高田義裕の人生論

今日の箴言

造ろうと思えば、言い訳も逃げ道も幾らでも造れるのである。要は、すべて心に拠るという事である。よって、たとえ、同じ事をするにしても、どういうつもりでするかによって、それらは別のものになるということである。例えば、他の人から、褒められたいという理由で親切にするのと、本当に相手の事を気遣って親切にするのとでは、全く意味が違うのである。前者は、見た目には、立派に映るが、内面は、強欲であり、後者は、見た目には、地味に映るが、内面は、立派なのである。

2.神エホバは、どちらかと言えば、受ける喜びよりも、与える喜びを得させる為に、人を創造されたと言える。

3.たとえ、恵まれていても、それが自分の手によって、得たもので無ければ、本当に恵まれているとは、言えないこと。例えば、大金持ちの息子がどれだけ恵まれていたとしても、それは、自分の力で手に入れたものではない故に、彼にとって、ゴージャスな生活は、当たり前であり、何の喜びも感動も無い普通の事である。しかし、その父が事業に失敗して、すべての財産を失った。彼らはボロボロの狭い小さなアパートで住む他無くなった。その時、息子は、以前の生活がいかにゴージャスで恵まれていたのかを悟った。そして、悔し涙を流しながら、奴隷労働をして働いた。そして、以前当たり前の様に持っていた高級時計を目にした時、いかにその時計が手に入れにくい程、高価な物であるかを思い知らされた。彼は、一発奮起し、その時計を買う為に、食事も節約し、不眠不休で働き続けた。そして、ようやく、10年後に、その時計を自分の力で手に入れた。もうその時の苦労が報われた喜びと、感動で彼は泣きながらその腕時計を手にはめた。そうである。こうして、彼は初めて、自分は恵まれているという気持ちという実感が湧いたのである。

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