高田義裕の人生論

今日の箴言

謙遜とは何か。それは、腰が低くて、へりくだっていることである。それでは、自分は気が弱い為に、結果として相手に対して腰が低いという事は謙遜か。それは必要に迫られて、仕方なくやっている意味であれば、それは謙遜ではない。それでは、神は謙遜か。神は人々の悪い行いに対して、怒ることもできるが、それを忍耐し、辛抱して人々がその悪行を悔い改めるのを待っておられるとする。ここで、謙遜とは決して怒らないことと定義する。しかし、神は、今怒るのを差し控えて我慢しているとするならば、いずれは限界に来て、その怒りを人間にぶちまけるのではないだろうか。それでは、結局は、神も怒るのだから、先程の定義に従えば、神は謙遜ではないことになってしまうのである。

2.私は昨日、自動車運転免許の更新手続きに行って来たのだが、そのちょうど一カ月ほど前に、シートベルトをしていなくて、白バイクの警官にキップを切られてしまった。もし、その事がなければ、自分の家から最寄りの警察署で更新出来たかもしれなかったのだが、その違反の為に、私は、自分の家より遠く離れた運転免許センターまで行かなければならなかった。おまけに、120分もある違反者用交通安全指導の講習も受けなければならなかった。しかし、改めて、この交通安全教室の講習を受けて、いかに普段身近に運転している自動車というものが、危険であり、事故を起こすことによって、加害者や被害者が受けるダメージは底知れない事であることかを再認識させられた。日本では、自動車運転の違反が全く無い優良ドライバーは優遇され、遠くの運転免許センターまで更新しに行かなくても良く、また、安全教育の講習も免除される。しかし、私がここで感じた事は、例え、優良ドライバーであっても、安全教育指導を受けるべきだと思った。なぜなら、例え、優良ドライバーであっても、教育指導を受けなければ、日々、改正される道路交通法についての知識も知ることが出来ないし、自分の運転に慢心して、つい、気が緩んで、いかに安全というものが、大事なことであり、有り難いものであるかという認識が薄れてしまいがちだからである。その意識の欠如こそ、悲惨な交通事故を引き起こしてしまうからである。やっぱり人は、その優劣に関わらず、交通教育だけに限らず、様々な分野において、定期的に教育を受け続ける必要があると思う。なぜなら、私達はとにかく、忘れる生き物だから、定期的に認識を心に植え付ける為の訓練が必要だからである。およそ、この世界で、誰にも感化され無くても、自分の言動を常に律していける人間など一人もいないからである。こう考えると、何の違反も無いゆえに、何の教育指導も受けなくても良い人よりも、むしろ、何かの違反を犯したのがきっかけで、教育指導を受けた人の方が、よほど安全ドライバーになれるのではないかと言う思いに至ったのである。すなわち、罪を犯して、服役している者の方が、普段、何の罪も犯さずに、普通に暮らしている人よりも、その罪の重さをよく認識しているゆえに、罪を犯しにくいのではないかと思うのである。よって、次に最も罪を犯しやすい者の予備軍は、何の罪も犯さないゆえにまた、罪の重さも知ることのない普通の人達かもしれないのである。

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