高田義裕の人生論

今日の箴言

この世に汚いというものは存在しない。ただ各人が汚れていると見なすものが初めて汚いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

組織と個人

まず個人の長所を見ていこう。そこには本人一人しかいないので比較的物事の用い方を自分好みに自由に設定でき、かなり融通がきくであろう。例えば、彼がクリスチャンならば自分の好きな時に聖書を読んだり、神に祈ったりできる。そこに第三者のしがらみはない。彼のクリスチャンとしての努めをきちんと果たせる責任感や自主性があれば、たとえ聖書では非とされているこの世の政治問題にも関心を持ってテレビを見たり、その手の本を読むことも自由である。それは罪とはならない。しかしここで個人の短所を見ていこう。個人は自由である分、クリスチャンとしての責務をただ自分の意志次第で左右されやすいため、持続意志の弱い人は、つい自分の弱さに負けてクリスチャンとしての責務をおろそかにしてしまいがちである。また、クリスチャン活動を行うにしても、すべて自分が担当し準備し、行わなければならないので、非常に大変なことになって、途中で挫折してしまう危険性が多分にある。次に、組織の長所を見ていこう。組織は一人だけでなく多くの組員がいるので、組織としての責務をみんなで協力して比較的スムーズに運んでいける。また、組織の決まり事を実行する上で、たとえ持続力的意志が弱い人がいても、他の成員が彼をサポートし、一緒に助け合いながら責務を全うすることができる。次に、組織の短所を見ていこう。多くの人を組織として一つにまとめるためには、必ず全員に共通して守らねばならない規範、また規律が必要不可欠である。例えば、それがクリスチャンの組織であるとするなら、聖書を読んだり、神に祈ったりする時に、一人一人が勝手にするならば、それは統率が効かなくなって集団は分裂してしまう。要するに、個人個人の融通が利かなくなるのである。そういう意味においては、はるかに個人にとって不自由なことである。また、個人個人には能力の差があり、責任感の非常に強い人もいれば、非常に弱い人もいる。そうした場合、組織の一員としては能力の強弱に関係なく、すべての成員が一番能力の低いレベルに合わせなければならないのである。すなわち、前半に出てきた、たとえこの世の政治問題に関心を持っても罪とはならない人でも、一切この世の政治に関する資料や情報を閲覧してはならないという全体主義がはびこってしまうということである。すなわち、個人の権利が損なわれてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今日は少し、経済学について考えてみましょう。

資本主義の限界

現在、西暦2018年1月6日において経済社会は大きな曲がり角に来ている。ゼロ成長、マイナス金利、デフレ型不景気において、経済は大きく低迷している。ここで気をつけたいのは、これは、どの時代にでも訪れる単なる不景気ではないということである。現在の景気低迷は資本主義という原理そのものに限界が来ていることを示す非常に深刻な問題提示なのである。資本主義の原理とは、利潤追求の飽くなき欲望ということもできよう。すなわち、多額の金を持った投資家が成長の見込める企業に資本を提供し、その代償として利益を得ることである。簡単に言えば、自分の手元に、出来るだけ多くの金を貯め込むことにあるのである。すなわち、より多くの富を得ようという意思が現在の資本主義経済を動かしている原動力である。しかし今日、この原動力そのものが働かなくなってきているのである。これは何かというと、もはや利潤を追求できる分野が無くなって来ていることを示している。要するに時代の趨勢が幼年期から熟年期、そうして老年期に来ているということである。いわゆる開拓地が無くなり、人が草を食い尽くし、どんどん砂漠地帯が増えてきているということである。しかしこれはあくまでも、表面的原因でしかない。もっと深くて原理的原因がある。それは儲けようとしている態度にこそあるのである。本来、富を得ることそれ自体が罪なのである、と聖書は述べている。どんな食物でも放っておけば、必ず腐って食べられなくなることが自然な物事の摂理ではなかろうか。しかし貨幣はどれだけ放っておいても腐ることが無く、幾らでも貯めておける。これは本来の自然の姿からは、かけ離れている。すなわち非常に不合理なものなのである。本当なら貨幣もある程度貯まったり時間が過ぎれば、価値が無くなるものでなければならないのである。よって資本主義の成れの果ては、一握りの人々が天文学的な額の金を持ち、大半の民衆は、明日の食事も事欠くほどの貧民となる。貨幣という紙切れは有り余るほどにあふれるが、決して全体には行き渡らない。要するに、誰も汗を流さないで食物を得ようとする状態のようになるのである。要するに近い将来、金を払っても誰も働いてくれなくなるのである。要するに、金は全くの価値が無くなり、貨幣という紙切れは元通りに紙切れに帰るということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

新貨幣論

お金持ちは1対1対応ではないことを以前に示した。すなわち、一人の人間が何十億、何百億とお金を持つのがその状態であるから、これを数字で表すと、1対1000000000であったり、1対10000000000であったりするということである。ここで一人の人が一万円しか持っていないのであれば、これは1対1対応であるということができる。ここで1から1を割り算すると、1÷1=1であり一万円は一万円の価値を持つ。しかしここで一人の人が百万円持っているとすると、1対100となり、これを同じく1を100で割ると、1÷100=0.01となり、百万円が100円の価値しかないことになる。そう、一人の人間が多額のお金を持てば持つほど、そのお金の価値は低くなっていくのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しいとは何か。それは1対1対応であるということである。すなわち、1に対しては1、2に対しては2、3に対しては3ということである。では間違いとは何か。それは1対1対応ではないことである。すなわち、1に対して2、2に対して3、もしくは3に対して4ということである。これはひどいのになると、1に対して100とか、1に対して10000になるということである。これは引き算をすれば分かるように前者は99個、後者は9999個も余剰分があるということである。これは明らかに異常であり、めいっぱい無理をした状態だと言える。例えれば、2リットルしか入らないレジ袋に無理矢理、5リットル分を入れようとすることに似ている。そんなことをすれば、いずれ袋が裂けてしまうことは目に見えている。言い換えるなら、富むということは甚だしく間違ったことであるということが分かる。

高田義裕の人生論

今日の箴言

およそこの世に楽などしている者は一人としていない。皆自分の仕事や、悩みで問題を抱え、苦しんでいる。例え、百歩譲って、仕事もする必要もなく、何の悩みもない者がいるとしても、それでも彼は決して楽をしてはいない。なぜなら、彼は苦しんでいる者から見ると天国のような生活を送っているとしても、彼自身にそのような自覚はないからである。すなわち、自分の現在の境遇を当たり前のことに感じており、何の感謝もないからである。いや、むしろ今現在の状況に満足しておらず、不満さえ抱いている。そう、すなわち幸福感がないのである。その意味で彼もまた決して楽などしていないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神が造られたこの人間という体は実に複雑に、かつ精密に巧みに造られている。それに比べれば、人間の造ったものなどはガラクタに過ぎない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最大は最小に等しい。これは例えれば、自分のことが一番よく分かっているのが自分自身であり、かつ自分のことが一番分かっていないのが自分自身であることと同じである。