高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中が豊かになって、高度な文明的社会になって行けば行くほど、男は女性的になり、女性が男性的になって行くのである。本来、男らしさとは、道なき道をゆくという、道が無いなら、自らがそれを創造していく雄々しい能動的精神のことをいうのであり、女は、あくまでも、既に整えられた道を後から付いて来る受動的で保守的な面では、優れているということであったはずなのである。よって歴史が証明するように、必ず文明社会は、消極的ヒステリーの典型である、デフレーション社会に陥り、生命的活力とも言えるイノベーションを失って、ゆくゆくは、滅びてゆく運命にあるのである。要するに、社会全体が、他力本願になって、自分でどうにかしようという生きていく力が衰え、他に依存しようとする気持ちが全体を占めるようになり、社会全体が女性的になり、活力と活気が失われていくのである。これがデフレーションという社会現象なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

現実的に言って、この世界は、とことん良いままか、とことん悪いままかのどちらかしかないこと。すなわち、少し良くて、少し悪いとか、ほとんど良くて少し悪く、また、ほとんど悪くて少し良いなどと言う曖昧で、分かりにくいものは、決して意味を成さないということなのである。なぜなら、少し嘘で、ほとんど本当だ、とか、少し頑張って、ほとんど頑張らないとか、少し男で、ほとんどの部分が女だとかを主張する者がいたら、一体、誰がその人を認めたり、信用したり、従業員として雇いたいと思うであろうか。誰も思わないのである。よって私達の選ぶ道もただ、二つのうちのどちらか一つしかないのであり、それは、神への従順か、それとも、悪への道かのどちらかしかないということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もが、多くの人々の注目を集めて、名声を得たい、有名になりたいと思っている。しかし、あなたの知っている有名人を思い起こして欲しい。どうだ、すぐには思い出てこないだろう。所詮、有名人でもその程度なのだ。確かに、彼らは大人気になり、誰もが熱狂し、人々を夢中にさせた絶頂期があった。これすら、過去形である。すなわち、どんなに人気があっても、必ず、絶頂期を過ぎると、次第に人々から飽きられ、いずれは、忘れ去られてしまうのである。本人達に残るのは、あの頃は良かった、でも、今は、思い出でしかない、という虚しい思いだけなのである。彼らの人生は、浮き沈みの激しい不安定なだけの人生であり、彼らは一回、絶頂を味わっているだけに、余計に、虚しさと、未練が募るだけなのである。その点、ごく普通の凡人は幸福である。なぜなら、彼らの日常は、平凡かもしれないが、浮き沈みの無い安定した生活を送れるからである。昔は良かったが今は、という虚しい思いになることも無く、心の状態は、安定しているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人を、批判することは、他の人を自分より低めて、人を利用することにより、自分を高める、相手の人間に対する依存行為に等しいこと。

2.すべて、初めから興味も無く、また、聴こうとする気持ちの無い者に対して、理解させる術は無いこと。

3.厳しい試練や誘惑、また、迫害によって初めて、人は、自分の信仰心の質が計られ、かつ、向上できること。

4.神にすら従えないで、一体何に従えるというのか。

5.いきなり、悪が確固として固定されてあるのでは決して無く、悪も一つの流れの中の一つの要素に過ぎないこと。すなわち、1.不適合→2.危険→3.悪の順であくまでも、あるということである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんなに無駄にしか見えないことがあったとしても、およそ、この世界に無駄で全く不必要なものなど最初から一つとして無いということである。

2.どんな人間であろうとも、必ず一つ、神のように洗練された部分を持っていること。すなわち、全く駄目な人間もいなければ、また同時に、全く良い人間もいないということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

平気で悪行を行う者は、逆に同じことを、決して、自分がされたくないと思う者なのである。それに対し、自分が悪行を受けて、それに耐えられる者は、逆に、決して悪行を行わない者なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神を信じていない者も、実は神を信じている。これはなぜかというと、神とは、究極の目標で、夢中になり、憧れる、崇敬の対象と定義する。すると、その人が神を信じていなくても、その人にとって、お金が心の拠り所なら、その人にとってお金が神なのであり、彼が名声を追い求めているのなら、彼にとって名声が神なのであり、また、彼女が恋愛に夢中なら、彼女にとって恋愛が神なのであり、またある人が無類の酒好きなら、その人にとって、お酒が神なのであり、またギャンブルが止められないなら、その人にとって、ギャンブルが神なのである。よって、神を信じていなくても、すべての人には、何かしらの自分が夢中になっている事柄が必ずあるのであり、その意味においては、誰もが皆、何かしらの神に夢中になって信じているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中で、最も危険で、最も愚かで、非現実な考え方であり、そうして、誰もが全く信じ込んで、頭から疑わない、一見、最もらしく映る考え方とは、すべてただ一つ、真理とは何であるかという、真理を突き詰める対象であるかのように見なして、それを追求する考え方のことを言うのである。これは人間がたやすく陥る、最も人を堕落させるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世の中のことは、常に、視野を広くとって、全体を考慮に入れて判断すべきこと。すなわち、この世の中、嫌なこともあれば、楽しいこともあるし、悲惨なこともあれば、建設的なこともあり、貞潔なこともあれば、淫らなこともあるというふうにである。このように、ある一方を重視し、他方を軽んじて、偏った見方をするのではなく、常にバランスを保ち、平衡の取れた見方をしていけば、ある一方的な考えに縛られたり、捕らわれたり、取り憑かれたりすること無く、平安な状態でいられるのである。しかし、人々は、それぞれ沢山ある中の、単なる一つのことばかりを頭に押し込めてしまうことにより、頭がおかしくなったり、苦しんたり、悩んだりするようになるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

同類は、互いに知らずに集まっていること。

2.現実は、私が思っていた以上に、全く予想を遥かに超えて、複雑であり、強大であり、巨大な存在であったのである。これにより、少しばかり人より差をつけても、全体から比べれば、何も変わらないのに等しいことに、全く気付かされたということである。

3.人は同じ人に対して全く無知であり、全く無力な存在であること。なぜなら、ある人にとって、必要不可欠な助けがあって、人がそれを助けたくても、それが、その人にとって、お節介や、失礼なことであったりしてしまうからであり、人が人にできることには、自ずと限界があるのである。

4.自分の限界を知らない者は、自分を知っていない者であり、ほとんど何もしたことのない者であること。

5.私は一つだけ悟ったことがある。それは、人にとって、辛い思いは、本来、初めから一つとして経験する必要のない、全く余計なものであるということである。