいし、もっと本当は欲しくても、そこを、あえてぐっとこらえる自制心、忍耐力、辛抱強さこそが求められているということなのである。
今日の箴言
学校の先生だけが、自分の教師だと思ったら大間違いであること。彼らは、単に、学問についての教師であって、人生についての教師でもあるか、と言えば、決してそうではないのである。よって、人は、視野をもっと広く取るよう努力し、頭を柔軟にして、この世界すべてに存在している、どんな些細な事柄、もしくは、あらゆる人々の考え方や行動がどんなに小さくて、一瞬の事であっても、それに注意を払って、そこから何かしらを、学ぼうという態度を培うなら、あなたの周りにあるすべてのことが、自分にとっての貴重な、人生の教師となり得るということである。
素直な人間になるとは、何でも人の言うことに従うということを意味しているのでは決して無く、ただ、自分の悪い所も、弱い所も包み隠さず、自分のありのままを人に出しているという謙遜で、勇気のある人間のことを、初めて意味しているということである。