高田義裕の人生論

今日の箴言

無価値が無価値を支える事は出来無い。愚かさが愚かさを支える事は出来無い。無知が無知を支える事は出来無い。では、過ちを支えてくれるのは誰か。それは過ちを犯していない者なのである。私達は実に罪深く、いろんな過ちを犯す。それで世の中に罪が蔓延し、悪が満ち溢れているのを見て、人々は悲嘆し、神などいないと言う。しかし、それは逆である。罪深い悲惨な事柄が存在すればするほど、それは神の存在の確かさを証明するものとなるからである。なぜなら、悲惨な事柄を悲惨な事柄としてその存在を許す事が出来るのは、正しい事柄が存在するが故にだからである。すなわち、病気の者を支えてやれるのは、同じ病気の者では無く、あくまでも、健康な者だからである。例えで考えて見ると、今、1人の盲人がいて、自動車が激しく行き交う道路を横断しようとしている。もし、盲人が盲人を手引きするなら、2人とも自動車に跳ねられて死んでしまうであろう。やはり、盲人を案内するのは目が見える健康な人がするのであり、愚かな者が愚かな者を導くのでは無く、賢い者が愚かな者を導くのである。また、私達は自分のした事さえ、昨日の事も忘れてしまっているが、それは逆に言えば、すべての事を忘れる事なく、全部覚えておられる存在がある事を証明している。それは神である。あなたは傷を付けるとき、既に傷が付いているものに傷を付けたからと言って、それは傷を付けた事にはならない。あくまでも、最初から傷が付いていない清くて正しいものに傷を付けてこそ、初めてそれは傷を付けたという事が言えるのである。よって、この世界に悪が存在できているのは、善という正しい方、エホバ神が存在しておられる故になのである。なぜなら、悪という傷が、悪という傷に傷を付けるなら、悪自体が分裂している事になり、悪は悪としてその存在を成立させる事が出来無いからである。

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